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2019年2月17日 主日朝礼拝説教「ほがらかな人生」

2019年2月17日 主日朝礼拝説教「ほがらかな人生」

使徒言行録26:12~32  山本裕司 牧師

「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」(使徒言行録26:29)

 前月「月報」(2019年7月号)に続く、カイサリアの総督官邸において開かれた、パウロに対する「聴聞会」での出来事です。盛装したユダヤ王アグリッパと妹ベルニケ、そしてローマ総督フェストゥスなど上流階級の者たちが居並んでいます。そこに鎖で拘束されたパウロが引き摺られてきた。そしてパウロの使徒言行録における5回目の、そして最後の弁明が始まるのです。この使徒言行録26章に記される、謁見室での尋問において、読者が特に印象深く思うのは、パウロの「余裕」なのではないでしょうか。
 普通、王や総督の前に出された囚人は、どんなに緊張するでしょうか。しどろもどろとなるのではないでしょうか。しかしこの聴聞会の様子を読んでみると、一言で言えばどちらが偉いか分からないということです。いつの間にか立場が逆転して、むしろ位高き者たちが、落ち着き払ったパウロの言葉によって裁かれ、悔い改めを迫られているようです。
 狼狽したのは、先ず、総督フェストゥスです。パウロが弁明していると、総督は大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」(26:24)。「大声」とあるように、冷静さを失っているのは総督です。続いて王アグリッパの方も、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」(26:28)と言いました。これは、時々教会にいる、教会学校熱血青年教師から、受洗を迫られている高校生の抗弁のようです。「先生は、短い時間で僕を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりですか!」。0王がどんなにあわてふためいているか分かります。

 この使徒言行録が書かれた主の年80年頃、それはローマ帝国によるキリスト教徒迫害がいよいよ本格的になる時代でした。自分たちもいつ裁判に引っ張り出されるか分からないのです。皆、脅えていたに違いない。しかしその時、このパウロ先生の謁見室での態度が伝えられた時、ああ私たちもこうありたい。パウロ先生に続いて、ゆとりをもって裁きの座に臨もうと、勇気を回復したのではないしょうか。

 特にこの物語にはパウロの「ユーモア」が感じられます。パウロは真面目一点張りのようですが、ここでは印象は少し違います。先ほどのアグリッパの教会高校生のような狼狽に対して、パウロは応えます。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」(26:29)

 この最後の言葉を聞いた時、謁見室の中で、吹き出した人がいたかもしれない。あるいはこの朗読を、迫害を避けた墳墓教会奥で聞いていた教会員たちも、思わず、声をたてたら危険なことも忘れて、笑ったのではないかと想像しました。伝道者パウロは言う。王様も、総督も、全ての人も、私のようになって欲しい。信仰をもって欲しい。教会の仲間になって欲しい。そう言っておいて、鎖につながれるところまでは、同じでない方がいいでしょうね、そうジョークを言った。あるいはこういう意味にも取れます。鎖はパウロをずっと拘束してきました。そしていつも友達のように一緒でした。私は皆さん全ての人と一心同体になりたい。同じ神を信じる友だちになりたいと願っています。そう言って両手を縛る鎖を掲げて、でもこれだけは、もうこれ以上兄弟として、御一緒したくない、そういうジョークだったのかもしれません。私が説明すると少しもおもしろくありませんが…。

 とにかくこれは自分の囚人としての境遇、鎖に縛られている苦しさを、笑い飛ばしているゆとり、ユーモアです。ゆとりということで、もう一つ指摘したいことがあります。この直前に、パウロ自身が、自らの回心の出来事を語っている3度目の箇所があります。ここでも、立場の逆転があるのです。先ず回心前のパウロの姿が語られます。「激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです」(26:11)と。攻撃しているは、かつてのパウロ・教会の迫害者サウルです。教会は抵抗出来ない。だから私たちはゆとりがあるのはサウルだと思いますが、事実はそうではない。ダマスコ途上で彼が倒された時も、「真昼」(26:13)とありますが、暑い時に旅するのは、よほどの事情の旅人でした。彼は焦っていた。ユダヤ教の純潔を守るために、もう誰もあてに出来ない、この自分がやらなくては、という切羽詰まった思いが、ゆとりなき行動に駆り立てていたのです。

