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2019年4月28日 主日朝礼拝説教「復活の主、尽きぬ宴」

2019年4月28日 主日朝礼拝説教「復活の主、尽きぬ宴」

列王記上17:8~16 ヨハネ福音書2:1~11  山本裕司 牧師

「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」(列王記上17:16)
 

「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ福音書2:5)

 主イエスは沢山の奇跡を行って下さいました。嵐を鎮め、病気を癒やして下さいました。しかし全ての奇跡に先んじて行って下さった奇跡こそ、カナの婚礼における、尽きないぶどう酒を生み出す奇跡だったのです。
 この時代、婚礼の祝いはとても長く続きました。その時ぶどう酒がなくなってしまう。それでは、それ以上宴会は続けることは出来ません。婚礼の喜びは早々に終わってしまう。それは婚礼の祝いにおいて、不吉なことではないでしょうか。つまり、ここで結婚した夫妻の愛の喜びもまた早々と終わってしまうことを、切れたワインは暗示しているのではないでしょうか。蜜月・ハネムーンと申します。しかしその期間は1年でしょうか。いえ「月」と言うのですから一月のことでしょうか。最初は蜜のように甘かった二人が、しかし僅か一月で、もう苦汁を互いに嘗めさせるようになる、ということでしょうか。
 最近、離婚者はとても多くなっている、毎年20~30万組の離婚件数があるそうです。この数字は、女性の自立とも関係が深く、妻たちが本音を出しやすい時代が到来したというだけのことかもしれません。また表面、離婚はしていなくても、既に二人の心は水のように味を失っている、そういう関係も多い。夫の暴力や理不尽な振る舞いに、我慢に我慢を重ねた末、離婚した女性も多い。もし一緒にいたら、もっとおかしくなってしまう。死んでしまう、子を殺してしまう。そういうこともある。それを防ぐために、離婚という非常手段も、やむを得ないことです。

 しかし、それでもそれは悲しいことには変わりありません。使徒パウロは「愛は決して滅びない」(コリント一13:8)と言いました。愛とは永遠と関わる。だから教会で行われる結婚式の時、牧師は二人に問います。「あなた方は、今から後、幸いな時も、災いに遭う時も、健やかな時も、病む時も、互いに愛し、敬い、助け、終わりまで、ともに生涯を送ることを約束しますか。」
 結婚だけではない。私たちの友情も、師弟愛も、教会への愛すらも…、いえ、多くの愛の中でも、ときに教会への愛くらい短命なものはない、そうとしか言えないような姿を、私たちは目撃します。信仰の平均寿命は数年などと指摘されています。洗礼を受けた頃、教会を喜び、説教は味わい深いと誉めた人が、やがて、あの教会は「水」のようである、というような意味を口にし始める。説教は「水」のよう、牧師も「水」のよう、無味乾燥と。
 その「水」牧師も、若者だった頃、全てを捨てて献身した頃、神への情熱で輝くような神学生だったかもしれない。その説教は巧みではなくても、熱と新品の切れ味に満ちていた。しかしその説教が錆び付く。心が冷えたからです。美人薄命と言う。美人の寿命は短い。そうではない、薄命だから美人として記憶されたのです。
 最初の頃、凄かった男が、美しかった女が、すっかり色褪せて、あの頃の激しい気持ちも、純情も消えて、ただ残り火をひきずって、それでも生きている。そういう友を見ることがあります。私たちの世界がいかに、常が無いと書く「無常」であるのか、その虚しさが年を取るにつれて強くなる。そうであれば、長生きとは何なのでしょうか。長過ぎる祭りとは何なのでしょうか。

