2019年2月10日 主日朝礼拝説教「真の美はどこに」
使徒言行録25:13~27 イザヤ3:18~4:1 山本裕司 牧師
「翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおもだった人々と共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令でパウロが引き出された。」(使徒言行録25:23)
伝道者パウロは第3次伝道旅行を終えて、エルサレムに帰還した折り、捕らえられました。彼は福音を宣べ伝えただけですが、ユダヤ人たちは彼を亡き者にしようとしたのです。危うい所で、ローマ治安部隊による逮捕名目の保護を受けたパウロは、その後カイサリアで幽閉されます。その2年間の内にローマ総督はフェリクスからフェストゥスに代わりました。その新総督のもとで、改めて取り調べが始まるのです。
使徒言行録25:13以下は、その新総督を表敬訪問するためにカイサリアにやって来たアグリッパ王に関する記事から始まります。このアグリッパ王とは、クリスマス物語に登場するヘロデ大王のひ孫に当たります。彼の父一世は、ローマに忠誠を誓うことによって、ユダヤ王の身分を守った男でした。その父の死後、息子であるアグリッパもユダヤ王の地位を受け継ぎました。しかしそれは、父の代からローマ皇帝の操り人形に過ぎなかった。だから今回も、自分は小なりといえども、一国の王であるにもかかわらず、ローマのユダヤ総督(今で言えば地方県知事レベル)を表敬訪問しなければならなかった。そういうローマ帝国に対する気遣いによって、ようやく王でいられたのです。
このアグリッパ王には、同伴してきた女性「ベルニケ」(使徒言行録25:13)がいました。彼女は王の妹です。妻ではありません。これは兄と妹の近親相姦を匂わせると注解書にありました。実際、ベルニケの評判は悪かった。男を取っ替え引っ替えする女と軽蔑されていました。ベルニケは不幸だった。夫と死別し、次の夫からも逃れ、兄のもとに身を寄せ、世間の指弾を浴びました。最後はローマ皇帝の妾として一生を終えた。それはかつて主イエスが井戸端で出会われたサマリアの女、「五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」(ヨハネ福音書4:18)、そのために、飲んでも飲んでも「また渇く」(4:13)水に悩み抜いた女に似ています。
このヘロデ家は、実に複雑な家族関係をもっていました。男女関係のもつれが付きまとった。その中で女は特に不幸になりました。ベルニケもそのような境遇だったに違いありません。男を渡り歩いたと言われますが、淫らというようなことではなくて、ただ子どもの時から優しかった兄のもとにいる時だけが、彼女の安らぎだったのではないでしょうか。
カイサリアの総督官邸に滞在中、アグリッパ王は新総督フェストゥスより、囚人パウロの話を聞きました。彼は興味をもって伝道者の言い分を聞いてみたくなりました。そして翌日総督官邸での聴聞会が開かれたのです。
「翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおもだった人々と共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令でパウロが引き出された。」(使徒言行録25:23)、小さな会ではなかったようです。カイサリア地方の名士たちも集まりました。その者たちを従えるようにして「アグリッパとベルニケ」が広間に入ってきます。この時の二人の様子を記した言葉に「盛装」(25:23)とありますが、こう翻訳された元のギリシア語は「ファンタスィア」という言葉です。聞いてお分かりの通り、「ファンタジー」という英語の元になった言葉です。「幻想」とも訳せます。
「翌日、アグリッパとベルニケが盛装して到着し、…」(25:23)、王だけが許される息を飲むような美しい衣や金銀を身にまとって、しずしずと入場する二人です。時々テレビに映る皇室男女の取り澄ました装いと重ねても良い。しかし使徒言行録はこれを「ファンタジー」と書いた。「虚飾」とも訳せます。現実はローマ帝国の傀儡に過ぎない。現実はスキャンダルの渦中にあって、身の置き所もなくなっている、心は砂漠のような孤独な女がいるだけです。
その二人の前に引き出されたのが伝道者パウロでした。囚人服のパウロは2年間の牢獄暮らしで、青白い顔で髪もぼさぼさだったでしょう。風呂もない。悪臭がしたに違いない。この謁見室に集められたカラフルな衣をまとい芳香を放つ、上流階級のただ中にあって、その落差は際立つ。しかし彼はベルニケのように孤独ではありませんでした。主イエスが共にいて下さる。異邦人教会の信徒たちが、彼のために祈り続けていました。そして死をも超える命の確信に生きていました。
「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。」(25:19)、イエスが生きていると信じる者は、自分もまたそれに続くと、その復活の希望が彼の顔を輝かせていたことでしょう。それはベルニケの暗い顔と対照的でした。
しかし告発者は「死んでしまったイエス」(25:19)と言う。パウロの主張「生きている」とは「幻想」だと、言った。しかしここで使徒言行録は「盛装」(25:23)、という言葉を使って、どちらが幻想なのかと、どちらが真実なのかと問うているのです。
このアグリッパを最後に、王家ヘロデ家の栄光の時代は終わります。このアグリッパの時代に、ユダヤはローマ帝国によって滅ぼされてしまうからです。ベルニケの末路は、このユダヤを滅ぼしたローマ皇帝の妾となることでした。パウロが汚したと糾弾されたエルサレム神殿もまた、ローマ兵によって踏みにじられ灰燼に帰した。しかし教会も、パウロの伝道も、死ななかったのです。死んでしまったのに生きておられる、主イエスの恵みは、この地上から消えることはありませんでした。いったいどちらが幻・ファンタジーだったのか。そう考えると、この謁見室で裁かれていたのは、どちらなのかということにもなると思います。パウロの方ではなく、むしろユダヤの王と妹が、ローマ総督が、主イエスの永遠の命と比較され、裁かれていたのではないか。この世の力を追い求める生き方が、どんなに儚い砂の器か。そんなものにしがみついていても駄目だと、死んでも生きる、それほど強い望みがここにある。永遠に続くものがここにある。盛装も権力も捨てて、ここに来たらいいではないかと、伝道者パウロはその生き方を通して、王室に詰め寄っているのです。
