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2019年12月8日 主日朝礼拝説教「イエスはわが飼い主」

2019年12月8日 主日朝礼拝説教「イエスはわが飼い主」

エゼキエル34:1~10(旧1352頁) ヨハネ福音書10:1~6(新186頁)
説教者 牧師 山本裕司

「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(ヨハネ福音書10:3)

 主イエスが歩かれたイスラエルは牧畜が盛んでした。先ほども交読詩編23編を交唱頂きました。この詩編を主イエスは熟知しておられたことでしょう。また伝道の旅の途上で羊や羊飼いをいつも御覧になっていたと思います。そういう環境で主は何度口ずさまれたことでしょうか。「主は羊飼い、わたしには欠けることがない」と。しかし羊を養うことは、その牧歌的なイメージ、そして美しい景色と裏腹に、事実はまことに過酷であったと思います。羊飼いにとっても羊にとっても、生きることはそれだけで戦いでした。理想の王と呼ばれたダビデも少年時代、羊飼い・牧者でした。獅子や熊が現れ群れの中の羊を奪い取る、その時、ダビデは獣を追い、その口から羊を取り戻した、向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してきたのだ(サムエル記上17:35)、そうペリシテ人ゴリアトとの一騎打ち前に気勢をあげています。真の羊飼いは羊の命を守るために、猛獣と戦う存在であったのです。そのために命を落とした羊飼いも多かったに違いありません。やがて人々は、羊を人、民に例えるようになりました。その時、今、朗読頂いたように、預言者エゼキエルはイスラエルに民を養う牧者が失われてしまったことを歎いています。エゼキエルの言うイスラエルの牧者たちとは、ダビデと異なり羊を養わず、自分自身を養ったために、ついには国を滅ぼしてしまった、王たち、指導者のことです。そのために、飼う者のなき羊たちは、近隣の大帝国を暗示する野の獣の餌食となってしまったと言われます(エゼキエル34:5)。それどころか預言者は続けて、牧者たちこそ、羊の肉を食らう猛獣として描く。羊は悲鳴をあげたと思う。その瞬間、神が真の羊飼いとなって登場して偽の牧者の口から羊を救い出す(34:10)、そう言われるのです。

 このような預言者の言葉をイエス様は、何度も羊の群れを見ながら思い起こされたと思います。主が御覧になるところ、まさに、今、預言者エゼキエルの見たことが現実となっている。羊たち、つまり民の上に起こっている、羊を導く真の羊飼いが、もはやこの地上にはどこにも存在しないではないか、そういう憂いにかられながら主は旅をされたと思う。そしてそこで、飼う者なき羊を襲う猛獣の前に立ちはだかる、神を代表する牧者とは誰か、そのことを黙想し続けられたと思う。

 そのような黙想の中で生まれてきた譬えこそ、今朝私たちに与えられたヨハネ福音書10章です。そこで示されたことは、エゼキエルの見た羊たちのために降って来る良き羊飼いこそ、イエス御自身に他かならいとう洞察でありました。その確信の中で主は、こう語られるのです。ヨハネ10:1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」羊の囲いの門、そこには門番が常駐しているか、厳重に鍵がかかっていました。そこから入るのは羊飼いのみです。しかし盗人、強盗は夜の闇に乗じ、囲いを破って、羊を外に連れ出そうとしますが、羊は、10:5「ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」、どうしてか、ほかの者の声を知らないからです。そう主イエスは、10:6、このたとえをファリサイ派の人々に話しました。しかし彼らはその話が何のことか分からなかった、とあります。何が分からなかったのかと言うと、それは真の羊飼いが誰で、強盗が誰なのか、分からなかった。分かろうとしなかった、ということだと思います。
 分かるためにはどうしたら良いのかと言うと、9章では目が開くこと、盲人の開眼の物語がありました。10章では耳が良いことです。真の牧者の声を聞き分けることが出来る良い耳を持っているか、そう問われているのです。10:3「羊はその声を聞き分ける」、10:4「羊はその声を知っている」と、羊の耳について主は繰り返します。その時ファリサイ派の人々がしなければならなかったのは、耳を大きく開いて主の言葉に従うことであった。そして宗教的指導者である自分たちもまた、この主に倣って、民を憩いの水の畔である「神の囲い」教会へ導くべきであった。しかし彼等は真の羊飼いの声を聞き分けることが出来なかったために、自分もまた羊飼いになりそこなう。盗人、強盗の類になってしまった、そうやってついてきた羊を食い物にしたのです。そうならないために、私たちは御言葉のみを聞き、道を照らす光とすることが求められているのです。
 
