2019年12月15日 主日朝礼拝説教「良き羊飼いにのみ従え」

説教者 山本裕司 牧師

出エジプト記20:2~5a  ヨハネ福音書10:7~21

「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20:3)

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」(ヨハネ福音書10:9)

 今朝与えられたヨハネ福音書10章において主イエスは二つの譬えによって、御自身とは誰であるかをお語りくださいました。一つは余りにも有名なお言葉です。「わたしは良い羊飼いである」(10:11、14)、もう一つは「わたしは羊の門である」(10:7)です。早朝、良い羊飼いに導かれ「門」を通った羊たちは「青草の原…憩いの水のほとり」(詩編23:2)で、飢え渇きを癒やされ、夕方、羊の門を通って囲いの中に戻ります。そして強盗や狼に襲われる心配なき安息の夜を迎えるのです。主イエスは言われました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。…わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(10:9~10)
 「わたしは羊の門である。」羊である私たちは、この門を通らなければ命の危険にさらされる。他の門ではない。主イエスだけが救いに至る門なのです。「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」(10:1)、「前に来た者は皆」、「盗人であり、強盗である」(10:1、8)。偽メシアがいつの時代にも「ここに青草の原がある」と誘惑します。しかし主はここで、偽者は偽りの門から羊を盗み出し「屠ったり、滅ぼしたりする」(10:10)と警告されるのです。

 数ヶ月後、私たちはこの御言葉を読むことでしょう。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。主イエスは私たちを父なる神に導く唯一の道、門です。他ではないのだと主は「はっきり」(10:7原文「アーメン、アーメン」)断言されました。

 「主イエスが門である」、この「アーメン」に「アーメン」を以て応えるか、応えないかで「ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」(10:19)とあります。私たちも同じです。これによってヨハネ教会は読者である私たちに「あなたはどちらに与するのですか」と問うているのです。当時、主の言葉に「アーメン」と応えたユダヤ人は本当に少数でした。その者たちはユダヤ会堂を追放され、「狭き門」を通ってヨハネ教会を創立したのです。「わたしは羊の門である」(10:7)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)と宣言されるイエスこそ「わたしはある」(出エジプト3:14)との御名をもつ唯一の神であると信じたからです。もう一つの「ヨハネ文書」ヨハネの手紙を読むと、その初代教会は既に複数の異端に悩まされていたことが分かります。それは全て、イエスが神である、そのヨハネ教会の信仰を否定するものでした。自分たちの考えを「門」とした、そちらの方が輝く栄光の門、役に立つ門に見えた、つまり「広き門」に見えた。しかしそれは「滅び」(10:10)に至る門だったのです。十字架へと進む主の門は一見貧しく見えました。しかしそれこそが命への門だったのです。

 これらの御言葉に差し掛かった時、多くの注解者が思い出すのはドイツ告白教会が生み出した「バルメン宣言」です。政権を掌握したヒトラーは民族主義を標榜し、ユダヤ人大虐殺を行い世界大戦へ邁進しました。その時多くのプロテスタント教会は「ドイツ的キリスト者」を名乗ってナチスに追随しました。この危機的事態に抵抗する「告白教会」を創立した者たちの信仰告白が「バルメン宣言」(1934年)でした。その第一項はこうです。

 「聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、…われわれが…信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで(キーワードはこれ!)、他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないという誤った教えを、われわれは退ける。」
 この第六項まで続く宣言は、その項目毎に、聖書がその根拠として引用されます。この第一項に表れる言葉こそ、第一に「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)であり、第二が「わたしは羊の門である」(10:7)なのです。

 当時、ヒトラーの力は燦然と輝いていた。第一次大戦の敗戦以来、ドイツを苦しめた経済問題をヒトラーは克服し強いドイツが復興しました。この成功に感謝したキリスト者たちは、このヒトラーとドイツ民族に献身することが、神の意志に応える道であると信じたのです。勿論そこでイエスが道である、イエスは門である、この御言葉を露骨に否定する者はいなかったと思います。しかし牧師任職の按手礼の際、主イエスとその御言葉に仕えるとの約束と並んで、以下が誓わせられるようになりました。「私はドイツ帝国と民族の指導者である総督アドルフ・ヒトラーに忠実に服従します。」勿論、牧師たちはイエスが門であることは知っていました。しかしイエスのみ、ということを「はっきり」言わなくなったのです。神に至る門は、イエスだけでなくヒトラーへの服従という民族主義的「門」もあるとされたのです。それに対して、告白教会は「バルメン宣言」をもって、否、と「はっきり」言いました。そして、教会はただ神の言葉を聞くこと、イエス・キリストだけが神と命に至る門であり道であることを、ヨハネ福音書の御言葉を掲げて「はっきり」訴えたのです。それはまさに二千年前のヨハネ教会の信仰に「アーメン、アーメン」と呼応し、それを受け継ぐ教会であろうとする決意表明でした。