旧約聖書イザヤ書は、パウロから800年前の言葉です。当時、ユダヤは大繁栄の時代を迎えていました。この時、預言者イザヤが見たシオン、つまり都エルサレムを闊歩する上流階級の女たちの出で立ちが記されています。彼女たちはベルニケに似て、美しさを競い合い、体中に「飾り」(3:18)、「指輪」(3:21)をまとい、「匂い袋」(3:19)の良い香りを放ち、「晴れ着」(3:22)で身を包んで闊歩していたのです。しかし風呂にも入っていないパウロの方こそが「キリストを知るという知識の香りを漂わせて」(コリント二2:14)いたのです。垢だらけの囚人服のパウロこそが、キリストという衣を身にまとっているのです。(ローマ13:14)
しかし繁栄の女たちの人生、その目に見える宝に命を託す生き方が、どれほど危険かと聖書は訴える。「その日」(イザヤ4:1)が来るからです。「バビロン捕囚」の「その日」、シオンの美女たちが誇った美しく編んだ髪は敵の手によって切り取られ、かさぶたの額が丸出しにされる。装身具も指輪も、ことごとく奪われ、体からは芳香も失せ悪臭が漂う。彼女たちの腰を彩った帯は縄となり、彼女たちはそれに繋がれ、奴隷として引かれていくのです(3:24)。
イザヤは、なお繁栄の中にあった、シオンの美女たちの姿が、その内面において、既にそのような死臭を放っている、そう見抜きました。自分を生かす神、死んでも生きる復活の主を見失った時、どれほど美しい衣で覆っても、どれほど指輪で飾っても、人のその内面において、既に人としの「美」を失っている、そう言われているのです。
真の人の美しさ、女性の美とはどこに見られるのでしょうか。体が不自由な中で、絵と詩を描いている有名な星野富弘さんは、こう綴る。
「結婚指輪は いらないと 言った 朝 顔を洗うとき 私の顔を 傷つけないように 体を持ち上げるとき 私が痛くないように 結婚指輪は いらないと いった 今 レースのカーテンをつきぬけてくる 朝陽の中で 私の許に来たあなたが 洗面器から冷たい水をすくっている その十本の指先から 金よりも 銀よりも 美しい雫が 落ちている」
星野さんが新妻の姿を歌った詩です。シオンの女たちの知らなかった真の「美」がここにある。
そうであれば、預言者イザヤは、シオンの美女たちは滅びるのだ、そう裁いただけでしょうか。そうではありません。イザヤはこの後、実に印象的な、また暗示的な預言を続けます。
「その日には、七人の女が/一人の男をとらえて言う。「自分のパンを食べ、自分の着物を着ますから/どうか、あなたの名を名乗ることを許し/わたしたちの恥を取り去ってください」と。」(4:1)、これは勿論、そのまま読めば裁きの言葉です。美女の誇りであったシオンの男たちが皆戦死してしまった後、彼女たちは、なりふり構わず異国の男のものになることを求めることだろう。生きるために。そういう裁きの言葉です。まさに、それはローマ皇帝の妾となったベルニケの現実となりました。
しかしここで、彼女たちが初めて、気付いたことは、贅沢な食事、輝ける衣はもういらないということです。自分の分に見合ったパン、質素な衣、もうそれだけあればいい、しかしただ私の命を守ってくれる一人の男が欲しい。シオンの女たちがそう言った時、これは深いものを暗示していると思いました。
私たちは信仰を持ちますと、キリスト者と呼ばれます。クリスチャンです。それはキリストのものという意味です。キリストの名を名乗る特権を私たちは受けます。私たちはシオンの女のように罪の裁きを受けた時、初めて、真に自分を生かすものが、目に見えるものではなくて、目に見えないものであること知る。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント二4:18)
そのような神の裁きの御手なしに、私たちは最後までそのことに気付かないで「ファンタジー」を現実と錯覚し続ける、愚かな罪人なのではないでしょうか。星野富弘さんが、真の女性の美、その女性の指の美しさ、それは輝けるリングではなくて、その指先から冷たい水が雫のようになって落ちる姿だと、愛の姿だと、真っ先に洞察できた。それは彼が元々若い体育教師であった時持っていた、その輝ける肉体が、どんなに脆いものであったかを知ったことと関係があると思う。
主イエス・キリストについても、イザヤは預言しました。「…この人は…見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。/彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(53:2~3)
そのような姿をもって、私たちを愛して下さった。そのような男と出会うこと、見るべき美しさはないが、その胸の中には溢れる愛がある男、美しい心があるその男の名を名乗ることを許して下さい、そうシオンの女はここで願っている、そう読めないでしょうか。使徒言行録におけるベルニケもまた、権力者ではなく、むしろ、そのような美しい一人の男を切実に求めていたのではないでしょうか。あのサマリアの女のように。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ福音書4:15)
一人の男イエスのものとなった、私たちクリスチャンの幸いを思う。
祈りましょう。 主よ、直ぐ 目に見えるものに、心惹かれる私たちを、聖霊と御言葉によって悔い改めへと導いて下さい。そして目には見えない、美しさに、永遠の希望に、目を開くものとさせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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