 宮田光雄先生の書かれた一冊に『御言葉はわたしの道の光』があります。副題は「ローズンゲン物語」です。「ローズンゲン」に導かれ毎朝の祈りの時を持って、この一年の道を守られてきた兄弟姉妹は多いと思います。「ローズンゲン」(「合言葉」の意)とは、日毎に選ばれた旧・新約聖書からの短い言葉を組み合わせた聖句集のことです。このアドヴェントの期節に礼拝堂に掲げられた「星」、この伝統を生み出したのがドイツのヘルンフート兄弟団ですが、その兄弟団が始めたものです。

 既に250年以上の歴史があります。毎日いろいろな聖書の箇所が選ばれています。どうやって選ぶのかと言うと、宮田先生は、「ローズンゲン物語」の中で、こう教えて下さっています。ヘルンフート兄弟団本部にはローズンゲンのために集められた旧約聖書の聖句カードが、沢山のボックスに収納されている。その聖句から勝手に選択するのではありません。「くじ」によって引き当てるのです。人間による取捨選択をしないことに、ローズンゲンの本質的意味があります。神の言葉は神の選んだ言葉によって聞くとの信仰がここにあります。実際、ローズンゲンの生みの親である、兄弟団監督ツィンツェンドルフは1731年版のローズンゲンの序文にこう書いているそうです。「私たちは、それぞれの日毎に、どんな事態に出会うことになるのか知り得ないのだから、それぞれの日毎に、しかるべき合言葉を選ぶことを神の摂理の御手にお委ねするのです」と。次にくじで選ばれた旧約聖書の聖句の他に新約聖書の聖句が付け加えられます。それは、もはやくじによってではありません。兄弟団のメンバーが祈りの内に選定します。その新約聖書の言葉は、深い信仰理解をもって、旧約に対応する新約の言葉が選ばれていくのです。二つの言葉の組み合わせの素晴らしさに、私は朝、深い感動を味わって一日を始めることが多いのです。

 何故、日毎に聖書に聞くことが奨励されるのでしょうか。それは、ここまで語ってきた言い方をすれば、私たちが野獣や強盗にならないためです。むしろそれらと戦うためです。このヨハネ福音書10章を解説する人たちが何人も思い出しているのは、80年前のドイツで、狼そのものであったと言って良いヒトラーと戦った、告白教会の指導者、ディートリッヒ・ボンヘッファーの人生です。宮田先生の「ローズンゲン物語」によると、第2次世界大戦が始まる直前、1939年初夏、ボンヘッファーは友人の好意で亡命のチャンスを得て渡米しました。そこで彼は大学神学部などやり甲斐ある仕事が与えられようとしていました。しかし彼はわずか一月でドイツに帰国しました。既にドイツ教会はこぞってヒトラーに忠誠を誓っていました。つまり牧師たちの多くが神の言葉に耳を閉ざした中で、彼は良い羊飼いであり続けようとしたのです。踏み止まった告白教会の仲間と共にナチ政権を倒すために、地下抵抗運動に加わる道を選択する。その道はまさに羊飼いダビデが獅子に打ち掛かり、その口から羊を取り戻そうとする営みでした。しかし彼は逆に猛獣ヒトラーに捕らえられ処刑されます。その殉教の死が待っているドイツへの帰国でした。10:11「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」その通りに彼は生きた。こう紹介すると、英雄ボンヘッファーということになる。そして私も含めて弱さに悩む者は、自分はボンヘッファーにはなれないと劣等感を覚えるだけなのでしょうか。しかし私が最もボンヘッファーの伝記で感動するのは、その英雄的行為だけでなく、彼の御言葉への服従です。本当に神の言葉を、耳を大きく広げて聞いた人だったと思います。そこは私たちも少しは真似ることが出来るのではないでしょうか。伝記では彼がニューヨークに留まるべきか帰国すべきかで、どれ程躊躇逡巡したか、私たちに似た人の姿が描かれています。毎日の「ローズンゲン」は、迷いに迷う彼を励まし続けたと言われます。

