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2019年12月29日 主日朝礼拝説教「声を張り上げるヨハネ」

2019年12月29日 主日朝礼拝説教「声を張り上げるヨハネ」

創世記1:1~3 ヨハネ福音書1:1~13  山本裕司 牧師

 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」(ヨハネ福音書1:15)

 今朝、降誕節第一主日は、同時に、2019年の終わりの主日となりました。しかし、今、私たちに与えられた、旧約聖書と新約聖書の言葉は共通に、終わりではなく「初めに」と語り出されています。創世記1章とヨハネ福音書1章は、一つに重なり合うようにして、新しい光の到来を語ります。そこで、その光とは何であるのか、何でないのかを、両約聖書がどんなに注意深く語っているかを私たちは学ぶのです。

 創世記は語ります。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(1:3)。天地創造の御業、その初日の第一声は「光あれ」です。しかしこれは私たちが予想するような、太陽の創造ではありません。太陽など天体の創造は、ずっと後で四日目になされるのです。この最初の決定的なる「光」とは、混沌の「闇」(1:2)、歴史の夜、罪の暗黒を照らす救いの光、そしてあらゆる生命を育む光、創造主から直接放射される愛と命の光を意味しています。それとは別に天体の創造が言われるのです。「神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。』そのようになった。」(1:14~15)、私たちは天体の創造が天地創造も半ばを過ぎた、四日目という遅い時期に位置付けられたことに、不可解さを感じるのではないでしょうか。誰でも草や果樹が太陽光によって生きていることを知っています。しかしその植物の創造は、太陽の創造に先んじているのです(1:11)。古代人はかくも非科学的だったなどということを、私たちに言う資格はありません。何故なら、彼らの自然や天体に対する感性の鋭さは私たちの比ではないからです。全ての生命を育み、暦の基準となる天体の力を余すところなく知っている者が、しかしあえて、天体の創造を遅らせて描いているのです。ここに実は、創世記記者の渾身の信仰告白、その表明があるのです。古代のいずれの国でも天体は神格化されてきました。数日後の元旦早朝に不忍池で見られるに違いありません。「初日の出」は拝礼の対象です。天皇家の皇祖神アマテラスは太陽神であり、天皇は大嘗祭によって太陽神と一体化します。古代エジプトでも同様に、太陽神ラーが存在し、モーセと争ったファラオ・ラムセス二世と合体し「現人神」が出現していました。
 この天地創造を書いた祭司たちが、メソポタミアの都バビロンに捕囚として連れて来られた時、最も苦痛であったのは、太陽、月、星を神々として拝む盛大な祭りを目の当たりにしなければならないことでした。そういう中で、彼らは、いや天体は被造物であると、造られたもの、物体に過ぎないと、天地創造物語を描いたのです。

 同じメソポタミアのウル、あるいはハランを故郷とするアブラハムは、その文明都市から、行き先を知らないまま、荒れ野に旅立つように主から求められました。それはどんなに豊かであっても、天体を拝まなければならない人生からの旅立ちであり、万物の創造主のみを礼拝する「信仰の父」となるためであったのです。メソポタミアで、星々は占星術に用いられてきました。この降誕節、まさに東の国・メソポタミアからはるばるベツレヘムの御子を訪ねてきたのも、占星術の学者たちでした。だから「その方の星」(マタイ2:2)の動きに敏感だったのです。彼らが世界で最初のクリスマス礼拝を献げた後、福音書は、学者たちは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(2:12b)と印象深く記します。それは彼らがクリスマス以来、星々を拝む偶像崇拝とは別の道、御子イエスを礼拝する道へと方向転換・悔い改めをしたをことを暗示するのです。私たちも先週クリスマス礼拝を献げた以上、これから始まる2020年の一年の旅路を、別の道を通る歩みとするのです。それは今なお日本人の心を支配する「太陽神」など、あらゆる偶像からの決別の道です。御子イエスのみを拝する道を進む、新年、令和2年でなく、主の年2020年を迎えたいと願います。

 創世記に戻ると、初めに、神ご自身が放射された光の一部は、この四日目に造られた天体群(1:14~15)を媒介し、地にもたらせられる、そのような理解があると思います。つまり天体は、それ自体が光を放つのではなく、神の光の一部(物理的光)を、地球にもたらすパイプのような役割を負っている。あるいは反射する鏡のような存在である、そういう理解がここにあるように感じられます。今、私たちは、月はまさに、それ自体が光っているのではなく、太陽光を反射して輝いていることを知っています。それに似て、実は、太陽、月、星々は、みな、それ自体が貴いものではない。それ自体は暗い物体に過ぎませんが、創造主から直接放射される神の光(1:3)を通過させる「パイプ」としての役割は持つ。あるいは反射する。つまり自力では光れないのです。天体は、神の光を証しし、指し示すものである。そのような信仰が天地創造神話で告白されていると思います。

