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2019年3月31日 礼拝説教「種は良い土地に落ちたか」

2019年3月31日 朝礼拝説教「種は良い土地に落ちたか」

「-創立130周年記念礼拝-」
ルカによる福音書8:4~8  山本裕司 牧師

 西片町教会が創立130周年を迎えた今朝、3月31日にご一緒に聞いたのは、主イエスがお語り下さった種を蒔く人の譬えです。

 「 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカ8:8)

 僅か一粒の種が百倍になったと主は歓喜の声をあげています。「大声で言われた」ともあります。私たちは大声をあげられた主イエスの喜びを先ず、この記念の朝、分かち合いたいと思います。確かに今私たちの教会の現住陪餐会員は丁度100名です。この百倍の実を結ぶことになる、最初の御言葉の種が落ちた「良い土地」、その名は加藤新太郎です。彼こそ西片町教会史の発端に登場する人物です。彼は実は鈴木正久牧師のお連れ合い栄様の親族、栄様の母さと様の伯父に当たる人です。この加藤新太郞*1は今から157年前、上野国(こうずけのくに)に生まれ、やがて故郷下仁田に出張伝道に来た安中教会・村上俊吉*2の聖書講義を聞きました。その時の御言葉こそ、まさに今朝朗読頂きました、ルカ伝8章の種蒔きの譬えであったと記録にはあります。その一粒の種が彼の魂の中で発芽したのです。後に上京して1885(M18)年6月14日、カナダ・メソヂスト下谷教会で山中笑*3から受洗、伝道者となる決意をして東洋英和学校神学科に入学しました。*4



*1 1862(文久2)年4月8日-1925(T14)年7月16日

*2 日本組合教会牧師

*3 山中笑(やまなかえむ)1850(嘉永3)年 - 1928(S3)年。山中家は徳川氏に仕える御家人の家柄で、1868(M1)年、徳川が戊辰戦争で敗北すると、徳川家と共に駿府に移住した。そこで旧幕府学問所賤機舎(しずはたしゃ)の英学教授、カナダ・メソヂスト宣教師マクドナルド,Dから1874(M7)年に受洗。1876(M9)年、日本人最初の教職試補に任命され、1881(M14)年、按手礼を受け正格牧師となり各地の教会で牧会した。

*4 『日本キリスト教大事典』、1912(T1)年受按、静岡、山梨、群馬県などの伝道に励んだ。



 彼の父・加藤太三郎は士族の生まれで*5、もし高崎藩であれば佐幕派(親幕府)です。幕末明治維新と続く動乱の中で、彼はすっかり戦争が嫌になり江戸に出て来ました。彼はこれからは江戸に人が増え宿泊場が必要だろうと上野黒門町に家を借りました。そこに新太郎ら家族を呼び寄せ宿屋を始めたのです。その内彼もまた路傍伝道でキリスト教に触れた。日本の伝道初期においては佐幕派出身者がキリスト教に入信したのはよく知られています。明治維新において勝利した藩は薩長土肥でした。それに対立した会津藩などの佐幕派出身者らは政治の中枢に入る余地はありませんでした。それら失意の没落士族の青年たちを捕らえたのが教会でした。まさに私たちの教会旧教派・カナダ・メソヂスト教会の建てた東洋英和学校神学科出身者、山路愛山*6はこう言いました。佐幕派旧士族は「浮世の栄華に飽くべき希望を有せざりき」となり、「新信仰を告白して天下と戦ふべく決心した青年」となったのです。彼らは殿様に代わって真の主(あるじ)イエスを、儒教に代わって福音を得ました。彼らはキリスト教こそ近代日本の基礎となると確信し、皆、神の侍・伝道者となりました。日本プロテスタント教会は、敗北した侍の地をむしろ「良き土地」と覚え花開いていくのです。


*5 代々木上原教会教報 川西薫「鈴木栄さんをお訪ねして」より

*6 山路愛山(やまじあいざん)、1864(元治1)年 -1917(T6)年、幕臣・山路一郎の子として、江戸浅草の天文屋敷(暦を作る役所施設)に生まれた。1868(M1)年、父は幕府方として彰義隊に加わり上野に籠り後に箱館で政府軍と戦い敗北、愛山は家族と共に駿府に移住しマクドナルドより英語を学び、静岡教会で平岩愃保より受洗。「護教」主筆。