 しかし、彼はキリストの光によって打ち倒されました。その時主の御声が響いてきます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(26:14)、この言葉は焦燥に駆られるサウルと、鮮やかなコントラストを示しています。それは、のんびりした調子です。サウルたちの暴力によって、教会は大変な打撃を被っていました。ところが甦りの主イエスは余裕綽々です。何故でしょうか。「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(26:14)。この言葉には主イエスのユーモアが感じられます。あなたは私を傷つけようと蹴り上げてくる。しかし、それは自分の足を傷つけるばかりだ。こちらの頭は「茨のとげ」付き、手足は「釘」付きだからね、と。ここでもどちらが被害者であるのか、加害者であるか、分からなくなる、不思議な勝敗逆転が起こっているのです。

 回心後、パウロの心に流れ込んできたのは、この十字架の主のゆとりでした。とげ付きの御体を蹴ることを、止めた時、平和が彼に初めて訪れました。自分がやらねばならないという律法主義が終わり、主イエスがして下さるのだという福音、その恵みに身を委ねた時、余裕がやってくる。主イエスはこの福音の生み出すユーモアの中に、迫害者パウロを招こうとなさっておられるのです。

  宮田光雄先生は「キリスト教的ユーモア」を提唱されます。聖書の中にも、後の教会の歴史の中にも、ユーモアをもって生きた人たちが大勢いると。例えばローマによる大迫害時代、ローマ教会にラウレンティウスという執事がいた。彼は捕らえられ信仰を捨てることを拒絶したため裸にされ、熱せられた焼き網の上に置かれた。長い苦しみの後に、彼は死刑執行人に言った。「体をそろそろひっくり返したほうがいいですよ。片側はもう十分焼けたから。」ひっくり返されて暫く後「焼けごろです。食べなさい。」

 時代は急に飛びますが、ドイツでナスチが恐ろしい力を振るった時、告白教会牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーが捕らえられました。讃美歌21-469「善き力にわれかこまれ」は、彼が国家反逆罪の名のもとに、1945年4月9日、絞首刑となる直前のクリスマスに家族に送った詩です。その切迫した境遇を思うと、この詩の中に込められる不動の平静さに、私たちは圧倒されます。この詩と同様、獄中での彼の生活は、看守や同囚を驚嘆させたと伝えられます。彼はいつも朗らかで静かであった。その静けさは絞首刑の瞬間まで続いたと。あるいはこれは先ほどの謁見所でのパウロの姿と重なると思いますが、人はボンヘッファーが独房から出てくる足取りが、まるで領主が自分の城から出て来るようだと言いました。また看守と話していと、まるでボンヘッファーの方が看守に命令しているように見えたと言うのです。あるいは、彼と同様にナチス抵抗運動に加わったイエズス会デルプ神父は、絞首台に向かう途中、刑務所付神父に戦線の経過を尋ねます。何ら新しいニュースを持っていないことを知ったデルプ神父はこう言った。「半時間後には、私はあなたよりずっと多くのことを知るでしょう。」天から全ての国際情勢を見渡すからと言うのです。

 普通は恐怖でガタガタ震えるところです。しかしその時も、友達と食事にでも行く時のように、冗談を言うキリスト者の最期の姿がここにあります。そういう事例を挙げながら、何故この人たちは、こんなことが出来たのか、「キリスト教的ユーモア」とは、どこから生まれるか。その問いに宮田先生は答えます。
 この世のどんな悲惨、救いようのないと思われる現実に直面しても、しかしそれが全てではないと知っていること。そこからユーモアは生まれる。この世界の支配者は、決してローマ帝国でもヒトラーでもない。不治の病でもない。イエス・キリストなのだと知ること。そのキリストが私たちに与えて下さる勝利こそ究極のもの。従って他のものは、どんなに強力に見えても、「終わりから一歩手前の力」でしかないのだ。その事実の前には、死でさえも、決定的なものでない、と。

 パウロはその弁明の中で言いました。「つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです」(26:23)。「…死者の中から最初に復活して…」とあります。ということは、次に続く者があるということです。それは誰か。それがパウロであり、キリスト者です。私たちです。悪と苦難と死が最後に来るものではない。確かに私たちも重い病気に罹る。誰もがいつか死と直面します。しかしそれは来るけれど、それは最後から一歩手前のものに過ぎない。それで私たちの生涯を書き記した本は終わらない。もう一枚次の頁が残っているではないか。それを捲ることを知るのが、私たちキリスト者です。最後の頁を支配するのは、暗黒ではない、その頁からほとばしり出るのは甦りの光です。最後に再臨の主イエスが全てを解決して下さる。それを知る者がこの地上で、万事休すという時に、なお微笑むことが微笑むことが出来る!