 こういう光に対する洞察を、ヨハネ福音書は受け継ぎ、新約の光の中で語り直そうとしている、そう確信します。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。/彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。/彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」(ヨハネ1:6~8)
 当時、洗礼者ヨハネは太陽のように輝いていました。新約学者ブルトマンは、ヨハネ福音書冒頭に記される「賛歌」、「光は暗闇の中で輝いている」(1:5)などは、もともと洗礼者ヨハネの教団が、恩師に献げた讃美歌であった、そういう仮説を発表しています。ヨハネは偉大であった。事実、主イエスご自身がこのヨハネから洗礼をお受けになっておられるのです。そのことは、ルカ福音書のクリスマスの物語でも同様のことが言えます。ルカでは、御子イエスと並んで、ヨハネの誕生物語が記されます。そのクリスマス賛歌の中に、ヨハネの父ザカリアの歌・ベネディクトゥスがあります(ルカ1:67~79)。これもヨハネ教団に伝わるヨハネを褒め称える歌であったという説があります。そうであれば、ヨハネは「あけぼのの光」(ルカ1:78)、まさに太陽と崇敬されたのです。あるいは、この1世紀の時代に、既に、洗礼者ヨハネの名声は、ユダヤのみならず、遠くローマ世界にも聞こえていたと指摘されます。ヨセフスなど、当時の歴史家の記録を読んでも、イエスに関する記述は曖昧であるのに、洗礼者ヨハネに関しては明瞭である。つまりイエスよりヨハネの方が高名であったというのが、事実であったと指摘されるのです。

 しかしそのような理解に抗議するかのように、ヨハネ福音書は「彼(ヨハネ)は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。/彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」(1:7~8)と断言しました。洗礼者ヨハネは光の証人であり、光そのものではない。この「彼によって」(1:7)と訳されている言葉は英語では、時に「スルー」(通り抜ける)という前置詞で訳されます。ヨハネは通過するもの、媒介です。そこに人々の眼差しが注がれ、止まってしまう、そういうことではない。確かにヨハネは太陽のように輝いて見える。しかしヨハネは、自分を輝かせているお方を指し示す「器」なのです。自分を「スルー」して向こう側にある、光の源にこそ、目を留めることを人々に求めるのです。「スルーされた」、それは普通、無視されるという悲しい意味です。しかし私たちキリスト者にとってはそうではありません。自分は透明になって、御子の光を素通りさせることを願う者をキリスト者と呼ぶのです。洗礼者ヨハネはこう謙遜に言いました。「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」(1:15)。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(3:30)
 ここで、天地創造の言葉とこの福音書は明らかに重なるのです。天体の光がどれほど輝いていても、それは天体よりも先にあった光を証ししているに過ぎない。天体はただ神の光を反射するか、通過させているだけである。天体崇拝は許されないと、その同じ心をもってヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネを拝んではならない。彼が指し示す始源の光、イエス・キリストのみが救いの光であると訴えることを以て、この福音書を書き始めたのです。

 私たちがクリスマス以来、別の道を通って旅をするとは、まさに、それはヨハネの道を歩むということです。「彼は証しをするために来た。…彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」(1:7~8)、ヨハネにとって、自分が目立ったり讃美されたりすることは、耐え難いことでした。それは彼にとって「声を張り上げて」(1:15)拒絶するほど嫌悪すべきことだったのです。皆さんは、ここで声を張り上げるヨハネの気持ちが分かりますか。もうこの時代に始まっていたかもしれない、自分が御子イエスよりも大きく描かれることに、彼は耐えることが出来なかったのです。もし死後、自分の讃美歌を弟子たちが歌い出した時、天国の彼は「やめてくれ」と叫び出したに違いない。私たちも同様です。私たちの一生は、ただ光を指し示す人生なのです。イエス・キリストの御名だけが輝くことを、求めて謙遜に生きるのです。

 そうしないと、だんだん大変なことになる。このヨハネ福音書は、ローマ帝国の迫害下で記されました。ローマ皇帝は自らを現人神としたのです。人間が神となる、それがどれほど恐ろしいことになるか。そのことをヨハネは、よく知っているのです。自分が神になる時、私たちは真の神の言葉を聞かない人間になるのです。それは神の言・イエスを十字架につける道です。ヨハネが願ったのは、そうではなく、ただイエスの御名だけが大きくなること求めたのです。キリストのみを指し示し、自分が小さくされても、スルーされても良いと思った。クリスマスの夜、飼い葉桶に生まれ、受難週の金曜、真昼の暗黒の中で、十字架で死なれた御子が、先ず全世界、全人類からスルーされることに耐える道を歩んで下さったのです。その末に私たちの原罪の暗闇を照らす、真の光の主として君臨して下さった。その「御子にのみに栄光あれ!」と私たちは、自らが太陽神になる道を忌避し、別の道を通る2020年の旅としたい、そう願う。

 祈りましょう。 主なる神様、光そのものであるクリスマスの御子を、私たちが透明になって、反射させて、人々の前に輝かせる「証人」としての使命に生きることが出来ますように。光は御子からのみ発することを、生涯をかけて宣べ伝え、そして死の時も、自分ではないと、ただ御子だけを見るようにと、皆に促しつつ旅を終えることが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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