 旧藩士加藤太三郎もそのような一人でした。息子新太郎に続いて太三郎も受洗し、酒も煙草も止め丁髷を切って新生を誓いました。彼は息子が伝道者になるのに宿屋で酒を出していては教会に申し訳がないと、収入が減ることを承知で禁酒下宿にして証しを立てました。やがて新太郎は有給信徒伝道者「福音士」*7となりました。彼は意欲漲らせて伝道を開始します。*8その地こそ西片町教会へと成長する最初の一粒の種が蒔かれた本郷駒込東片町(現向丘)52番地、芦田方でした。その家に心の病を煩っている人がいて気の毒に思い伝道していたのです。その病人が死んだ時、その家を篤志の費用をもって借り受け日曜学校を開きました。福音士の使命は、講義所開設、家庭訪問、日曜学校開設、路傍伝道説教などと定められていましたが、その全てを加藤新太郎は実践したのです。鈴木伶子さんがお若い頃、この礼拝堂後ろの物置に大きな太鼓があったそうですが、栄様は、「加藤のお爺さんが路傍伝道に使ったものだ」と言っておられたそうです。


*7 Lay-Evangelist カナダ・メソヂスト教会日本部会が日本人教職の不足を補うために定めた有給信徒伝道者の制度。1888(M21)年の記録では、日本人伝道者は、牧師6名、教職試補14名に対し、福音士は19名であり、宣教の場における福音士の担う役割は大きかった。事実、正格牧師が増えるまで、地方説教場の伝道は福音士が担った。特に開拓伝道では先ず福音士が派遣され堅実な信仰の交わりが出来て初めて正格牧師が任命された。「福音士条例」によるとその資格は「充分悔い改めた者、メソヂスト教会教理を堅く信ずる者、将来牧師になる望みがある者」とある。

*8 この時の加藤新太郎の伝道開始を1886(M19)年頃とするなら、彼は若々しい24歳の青年伝道者であった。



 直後二人目の加藤が私たちの教会史に登場します。マクドナルド宣教師*9より費用を得て、加藤萬治(かずはる)*10がその民家に住み込み、1887(M20)年7月、下谷教会「駒込講義所」として、新太郎と共に「ダブル加藤」となって伝道を開始しました。下谷教会会員が応援して毎日曜日の午後集会を開きました。やがて1888(M21)年12月、下谷教会においてリバイバル(信仰復興)が起こりました。3週間連夜の祈祷会がなされ出席者は次々に献身・献金を誓い、下谷教会はミッションより自給します。同時に駒込講義所を移転し独立させようとの意欲が漲りました。その時米国より帰国した伊藤爲吉*11が、アメリカで学んだ「教会市」(日本で最初の教会バザー)を企画し多額の収益を上げます。設計工事も彼が請け負いさっさと教会堂を建ててしまう。このバザー収益金600円と教会員の献金400円を合わせて1,000円*12を新会堂の建築資金としました。



*9 デイヴィッドソン・マクドナルド 1836年 - 1905(M38)年、カナダ・ウェスレアン・メソヂスト教会が日本に派遣した宣教師であり医学博士。1874(M7)年、賤機舎の英語教師として赴任、聖書講義を開始した。同年9月、賤機舎の11名の英学生が受洗、日本メソヂスト静岡教会(現日本基督教団静岡教会)が組織された。この静岡教会で洗礼を受けた者の殆どが旧幕臣であった。

*10 「マクドナルドに師事して帝大に藥學を學んでゐた」(『下谷教會六十年史』74頁)とあるが、薬学ではなく医学だと思われる。

*11 最初の会堂を設計監督した初代駒込教会信徒伊藤爲吉(1864(元治1)年1月-1943(S18)年5月)は、建築家・発明家。三重県松阪市出身。17歳で上京、工部大学校で機械工学を学び、22歳の時渡米、修道会に学僕として住み込み洗礼を受ける。学費捻出のためクリーニング店などで働き建築と物理学を学ぶ。1888(M21)年に帰国、日本最初のドライクリーニング店を開店。ついでアメリカ式の家具製造を始め、さらに洋風建築の設計施工を始める。