 ところで宮田先生が挙げた殉教者たちのような立派な死に方を聞くと、私たちは益々恐ろしいかもしれない。そんな格好いい証しを立てることが出来るだろうかと、劣等感を覚える。自分は、やはり苦しいと、死にたくないと叫ぶかもしれない。しかしそれでも良いのです。その自分の恥ずかしい姿も、実は究極のものでない。パウロが律法ではない、福音だと語り続けたことと、それは関係する。主イエスが何とかしてくれるのです。私たちの弱さも、惨めさも、罪も、最後の勝利者ではない。最後の一歩手前の限界付けられた力に過ぎない。

 実は獄中でボンヘッファーは一つの詩「私は何者か」を残しました。先に紹介しましたように、人は獄中の自分を立派だと称賛する、しかし一人になれば、と彼は告白する。「籠の中の鳥のように、落ち着きを失い、孤独に病み、些細な非礼に怒り震え、疲れ果てる。のどを絞められた時のように、息をしようともがいている」と。「私はいったい何者か」、しかしその終わりには彼は歌うことが出来た。「私は何者であるにせよ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものである。」そう神に全てを委ねることによって平安を取り戻すのです。

 あるいは、やはりキリスト教的ユーモアを語った、椎名麟三という作家がいます。彼は洗礼を受けた後、いろいろな人にこう聞かれるようになった。「あなたはクリスチャンで、すっかり救われているわけだから、死ぬことなんか平気でしょうね」。しかし椎名さんは言う。確かに私は神を信じ、復活を信じている。しかし、死の恐怖は、否定しようもなく歴然と私の心の中にあるのだ。ある美しいクリスチャンの娘さんが、肝臓を病んで死ぬとき、本当ににこにこしながら、却って泣いている親たちを慰めながら、天国に行けるのを楽しみにして死んだ、そういう美しい話を聞いた。確かにその話は私の心を打ちはしたが、同時にやりきれない苛立たしさも感じた。だから私はその美しい話をしてくれた婦人へ、思わずこう答えていた。「私には、とてもそんな真似はできませんよ。むしろ私は出来るだけ醜い悲惨な死に方をしてやるつもりですよ。助けてくれ、と大声で叫び、この世の中だけでなく、神様だって呪いながら死んでやるつもりですよ。」相手の婦人は顔を赤くして黙った。私の言葉が他人事ながら恥ずかしかったに違いない。
 そして椎名さんは言う。では信仰というものが、死の恐怖に対してどんな恵みがあるのかということになるだろう。それは、死やそれにともなう恐怖に対する私の態度を変えてくれたのだと言える。死は恐ろしい。だが、その恐ろしさの中へ溺れてしまわない根拠が与えられた。死の恐怖の海の中に投げ込まれながらも、それでもどこかに頭を出して息だけは出来るようにしてくれたのだ。だから私は、死の恐怖に襲われている自分を、悲哀に充ちた愛の眼差しをもって眺めることが出来る。」

 つまり私たちの信仰が勝利者ではない。私たちの不信仰が勝利者でもない。ただ主イエスだけが勝利者なのです。だから私たちは痛みの中で、苦しいと叫んだとしても、しかしその中で、既にどこかで、慰められている自分を発見する。死にたくない、と涙を流しながら、しかしどこかで頬笑んでいられる。もう駄目だと喚きながら、しかし何とかなると、たかをくくっていられる。その時、回りの者を笑わせる冗談が、自分でも思いがけず口から漏れ出すかもしれない。そして深刻な顔で覗き込んでいる家族もまた、そこで朗らかになり、その中で最期を迎えることが、私たちにだって、もしかしたら出来るかもしれない。イエス・キリストのお甦りの命とは、そのような、決して陰ることなき、明るさを私たちに与えて下さる。それほどの勝利です。それは何と力強い励ましでしょう!

 祈りましょう。 主よ、甦りの命の光に照らされることが、私たちの人生に、どんなにしぶといゆとりを与えるものかを知らされ感謝します。目に見える現実がどれほど悲観的でも、あなたが究極の勝利者であることを信じ、あなたにある楽観を取り戻すことが出来ますように。教会がユーモアの源となって、その笑いの渦巻きに、苦悩する世界を巻き込んでいくことが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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