 武田武長先生は十戒の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20:3)を注解されヘブライ語の意味を教えられました(「信徒の友」2006年5月号)。「あなたはわたしと並べて他のいかなる神々を持ってはならない。」この戒めは、決して神を捨ててはならいと言われているのではありません。それがいけないのは信仰者なら誰でも分かるのです。ここは「真の神と並べて他の神々を拝んではならない」と言っているのです。これは明らかに私たち信仰者に言われている戒めです。私たちも今こうして礼拝をしています。それは正しいことです。しかしもし私たちが、主イエス・キリストと並べて、別の何かを神々として、それにも従っているのであれば、それは「ドイツ的キリスト者」のしたことと同じであり、十戒違反なのです。

 武田先生はその十戒講解でやはり「バルメン宣言」に言及されつつ、問題とされるのは私たち日本基督教団のことです。日本基督教団は、1941(S16)年6月24~25日、富士見町教会に於いて、議員307名を集めて創立総会を開きました。そこで先ず「君が代斉唱」、「皇居遙拝」、「皇軍兵士のための黙祷」、「皇国臣民の誓い」が唱えられました。それとまさに並んで、聖書朗読、祈祷、讃美斉唱が行われました。いわば二つの「門」がここで並列されたのです。またその時定められた信仰告白は、現行の「日本基督教団信仰告白」とほぼ同じです。しかしそれと並んで、「皇国の道に従いて信仰に徹し各々その分を尽くして皇運(天皇の道)を扶翼(ふよく)し奉(たてまつ)るべし」と並列される言葉が入りました。その創立総会で承認された富田満教団統理は直後、伊勢神宮に参拝したのです。この情報をドイツの獄中で得た告白教会指導者ボンヘッファーは、獄中における十戒研究の中でこう書きました。「最近、日本のキリスト者の大部分は、国家の天皇礼拝に参加することが許されると宣言した。」武田先生は、これはもはや教会の戦争協力の罪などというようなものでない。これは誤魔化しようもなく、神と「並べて」天皇を置いた罪、つまり偶像礼拝の罪、第一戒違反だと「はっきり」記すのです。

 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。/盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10:9~10)

 キリスト以外の別の門と道を通った時、ドイツも日本も、そこで起こったことは破滅でした。まさに強盗と狼によって蹂躙された羊の群れとなった。それは最初、声高なスローガンによって、栄光に輝く門に見えましたが、その門の先に青草の原はありませんでした。憩いの水のほとりもありません。その向こうには滅び谷が口を開けて待っていたのです。宮田光雄先生の「ローズンゲン物語」を読むと、そのような中で、なお主に服従し、主に倣って良い羊飼いとして、盗人と狼と戦った少数者を励ましたのは、日々の聖句「ローズンゲン」であった、神の言葉のみであったと言われています。
 1944年7月20日、ヒトラー暗殺計画の最後の試みは失敗しました。それは獄中にある抵抗者にとっては必然的に処刑の日は近いことを予感させるものでした。その翌日の親友宛のボンヘッファーの手紙には、変わらず「ローズンゲン」と共に生きる彼の不動の姿勢が見られます。「人はごく単純にその日の『ローズンゲン』を読んで喜べば良い。たとえば僕が、昨日の、そして特に今日の聖句を喜んだように。」「昨日」、つまり暗殺計画が失敗した7月20日の「ローズンゲン」はこうでした。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」(詩編20:8)。これに添えられた新約聖書は「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ8:31)であった。
 そして、ボンヘッファーが言う「今日」、1944年7月21日こそ、今日、私たちに与えられた「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10:14)、これだったのです。ボンヘッファーはこれを信じて、ただ喜べばいいと言った。そこにあるのは不動の御言葉への信頼です。神の言葉に対する一途な思いです。宮田先生はこうコメントしています。人間的に言えば、生きる希望が全て消え失せてしまったかにみえる状況です。そのただ中で、ボンヘッファーは「ローズンゲン」を通して、希望の約束を見出すのです、と。

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)。

 このようなお方が他にいるかということです。ドイツではどうだったのか、日本ではどうだったのか。むしろ弱い羊たちを犠牲にして、自分のみを救う強者が多く現れたのではないでしょうか。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―」(10:11)
 逆に主イエスは、御自身に罪がないのに、私たち付和雷同した羊たちの全ての罪を負って十字架について死なれました。それは羊たちへの愛の故です。偽牧者「敵」すら愛したと言って良い。このようなことをして下さったのはイエス・キリストのみ。だから直ぐ主イエスと並ぶ他の門にもふらふらと入ってしまうような、不信仰な私たちも救われたのです。そうやって、青草の原、憩いの水のほとりである西片町教会に導かれたのです。本当に私たちを愛し、私たちのために命を捨ててくださる牧者は、ただ主イエスのみ。私たちの人生の中に、この唯一の門、唯一の良い羊飼いが与えられたことを心より感謝しましょう。

祈りましょう。 主なる神様、唯一の門であられる、御子のみに、生涯の忠誠を誓う私たちでありますように。直ぐ目を惑わす門に幻惑されます。その時あなたの杖と鞭を以て私たちをこの羊の囲いの教会に立ち戻らせてください。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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