*12 日本円貨幣価値計算機によると、1889(M22)年の1,000円は現在の5,834,675円。あるいは、1889(M22)年の給与平均年収は232円、現在は420万円、こちらで換算すれば、当時の1,000円は1,800万円とも言える。



 西片町(駒込)教会は本郷中央会堂、弓町本郷教会などと同様に、前途有為な一高や帝大の学生を獲得するために旧駒込に建設されたと言われることがあります。確かに『日本メソヂスト駒込教會創立五十年記念誌』によると「此講義所設立の端緒は、イビー博士が附近には最高學府を初め、専門學校其他の諸學校林立しあるに依り學生傳道に着目せし結果なり」(8頁)と記されています。*13しかしある長老はこれら学生伝道のための西片町教会創立という理解を退け、心を病んだ人への伝道こそその発端なのだと強調されたことが忘れられません。西片町教会はこの最初の一粒の種・加藤新太郎の志を受け継ぎ、この世の痛みの中にある人々と共に歩まねばなりません。



*13 また西片町への会堂移転報告の中で「今週より毎日曜日午后二時より特に學生聖書研究會なるものを開き専ら學生の聖書研究に資せんとするといふ新會堂の所在地は高等學校に附近する所なれば學餘の研究に便益を供すること少からざる…」(「護教」304号,1897(M30).5.22)ともある。



 駒込教会は喜びの中で東片町における「捧堂式」を、今から130年と1週間前、1889(M22)年3月23日(土)午後に挙行しました。*14未だ無牧であった教会創立期の牧会に当たったのは、先ほども言いました、ダブル加藤「福音士加藤新太郞、勸士*15加藤萬治」*16です。「基督教新聞」によると、当時33~34歳であった萬治*17の方が教会主任であったことが分かります。私たちの教会の初代牧師橋本睦之*18が日本年会で駒込教会初代牧師に任命されたのは、翌年1890(M23)年6月のことでした。


*14 「基督教新聞」298号,1889(M22).4.10 「●駒込教會 日本メソヂスト下谷教會の講義所なりし同會は…信徒の數を増加せしを以て會堂新築の必要を感じ種々計畫せしが遂に東片町百五十二番地に地を相し起工後未だ一ヶ月ならざるに早くも落成を告ぐるに至りたるを以て去る二十三日午後二時二十分より左の順序に従て捧堂式を執行したり ○開會の辞 外山孝平 ○讃美歌 会衆一同 ○祈祷 平岩愃保 ○聖書朗讀 加藤萬治 土屋彦六 ○讃美歌 会衆一同 ○説教 博士イビー ○聖書交讀 司會者-會衆 ○建築委員報告 加藤萬治 ○捧堂ノ式 博士マクドナールド ○建築報告 伊藤爲吉 ○頌歌 會衆一同 ○祝祷 博士マクドナールド 右果て會衆へ茶菓の饗應あり一同散會せしは午后四時頃なりき同會の加藤萬治氏の主任にして現在信徒の數二十七名洗禮志願者十四名なり○婦人會及靑年會は目下設立計畫中なり○去る二十五日午后二時より同會堂に於て伊藤爲吉兄と飯島喜美榮姉の結婚式ありたり(一信徒報)」

*15 勧士 Exhorter メソヂスト系の教会で信徒の中から挙げられる伝道職。牧師の指導に従い、祈祷会その他の集会で信仰の奨励を行う。毎年1回査察を受けて免状を更新する。

*16 『下谷教会六十年史』76頁

*17 1855(安政2)年6月14日-1932(S7)年7月9日

*18 橋本睦之(はしもとむつゆき)1855(安政2)年3月10日-1916(T5)年12月2日、江戸牛久に生まれる。東京小石川におけるカナダ・メソヂスト教会最初の信徒・中村正直の同人社に学び、1876(M9)年、宣教師コクランより受洗、1882(M15)年、マクドナルドから按手礼を受けた。下谷教会設立委員の一人でもある。