 ワインが切れる。母マリアはこの不吉なしるしに不安になり、御子に「ぶどう酒がなくなりました」と告げました。しかしイエスは、この時、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ福音書2:4)と言われた。これは余りにつれないご返答ではないでしょうか。このカナの物語を「文学」として読んだ時、この御言葉は物語の繋がりを切る、余計な言葉ではないかとさえ思われます。
 しかし私はこう思いました。「わたしの時はまだ来ていません」、そう言われれば、そもそも結婚式に「キリストの時」が必要だと、どれだけのカップルが思っているでしょうか。所謂「教会式」を希望する若者は多い。しかし、「大安」を選んでも、「キリストの時」を結婚吉日と覚えることはない。むしろ葬式の時こそ、人は「キリストの時」を必要とするのではないでしょうか。結婚式では、自分たちの愛に自信をもっている。参列者も祝福する。そういう有頂天の「人間の時」と「キリストの時」とは、まさに何の「かかわり」(2:4)もなくなるのではないか。
 つまりそこにキリストの御力は必要ないのです。人間だけで新しい家を建てることが出来ると思うのです。しかし、やがて、少しずつ、崩れてくる。しかし、花婿は、ぶどう酒が足りなくなった時、代わりの、それこそ、世話役が言ったような、劣ったぶどう酒(2:10)を工面してきて、それで誤魔化せると思う。最初の愛が足りなくなってきたのに、未だ自分で解決出来ると思っている。女の扱いは心得たものだなどとうそぶく。やがて仮面夫婦と申します。人前では仲の良い夫妻を演じている。しかし、心の中はとても冷たい。それでもやっていけると思っている。夫婦なんてどこもそんなものだと思っている。その時も、キリストの時ではない。愛の足りなさを、何かで補えると思っているうちは、キリストの時ではない。

 しかし、やがて、自分たちではもう、愛のなさを取り繕うことも出来はしない、そう降参する時が来る。自分たちがどうしようもない罪人だということを知る時が来る。罪人とは愛さない者のことです。最初の約束を破る者のことです。それを認め御前に二人で跪く時、「キリストの時」がついにやって来るのではないでしょうか。その瞬間、主は、婚礼の席からスックと立ち上がって下さるのです。

 しかし、ある人たちは考えるかもしれない。それは、救い主・キリストが真っ先にするような業ではない。結婚式のことなど、後回しで良いではないか。まさに「わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と言われたことが正しい。もっとひどいこの世の悲惨は幾らでもある、そちらを優先すべきである、そう意見するかもしれません。しかしイエスはここで、救い主としての最初の奇跡を、カナで行われるのです。それは、後の嵐を鎮める奇跡より、病の癒やしの奇跡より、最初にご自身の「栄光」(2:11)を現すための奇跡こそ、この時である。そう思われた。途切れない愛の奇跡こそ、神の子の第一の奇跡であるべきだと、思われた。
 何故でしょうか。ここに生まれた夫妻の家に、やがて大雨が降る。嵐が来て、その嵐がたとえ直ぐ鎮まらなくても、家の愛の土台石が動かなければ、夫妻は耐えることが出来るであろう。たとえ夫妻のどちらかの病気が、奇跡的に癒やされることがなくても、その家に変わらない愛があれば、夫妻はきっと病のただ中でも手を取り合って生きることが出来るであろう。満ち溢れるワインのような愛さえあれば…、人は実はどのような試練にも耐えることが出来る。主イエスはだから、終わらない愛の奇跡を最初の奇跡として選ばれたのではないでしょうか。

 主イエスは、その奇跡のために奉仕者を召される。石の瓶に水を汲むように召し使いに命じました。「召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」(2:7b)とあります。しかしこれは決して容易なことではありません。その瓶の大きさは、「二ないし三メトレテス入り」(2:6)とありましたが、それは約100㍑だそうです。その瓶六つということは、600㍑の水を井戸から汲むのです。それはどのような労働なのでしょうか。それが満杯になってからがまた大変です。イエス様はそれを、宴会の世話役の所へ持っていきなさいと言われましたが、100㍑=100㎏です。それプラス石瓶の重さを入れたら約150㎏、それを大人二人で持てるでしょうか。しかもそれを六つです。運んでも、運んでもまた次の瓶が待っている。
 月曜、仕事をやっと終えても、直ぐ火曜が来る。水、木、金、土と六日を数える、終わらない労働です。働いても働いてもまた次がある。しかも召し使いは、決してぶどう酒を運んだのではありません。運ぶ物が水瓶ではなく、重くてもワイン樽であれば、彼らはその重さを忘れることが出来たかもしれない。ワイン樽なら、それが到着した時、客たちが賞賛を以って迎えてくれるに違いありません。それは手応えある労働です。しかしその手に食い込むものが、誰も見向きもしない、ただの水瓶でしかないことを思い出すと、ずっしりとそれは肩に食い込みます。
 私たちが今、召しを受けて、毎週六日繰り返す労苦も、それは地味な水のようなもので、誰も見ていない、誰も声援を送ってくれないものかもしれない。しかし、それをガリラヤ湖畔のペトロのように「しかし、お言葉ですから」(ルカ5:5)とやり遂げた時に、手応えが生じる。
 あるいは「六つ」、それは天地創造物語を連想させます。第六の日まで働いて、第七の日に安息日が来る。その終わりの時、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)という創造主の喜びの声と共に、労働は完成の時を迎えるのです。それがこの「六」には暗示されているのではないでしょうか。重荷でしかないと思った水が、良いものに変わっているのを最初に見る「栄光」(ヨハネ2:11)に奉仕者は浴することが出来るのです。詩編詩人がこう歌ったように。

