2019年3月3日 主日朝礼拝説教「嵐に堪える望み」

 使徒言行録27:1~38

「こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。/そこで、一同も元気づいて食事をした。/船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。」(使徒言行録27:35~37)

 今朝は使徒言行録27章を共に読むことになりました。これは数週振りに巡ってきた旅の物語です。パウロは、私たちも同伴するような気持ちになって読んできました、伝道旅行を3度行ってきました。今回は伝道旅行ではありません。パウロは無実の罪で捕らえられている囚人としてローマへ送られることになったのです。パウロの希望通りローマ皇帝の許で裁かれるためでした。それは都ローマの教会と福音を分かち合いたいというパウロの強い願いがありました。そのために既に第3次伝道旅行の途上、コリントで「ローマの信徒への手紙」をローマに書き送っていました。ご承知のように、後の教会の福音理解を確立したこの手紙を手にしたローマのキリスト者は、どれほどパウロと会いたかったことでしょうか。直接パウロとこの手紙を囲んで学び合いたいと願ったはずです。パウロも同じ気持ちでした。だからローマに行きたかった。しかしそれ以上にこの旅は主イエスのご計画であったのです。

 パウロはエルサレムで捕らえられ、不安な一夜を過ごした時、主は彼のそばに立って言われたのです。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒言行録23:11)と。

 神のご意志に裏付けられたパウロの願いが叶う時が来ました。ローマへの船出の夏がやって来たのです。(「新共同訳聖書」巻末「地図9・パウロのローマへの旅」参照)。しかしその航海は困難を極めました。逆風に悩まされます。航海全体の半ばに当たる、地中海に浮かぶクレタ島に到着した時は予定を大幅に遅れ、もう秋の終わりとなっていました。仕方なくクレタ島で越冬しようとします。この時停泊していた「良い港」(27:8)は名に反して条件の悪い港でした。僅か65㎞ほど西に島を回れば、北風が吹き込みにくく、越冬に相応しい「フェニクス港」(27:12)がありました。そこで船長を初め、大多数の者がフェニクスに回ることに賛成しました。しかしその中にあって、使徒パウロだけは、この「良い港」から動いてはならないと主張したのです。勿論、囚人パウロには何の権限もありません。彼は船の素人に過ぎません。だから皆パウロの意見を無視しました。

 南風が静かに吹いています。船はスルスルと港を出ます。ところがその直後、「エウラキロン」(27:14)訳せば「北東風」と呼ばれる暴風が、島から吹き降ろして来て、船はあっという間に沖へ流される。それからは修羅場です。船乗りたちはあらん限りの知識と腕力を奮って風と戦い続ける。しかし勝てません。

 古代イスラエル人にとって、海は怪獣の住む不気味な世界と覚えられていました。その得体の知れない姿がここにも現れるのです。「南風が静かに吹いて来た」(27:13)それは、まるで海の魔物が暖かく手招きして誘惑しているかのようです。
 しかしこのような不気味さとは、私たちの人生行路にもあるのではないでしょうか。私たちを甘い南風のようなものが誘うことがあります。だから喜び勇んで船出する、そして流され溺れてしまう。あるいは「大多数の者の意見」(27:12)ともあります。人間の多数決、それもまた甘い罠になる。それは日本基督教団の諸会議で私たちがどれほど経験してきたことでしょうか。

 最初これはパウロの伝道旅行ではないと申しました。しかし伝道者は実はいつでも伝道するのです。24時間、いつも神の言葉を帯びるのがキリスト者です。パウロはその神の知恵をもって、その船出の危険な罠を見抜きました。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」(27:10)
 この船に伝道者が一人乗っている。「わたしたち」(27:1)ともあって、この箇所もまた「我ら章句」であることが分かります。ですから、ルカ、そしてテサロニケ出身のアリスタルコ(27:2b)がパウロことをほっておけず、ここに同船している。少なくても船に3人のキリスト者はいました。彼らは少数です。専門家でもない。しかし私たちの船(家庭、社会)が難破しないために、少数でもキリスト者がそこに一人でもいることがどれほど重要であるかということです。どうして、この世の危機の時、キリスト者が必要なのでしょうか。それはキリスト者自身が優れているからではありません。ただ彼らは祈ることを知っている、そして御心を聞く耳を開いている、そこにキリスト者の存在意義が現れてくるのです。世の中が危ない方向に行きそうな時こそ、聖書を読み、それを人々に取り次ぐ、その「預言者的使命」が誰であってもキリスト者にはある。かつてここで説教して下さった小海基牧師はそのことを、「万人祭司」ならぬ「万人預言者」と表現されて、私たちは感銘を受けました。

 ある人は、ここで何故、船長たちが、クレタ島の西へ行こうと主張したのか、その理由、それはただ人命の安全ということだけでなかったと注解していました。むしろ船に積んでいる商品を春、どの貿易船よりも一番先にイタリアに届けたかった、つまり有利な商売をしたいと願っていたからだと言います。この船は、元々、ローマの囚人護送船ではありません。カイサリアから現在のトルコ北西の「アドラミティオン港」(27:2)を目指す商船でした。囚人は便乗させられたのです。商売が第一の船です。今、「第一」と言いました。しかし人間の判断とは、時に、最優先すべきことを後回しにして、実はさほど大事でないことを「第一」にするのではないでしょうか。だからこそ聖書を開き主イエスの言葉を聞かなければなりません。そして本当に第一のものを、私たちも小さな預言者となって傍らの人に伝える、そういう形で伝道する使命があるのです。
 この主イエスの言葉をです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)