 この1889(M22)年の教会設立時に転入会をした駒込教会初代信徒に岡崎鄕子(教会会計*19)がいますが、この加藤萬治の思い出をこう語っています。「私が教会に来た頃、医師なる加藤という人が牧会に当たっておられました。人々からヒゲ加藤と呼ばれていました。…」*20


*19 『駒込教會創立五十年記念誌』40頁

*20 『西片町教会百年史』9頁



 この萬治は富山県黒部市の庄屋の出身ですが教師の職を辞し、1879(M12)年春上京し医学生となりました。しかし飽き足らず政治家や軍人となって「国家を料理せん」*21との志を持つなど、新生日本での生き方を模索していました。その頃聖書販売人より聖書を求めることになりました。元々は儒教の立場から論駁するための研究でしたが、これこそ彼の魂に蒔かれた一粒の種であったのです。やがて弟秋真*22が既に入信していた下谷教会に導かれ、「邪宗視したるものの却って真理なるを悟るに至って」*23入信し、兄弟とも勧士となった。「爾来…青年薫育の為めに青年会事業に、或は禁酒矯風又は基督教教育及び事業の為めに」*24献身します。また彼は、1889(M22)年8月、英国平和協会書記の演説*25を聞き感銘を受け自ら「日本平和会」*26を設立したのです。戦争撤廃が主張され、それ以外にも災害救援、人種差別反対、禁酒運動、廃娼運動など、萬治は若き日の決意「国家を料理せん」との志を、キリストを基軸にして全力で取り組みました。*27彼も奨励者であった1890(M23)年4教会合同新年初週祈祷会では、「廃娼、禁煙、蓄妾*28等の事に就き熱心に」演説がなされたとあります。また駒込教会に於ける同祈祷会では、岡山の孤児院の実情が報告され献金を集め総計7円を寄贈することとなったと記録にあります。*29これら130年前の記録をもって、確かに種は良い地に落ちたと言うことが出来るに違いありません。


*21 佐々木敏二「明治二〇年代の平和運動-日本平和会書記加藤萬治小論-」91頁

*22 秋真(あきざね) 帝大医学部薬剤科卒業 免状を得ながら薬剤士とはならず、1885(M18)年東洋英和学校、さらにシカゴ大学神学部で学び、牧師として日本各地、カナダ、米国で活躍した。(佐々木敏二 上掲書92頁より)

*23 上掲書 91頁

*24 同上91頁

*25 同上94頁 会場は東京木挽町(こびきちょう)厚生館、司会はマクドナルドであった。

*26 目的は「基督の教旨に従い平和の主義を拡張すること」、機関誌「平和」1号を1892(M25)年3月発行、発行兼編輯人は加藤萬治であった。

*27 その後、萬治はフレンド派(クエーカー)・キリスト友会に転籍し1894(M27)年には、同派の水戸地方伝道主任として働いた。フレンド派は17世紀にイギリスで起こったキリスト教覚醒運動によって始まった。制度や信条を持たずキリストの生き方の実践を目的とする。1885(M18)年に日本に伝えられ、1887(M20)年には普連土学園を設立。

*28 ちくしょう 妾(めかけ)を囲っておくこと。

*29 「基督教新聞」339号,1890(M23).1.24



 しかしそれだけでもないとも思います。今朝の私たちは負の歴史をも思い起こし、この記念の日に悔い改めたいと思います。1893(M26)年前後となると、駒込教会においても「世の中が騒がしく、それにつれて信者も心靈界の事よりも浮世の事に心を移すこと多きが爲め大に祈禱の精神を妨げられている」*30と嘆かれるようになりました。古屋安雄先生の『日本伝道論』によると、日本基督教団は約20万人の教会員がいますが、毎主日礼拝に出席している人は6万人である*31とあって、会員総数の2/3が主日礼拝を遵守していません。またキリスト者が増えない理由の一つを親から子への信仰継承の失敗にあると書いてあります。現在の教団教勢はさらに落ちました。先ほど今朝の福音書の譬えから西片町教会も100倍となった、今の現住陪餐会員は100名と言いましたが、実は西片町教会の現住陪餐会員は以前より遙かに少なくなり、増えたのは別帳会員です。この結果は世の中の動きと言うより、直近25年間牧師であった私自身の責任が殆どですが、そのことをも含めて、果たしてこの土地は本当に良い土地だったのでしょうか。