 10:3~4「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」

 彼がしたことはただこの通り、御声について行っただけです。1939年6月24日の「ローズンゲン」の聖句は、「信ずる者は逃れることは出来ない」(イザヤ28:16)でした。彼はそれを引用して「私は故郷での仕事のことを思う」と日記に書きました。それから2日後1939年6月26日、彼はその日の「ローズンゲン」の中に、この言葉を発見します。「冬になる前に急いできてほしい」(テモテ二4:21・口語訳)。そして彼はこう言うのです。「この言葉が一日中、私の頭にこびりついて離れなかった。それは、戦場から休暇で帰ってきた兵士が、全てのものを振り捨てて、また戦場に引き戻される時のようなものだ。私たちはそこからもう離れることは出来ない。…もしも私たちがそこに帰らなければ、私たちは自分の命を捨て去り、そして否定することになるからである。…『冬になる前に急いできてほしい』…これをもし私が自分に言われたことだと理解しても、それは聖書の誤用ではない。」そう言うのです。こうして、ついに帰国の決意を固めた時、彼は初めて晴れやかな気持ちとなりました。

 彼のこの内面的な戦いに、ユニオン神学校の「預言の部屋」と呼ばれたゲストルームで決着をつけました。やがて、ユニオン神学校の夏学期が始まった時に、カルヴァン研究家マックニール教授が「預言の部屋」に転居してきました。彼は自分の知らない前居住者の残した判読出来ない文字を書き散らかした紙や、煙草の消費量に驚いた。また教授は、自分の前に住んでいた人物というのはひどく集中的な研究者か、それでなければ非常な変わり者だと想像した。彼の前に誰が住んでいて、その人が最も困難な決断をそこでなしたことを知ったのは、遙かに後のことだったと、言われています。

 ここに表れているボンヘッファーは、むしろ私たちに近い人です。一度は、狼の巣窟となった祖国を去りニューヨークに逃れた人です。しかし彼は御言葉から指し示され、やがてラインホルト・ニーバーにこう手紙を書きました。「私がアメリカに来たのは間違いでした。」間違える人だったのです。そこもまた私たちと似ている。しかし間違えた時に彼は御言葉と格闘しました。そして「ローズンゲン」、日々の聖句に背を押されて、羊飼いイエス・キリストの御言葉に服従するのです。

 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。」

 この御言葉を信じる時、私たちもまた自らの迷いの罪を告白して、軌道修正することが出来る。この御言葉に従うことは時に厳しい。しかし従わなければもっと私たちの人生は厳しくなるのです。主は別の所で教えて下さいました。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」(ルカ12:4b)。羊飼いイエス・キリストのもとにこそ、永遠の命があるからであります。

祈りましょう。 わが飼い主イエス・キリストの父なる神様、迷える羊である私たちにあなたの御声を聞き分ける良い耳を与えて下さい。どんなに肉体の聴力が衰えても、御子イエスが私たちの名をお呼び下さる御声だけは、はっきりと聞くことの出来る耳を終わりまで開いていて下さい。クリスマスの日に、この教会の門から堂々と入って来て下さり、私たち一人一人の名を呼んで下さる御子の声を、深い期待をもって待つアドヴェントの日々とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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