 船乗りたちは、波に飲まれそうになる中、最初は何とかして積み荷を守ろうとしたに違いありません。ところが翌日になると、事態はさらに厳しくなります。人々は、積み荷を海に捨て始めました。そして三日目には、船具までも投げ捨てる事態になりました(27:19)。せっかく遭難初期に、流されないように必死で確保した上陸用の小舟も、綱を断ち切って流しました(27:32)。私たちにも命を守るためには、どんな大事な財産も投げ捨てなければならない時が来るのではないでしょうか。平穏な時には、自分に幸福を保障すると思われたものが、嵐の中では逆に、私たちを溺れさせる重荷に過ぎなかった、そのことが暴露される。そういうことがあるのです。

 実は、私たちの人生を襲う「嵐」とは、私たちの人生にとって、実は何が一番大切なものなかを指し示すための神の愛の鞭なのではないでしょうか。この後、ルカは「福音書」を執筆した時、この主の言葉を引用しました。「人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ12:15)、彼はこれを書きながらこの時の遭難の経験を思い出していたに違いない、そう思います。

 「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」(27:20)。船乗りが依り頼んでいた太陽、星の位置による航海技術も全く役にたたなくなったのです。しかしそのように人の知恵も言葉も何もかも力を失った時、神の言葉が立ち上がってくるのです。使徒パウロは言いました。「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。…神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」(27:23~24)。

 人々が嵐の中で、滅びは「必然」となった、と言い始める。死な「ねばならない」、決まったと絶望する。そのマストに対して、パウロはここで逆の意味のマスト「必然」を、「ねばならない」を語る。「あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。」(27:24)「わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです」(27:25~26)と。

 破滅の必然に、抗う神の救いの必然であります。この神の「必然」が勝利する。神の計画のみが勝つ。それを変えることの出来るものはないのだ。一切を支配される神の力、全てを越えて進む神の計画、その信仰がここで力強く伝道者によって告白されているのです。

 「大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。」(詩編93:4)

 パウロはその神の言葉の希望の中で、船の中にいる一同に、食事をするようにと勧めました。(使徒言行録27:33)、もう14日もの間、人々は不安のために何も食べていませんでした。ここはもう危険が去ったから安心して食事を取ったということではありません。未だ嵐のただ中の出来事においてです。
 今は嵐のような毎日で、聖書を読むゆとりはありません、そう言う人がいます。試練の多忙の日々の中にあって、礼拝に行く時間は私にはありません。だから今月も聖餐を受けられません、そういう声が聞こえます。しかし、その忙しさがもし隣人の生命を守る愛、それ以外の理由、ただ先に言いましたように、船主の利益のための忙しさだったとしたら、それは先ほどの主の言葉、一番大切なものとは何かが見失っているということだと思います。この嵐の中の食卓に与る時、船員たちは、何が本当に大事なのかということを知ったのではないでしょうか。人生の危機のただ中で、いえただ中だからこそ、つまり最も心忙しい時だからこそ、真っ先にしなければならない最優先のことがある。それは何を差し置いても、主の食卓、聖餐に与ることだ、ということです。「こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。」(27:35)、それが私たちをいかなる試練のただ中においても元気にするからであります。それは本当のことです。「そこで、一同も元気づいて食事をした。」(27:36)、こうある通りです!
 
 そしてルカは続けます。「船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。」(27:37)、こんな時にどうして、乗り合わせた人たちの数が出てくるのでしょうか。一人一人を大切に数えながら、命の糧を一人も漏れることなく、分け与えたからだと思います。船主や船長、船員、商売や旅行のために乗り込んでいた人たち、さらに、ローマの百人隊長と兵隊、そして、パウロを含む囚人たち。さまざまな立場の人たちが、その多数の人々が、今、一つになるのです。一緒にパンを裂いて食べたからです。その者たちが276人いたのです。私たちも必ず礼拝出席者人数を数えます。教会によっては、それだけでなくて、毎月、聖餐に与った者、陪餐人数を数える教会もあります。一人一人276人に主が命の糧を一人一人手ずから与えて下さったのだ、そう暗示されているのではないでしょうか。

 私たちも時に嵐のような試練に合います。本当に苦しい人生の旅を続けているように思う。しかしそれは主の食卓への招きの声でもあります。来週3月3日に、主の食卓を囲む人の人数は、私は分かりません。50名くらいでしょう。しかし主はそんなおおざっぱではなくて、その一人一人に、数を数えて正確に、一人くらいいなくてもいいというのじゃない、一人も漏れることなく、主は次週、命の糧を与えて下さるでしょう。神は、一人一人に必要な愛のお言葉をかけて下さっています。パウロは言った。「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」(27:34)、これもまたルカが福音書(ルカ21:18)の中で、主イエスご自身のお言葉として残した言葉です、髪の毛一本をもファーストと扱って下さる。神は私たち一人一人の命を第一として下さる。私たちが主イエスのことを第一とするのは、その神の第一に対する感謝の応答でもあります。

 祈りましょう。  主よ、教会という船も時に難破しそうになります。奢り高ぶりの故に、自らの知恵、言葉に酔い、御言葉をかき消してしまう私たちの罪を告白し懺悔します。しかし私たちの船の「マスト」は主の十字架であることを覚え、神のマスト、必然に従い、罪贖われた者として立ち直らせて下さい。そして再び神の国を目指す航海を続けていく私たち、一つなる神の民とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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