*30 「基督教新聞」495号,1893(M26).1.20

*31 1988年統計



 一方、天皇制との戦いが、常に日本の教会にはつきまといました。近代日本において、天皇は欧米のキリストの位にあり、両者が対立するのは必然でした。*321890(M23)年11月に施行された大日本帝国憲法は、第一条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治する」、第三条「天皇は神聖にして侵すべからず」でした。この冒頭について古屋先生は、これは天皇をキリスト教の神の如きものとしようと意図したものだと断言します。*33国家神道・天皇制とは欧米のキリスト教の日本版でした。駒込教会創立1年後、1890(M23)年に「教育勅語」と「大日本帝国憲法」が発布され、日本は古屋先生の言う国際主義から国粋主義への大転換が起こりました。それは同時に教会にとって「良い時」から「悪い時」*34となる節目でした。明治期前半、破竹の勢いで伸びてきた教会は、この1890(M23)年を境に停滞の時を迎えます。この転換期の象徴的事件は、1891(M24)年の内村鑑三不敬事件でした。それ以前は加藤萬治がそうであったように、教会において社会倫理の実践が行われていました。しかしこれ以後、教会が天皇制国家主義と矛盾しないことを表明し天皇制に奉仕する宗教に変節していきました。*35その末が教会の戦争協力であったのです。


*32 明治維新とは藩ごとに独立国があるような状態だった日本を、一つの国家にまとめ上げるための革命であった。そのための政策こそ「国家神道」の創設であった。開国すると鎖国政策最大の原因であったキリスト教が技術と一緒に入ってきてしまう。それをブロックするためにも天皇を拝む国家神道が必要であったのだ。

*33 古屋安雄『日本の神学』35頁

*34 「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても」(テモテ二4:2 口語訳)、ここから「良い時」、「悪い時」と呼ぶ。

*35 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』116頁、参照。



 この「悪い時」は東洋英和学校にも及びました。1884(M17)年春、宣教師コクラン.Gによって麻布鳥居坂に普通科が開設されたこの学校は、欧化主義の高揚期もあって、1886(M19)年には400名を越える隆盛を誇りました。神学科も設立し本格的に日本人牧師養成に乗り出したのもその時代です。また東洋英和学校と同時に開設された東洋英和女学校には名門子女が多く在籍しましたが、その生徒たちは「王女会」*36を組織し貧困児童を支えるために日曜学校を開きました。*37またこの会は貧しい子どものための保育所「永坂孤女院」も設立しますが、童謡「赤い靴」に出てくる女の子のモデルきみちゃんはここで死んだのです。


*36 1888(M21)年設立、王女とは「王であるキリストの娘」の意味であり、キリストに倣って愛の実践を行う有志の集まりであった。(『東洋英和女学院120年史』43~44頁)

*37 この日曜学校は貧困児童の教育機関「恵風女学校」(設立1894(M27)年)へと発展しました。



 しかし文部省は、1899(M32)年、キリスト教系学校の宗教教育に歯止めをかけるのを目的とする「訓令第12号」を発令し、公認学校の宗教教育を禁止しました。これに従うとミッションからの財政的援助を失うことになります。逆に建学の精神を堅持して公認を失うと、兵役停止や上級学校(帝大など)進学の特権を失い入学者が激減することは必至でした。この訓令に対し男子校であった東洋英和学校*38は宗教教育を捨て、神学科も1901(M34)年に閉鎖し、今日の麻布学園中学高等学校として公認の特権を維持しました。*39一方、東洋英和女学校は、むしろこの「訓令第12号」を機会に「基督教主義」をはっきりと打ち出し、種々の不利益を承知で建学の精神を強化していきました。その点ではやはり男より女の方がいざとなると信仰的に強いということでしょうか。それから数年後、連続テレビ小説「花子とアン」でも有名になった村岡花子は、1904(M37)年に東洋英和女学校に編入学したのでしたが、あのドラマでも彷彿とされたカナダ・メソヂストの信仰的伝統は今日もなお東洋英和女学院では守られ続けています。