 「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編126:5~6)

 召し使いも、ぶどう酒が足りないという話なのに、何故自分は水を汲んでいるのか、分からなかったと思う。しかし従うのです。あの美しい母マリア様に「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(ヨハネ2:5)、そうお願いされていたからです。私たちキリスト者とは、このマリア様のお言葉を聞いた者のことなのです。マリア様が言われたのだ。だからその意味を全て知ることはないが、その通りにしよう。私たちの奉仕の志はここから起こる。

 宴会の世話役は、汗だくの召し使いが、抱えてきた瓶の中にある液体の味見をします。そして世話役は、これが元は水であったことを知らなかったので花婿に言いました。よくも「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(2:10)と。そして最上のぶどう酒が、客たちに振る舞われました。宴会は最後に爆発的に盛り上がったのではないでしょうか。長い祭りが最後に白けて終わるのと全く逆に。それは、もはやこの新婚の若い二人の愛が、初めの一月だけ甘いのではない、キリストが二人の間に割って入って来て下さった「時」、二人が若さを失い老人となった時、いえ、死に際す、その終わりにこそ、愛が最も濃く甘く熟成することを暗示しているかのようです。

 「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」(2:9)とあります。一方「世話役は知らなかった」(2:9)と書いてある。ここに鮮やかな知恵に対するコントラストが見えるのです。全てを熟知しているはずの宴会世話役です。だからワインの利き酒をするのは彼だった。しかし彼は一番肝心な原産地が分からない。それはソムリエにとって致命的なのではないでしょうか。しかし、水瓶を運ぶ下積みの僕として生き、それだけに知恵なき者と思われた召し使いが、原産地を洞察する。ソムリエに勝る知恵を得ている。これは神の栄光から注ぎ出た酒だということを見る知恵を、労苦した召し使いだけは知り得るのです。ある人は言いました。奇跡とは、それがまっただ中で起きていても、殆どの人には分からないものなのだ。ただ、御子イエスに言いつけられたとおりに働いた人にだけが、分かるのだと。

 私たちの伝道の歩み、それは目に見える成果は乏しいものです。私たちの毎週の休み無く献げられる礼拝、しかしその礼拝も、この世からは、水のような礼拝と思われるかもしれない。精一杯運んでいます。私たちは日々、瓶を担いで進み続けています。しかしその担いでいるものは、値打ち無き水でしかないと、多くの人は思っている。だから見向きもされない。水の説教、そう言われる。水の礼拝、水の牧師、水教会であります。しかし、その水がぶどう酒に変わっているのを、七日目、つまり終わりの日に、私たちは目撃することでしょう。献げた奉仕の全てが、御前で全部、つまりここでは600㍑、600㎏、全てが意味をもつ。値打ちをもつ。一滴の無駄もなく!、そうやって、ご復活の主が私たちの愛をも甦らせて下さる。私たちはいつか真っ先にその栄光、その奇跡を見ることが出来る。私たちの力によってではない。主イエスが「キリストの時」に、ご自身の栄光を現すために、奇跡をここで行って下さるからであります。私たちの神奉仕、それは何と大きく報われるものでしょう。本当にキリストに仕えることは嬉しいことです。

祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたの貴い奇跡の御業を見る特権を得るためにも、どうか私たちが今週も六つの水瓶を運び続けて、七日目を待つことが出来ますように。マリア様は今もまた、私たち一人一人に、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と求めておられる、それを聞いて、どうかこの聖母の願いを、生涯を通じて、変わらない愛を以って果たしていく、私たち西片町教会員とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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