*38 当時の校長は江原素六(えばらそろく)、1842(天保13)年~1922(T11)年、旧幕臣、政治家、教育者、福音士。幕府御家人の嫡子として江戸に生まれる。鳥羽・伏見の戦いでは幕府側の指揮官として戦い、江戸城開城後も市川・船橋戦争などで新政府軍と戦うも負傷して九死に一生を得た。徳川家の静岡移封後に沼津へ移住、その地で旧幕臣子女への教育のため沼津兵学校、駿東女学校設立に尽力、1878(M11)年、カナダ・メソヂスト宣教師ミーチャムから受洗。1893(M26)年から東洋英和学校校長。文部省訓令第12号に対してはキリスト教学校を代表して当局と交渉した。

*39 麻布学園では、訓令を受け入れた後も「道徳」の時間や寮の「自主的活動」で聖書を学び、1960年頃までは聖書の授業があったとも伝えられている。(高嶋幸世氏による) 



 今、西片町教会教会学校には、東洋英和に通う子どもたち十数人が、毎週嬉嬉としてやって来ます。百数十年前にカナダ・メソヂストが、教会と学校に蒔いた命の種は、今もこうして西片町教会でその生命力を保ち続けています。『駒込教會創立五十年記念誌』(38頁)には以下のような記事もあり西片町教会と英和の関係は深かったことが分かります。
 「東洋英和師範科 -最近1927(S2)年以来師範科生が実習に派遣されて来て居る。…いつも駒込に来たい希望者が絶対多数で、とても人気があるとか聞く。…それだけに来て下さる学生諸君は皆熱心に研究もし、一生懸命に幼児の指導に当つて居られる。」

 今朝は西片町教会の黎明期だけしか語ることは出来ませんでしたが、御言葉の種を、特に失意の没落士族を生き返らせるため蒔き始めたカナダ・メソヂストの宣教師たち、それに応えた佐幕派の初代キリスト者たち、そして私たちの教会を立ち上げた「ダブル加藤」の献身、その伝道を受け継いだ牧師たち、そして共に会堂を建て礼拝を捧げ続けた多くの信徒たち、その先輩方にこの日、感謝をしてもしきれるものではありません。
 しかしだからと言って、私たちはこの創立130周年の記念日、人間を称賛するよりも、神を褒め称えたいと思います。先ほども触れましたが、黎明期に既に教会の試練は始まり、それは今に至るまで続いていると言ってよいと思います。「讃美歌21」で「敵は外にも、内にもある」(510番)と歌われますが、いつの時代も教会形成とは険しい坂道を上り続けるようなところがあります。外から国粋主義や戦争に圧迫され、内からも「心靈界の事よりも浮世の事に心を移す」*40信者が現れました。牧師と信徒、信徒同士の関係もいつも暖かいばかりでなく、反目や冷戦が付きまといます。牧師を追い出そうとする動きもあったと思います。自らを正義として人を裁くキリスト者独特の傲慢があります。歴史的にはいつか検証が求められる、問題提起者の礼拝妨害や教会分裂も私たちは経験してきました。一所懸命教会を愛したからこそ、そうなったという面があります。私たち罪人は怠惰の罪を犯すだけでなく、神と教会に誠心誠意仕えようとする中で大きな罪を犯すような存在です。だから「ダブル加藤」の時代に象徴されるような良い時が巡ってきて、良い所まで行くのですが、やがて頓挫する、未だ若木であるにもかかわらず成長が止まるという、まさに主の譬え通りの経験をこの130年間、繰り返してきたと思います。


*40 「基督教新聞」495号,1893(M26).1.20



 「ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。/ ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。」(ルカ8:6~7)、この意味を主は教えて下さいました。「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。/そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。」(8:13~14)

 ある人は、この譬えの農夫は愚か者だと書いています。「道端」「石地」「茨の中」に、種を落とすなど私ならしない、賢い農夫は「良い土地」だけに種を蒔くだろうと。しかし最初の伝道者・主イエスの眼差しの中に、良い土地などこの地上に果たして存在したのでしょうか。原罪を犯した、私たちの魂の土壌は呪われ「茨とあざみ」(創世記3:18)が生えいでたのです。それは神の言葉を元々受け入れない存在だと言う意味です。そうであれば、主が種を蒔く場所は、地上のどこを探しても、荒れ果てた不毛の大地でしかなかったのではないかと思う。そうであれば、主は失敗することを承知で、蒔き続けられたのです。主ご自身が「種」そのものであります。人間はその良い種・イエスを十字架につけました。主はまさに道端に、石地に、茨の中に落ちた種でした。石地には「水気がない」(8:6)と書かれてありますが、まさにあの春の真昼ゴルゴタの丘は灼熱の石地だったと思う。そこに立つ十字架の上で主は「渇く」(ヨハネ19:28)と言われました。そして「茨」の冠をかぶらせられたのです。「茨」が主の頭の上に「押しかぶさってしまった」(ルカ8:7)のです。御言葉の種子は死んだ。しかしそこでです。そこで福音書は書く。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)と。
 主は、この茨絡まる石地のような私たちの心を、良い土地に変えて下さるために来て下さった。しかしそのために主は茨の棘に刺されて血を流されたのではないか。主の血が、ゴルゴタの石地に滴り落ちる時、そこに潤いが生じる。私たちが聖餐の御血潮によって清められるように。砂漠が沃地になる。そのためには最初の一粒の種が必要だと言われます。一粒の種が芽を出しそこで枯れる。僅かですがそこに有機物が残される。そこに次の種が芽を出す。その芽もまた育たないかもしれませんが、肥料を残す。それが繰り返される時、いつしか砂漠の上に保水力のある表土が生まれ、木々が育ち、そこが森となると、どこかで聞いたことがあります。砂漠の再生、それは一粒の種を蒔くこと、一本の苗木を植えることからしか始まらない。

 誰かは死ななくてはならないのです。十字架とは、砂漠のような私たちの心を良い土地へ変える、奇跡の力です。主は言われました。「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(8:8)、主イエスは歓喜の内にその幻を見ておられる。御言葉が、あなた方一人一人の心を支配する日が来る。この不毛の大地、日本を森のように覆う日がくる。十字架の恵みの種子、その命は決して負けない、と。

 ある年のイースターの午後、大ホールで子どもから大人まで、一緒に食事をして和気藹々と楽しんでいる、その光景を私は見ました。何があったわけではありません、しかしその時の感動を忘れることが出来ません。加藤新太郎が蒔いた一粒の種、その小さな命の遺伝子が今もここに世代を超えて受け継がれている。「悪い時」があり「敵は外にも、内にもある」、しかしそれでも復活祭の歓喜は毎春巡ってくる。そして改めて思いました。私たちがよくやったから西片町教会が守られてきたのではない、ただ主イエスが私たちのために、茨の冠をかぶって下さり、罪を負って下さった、茨を振り払って復活して下さった、そうやって良い土地を作り出して下さった、だから私たちはこの春、創立130年を迎えることが出来たのです。繰り返します、私たちがよくやったからではない、全ては主の犠牲による恩寵が、私たちの教会に春の雨のように降り続いている。だから私たちも育つことが出来る、信仰を花開かせることが出来る、私たちもここで死んで、この大地の有機物の欠片となるのです。後の世代のために!この素晴らしい西片町教会に植えられた、私たちの限りなき祝福を思う。

 祈りましょう。  主なる神様、あなたは石地のように頑な私たちの心に良い種を蒔き続けて下さった、その恵みに感謝します。どうか私たちも御子と先達の忍耐に倣い、時が良くても悪くても種を蒔き続け、130年以後の教会を任された者として、益々教会に献身する者に成長させて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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