2019年12月1日 主日朝礼拝説教「真理(アーメン)への開眼」
創世記49:10 ヨハネ福音書9:13~23
説教者 牧師 山本裕司
「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」(創世記49:10)
「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」(ヨハネ福音書9:15b)
上記福音書の引用は、盲人であった人の証言です。どこで目を洗ったかと言うと、それは「シロアムの池」(9:7)です。仮庵祭の時、祭司はシロアムの池で水を汲み、黄金の柄杓で神殿に携え上り祭壇に注ぎました。そこで出エジプトの民が荒れ野の旅の中、神の恵みによって渇きが癒やされた、その故事が想起されたのです。「シロアムの池」とは、その地下導水路と共に現在の観光名所です。城塞都市エルサレムは大昔から、戦争と籠城に備える水の確保が求められてきました。外から城内へ水を引き込む水路が破壊されれば、万事休すです。そこで水路は敵に発見されいように、時の王によって地下に掘られました。その終点、城内の貯水槽がシロアムの池です。その名の意味は「遣わされた者」(9:7a)と説明されています。元々の「シロアム」の意味は「水道」という普通の意味だそうですが、それは「生きた命の水の道」まさに「水道」イエスを暗示しているとも言えます。
あるいは創世記の「ヤコブの祝福」にこうあります。「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」(49:10)。この来るべきメシア「シロ」はユダから現れると歌われますが、まさに御子イエスはイスラエル12部族のユダ族の出身です。やがてこのヤコブの預言「シロ」という救い主の名がシロアムと結び付きます。このヤコブが預言したシロこそ、シロアムの池を指し示し、民に命の水を与え、同時に光を見せて下さる、真の仮庵祭の主・イエスである、そう福音書は暗示していると確信します。
このヤコブの預言を信じ、神から遣わされる王シロを待ち続けてきた会堂のユダヤ人たちに、主イエスは私がシロなのだ、父から「遣わされた者」シロアムなのだと、同時に「わたしはある」(8:58b)と、父なる神と一つなのだと、主は「はっきり」(8:58a)自己開示されました。この「はっきり言っておく」とは原文では「アーメン、アーメン」です。「真理」の意味です。それが見えるということこそ、光を見るということなのです。「わたしは、世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩むことがない。」(8:12)この「暗闇の中」とは、このイエスこそが、神から遣わされたシロであり、神ご自身であるとの「アーメン」から、目が塞がれていることなのです。
イエスが神ご自身である、その真理は「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」(9:15b)からも暗示されます。この「こねた土」というのは、旧約の人間創造の神話を思い出させるのではないでしょうか。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)、それは創造主と一体であられる御子イエスの新しい創造の御業が、ここで起こっているのだと読めるのです。真理の光を見る「瞳」が、この盲人の顔面に創造されたのです。そうであれば、この洗いの水とは「命の息」(創世記2:7)、聖霊の注ぎと重なる。そうやってここに、一人の命あるキリスト者が神によって創造されたのである、そう暗示されているのです。土の塵で作られた私たちに、命の息がシロアムの水のように注がれる。その時人は霊的命を得て光を見るのです。だから信仰を持つことが出来るのも恩寵です。信仰もまた創造主の創造によって生まれる御業だと、ヨハネ福音書は言うのです。
使徒パウロも言いました。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(一コリント12:3b)。このように確かに信仰を告白し洗礼を受けるとは、聖霊の御業によりますが、同時に人間の方もその光への招きに応答することが求められます。土戸清先生は、その「応答」もまたこの物語に含まれていると指摘します。それが「わたしが洗う」(ヨハネ9:15)との目が開かれた人の告白です。確かに決定的なことはイエス様がして下さっています。しかし最後は自分が決断して、シロアムの池まで行って自分で洗うのです。それこそが、主の「アーメン」に対して、私たちも「アーメン」を以て応える、人間の義務であり責任です。そこにこそ、新しい人間が創造されるのです。キリスト者が誕生するのです。12月22日、クリスマス朝礼拝での洗礼式でも、その奇跡が出現することでしょう。それは何と待ち遠しいことでしょうか。
ところが会堂のユダヤ人(ファリサイ派の人々)は、この奇跡の日が安息日だったので、主イエスは律法違反者だから神から来た者ではないと、せっかく来て下さった主イエスを拒絶しました(9:16)。この福音書を生み出したヨハネ教会のキリスト者たちは、元々ユダヤ人でした。当然ユダヤ教徒として会堂(シナゴーグ)に属していました。しかし人々に先んじてイエスこそ、ヤコブの預言の「シロ」であると、神からシロアムに遣わされて来たメシアである、生ける水、世の光であると、その真理に目を開かれた者たちでした。ところが紀元80年代、エルサレム陥落によってヤムニアに移ったユダヤ会堂本山・最高法院(サンヘドリン)会議において、こういう決定がなされたのです。「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放する」(9:22b)。ここはイエス様の時代、紀元30年頃とヤムニア会議の時代、紀元80年頃を重なり合わせて描いた箇所です。その時代のユダヤ会堂において、同じ会員でありながらイエスを信じている、いわば「隠れキリシタン」をどうやって発見するかが課題となっていました。そこで用いられたのが、会堂礼拝で唱えられる「18祈願」でした。その形式は、代表がその一つ一つを唱える度に、会衆が「アーメン」と唱和していくものです。そして当時の最高法院長ラバン・ガマリエルが祈願を改訂して、異端者を呪う祈りを、12番目の祈願に付け加えました。「背教者たちには希望がないように。我々の時代から速やかに根絶されるように。/(この次が改訂されました)ナザレ人(キリスト教徒)たちと異端者たちは瞬時に滅ぼされるように。生命の書から彼らは抹殺されるように。」そう代表が朗唱すると会衆が「アーメン」と返すのです。主イエスの「アーメン、アーメン」に「アーメン」を以て応えないと、人間はとんでもない「アーメン」を唱えることとなる。その「アーメン」とは、呪いと暗黒への応答となってしまうのです。
その会堂の中に、真理に目を開いて頂いたキリスト者がいれば、12番で「アーメン」とは言えない。沈黙します。するとこの者は怪しいと疑われることとなりました。以前、公立学校の先生が、卒業式での「君が代」強制に抗して歌わなかった。そうしたらその唇の動きを誰かが監視していて、処分されたという話がありました。大昔から人間は同じことをしていたわけです。ユダヤ会堂の場合は、疑われた人をあえて司式者に指名するのです。その人は皆の前で、12番までくると口籠もってしまう。そうやって隠れキリシタンだと暴かれた時起こるのが、「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放する…」(9:22b)。このような仕方で、シナゴーグからキリスト者は破門されました。
古代ユダヤ人が会堂から追放されるということは大変なことでした。それは流れ者になるか、そのまま死を意味するほどのことでした。主イエスは弟子たちに預言しました。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(16:2)。そのために彼らユダヤ人キリスト者たちは、新しい共同体・ヨハネ教会を創立して自らを守りました。そこで自分たちが見た光を証しするために、この福音書を編纂したのです。
目が開かれたために、ユダヤ共同体の「外に追い出された」(9:34)男に、主は直ぐお会い下さり迎えて下さっています(9:35)。この男に半世紀後のヨハネ教会の人々は自分たちの姿を重ねているのです。我々もまたイエスこそ神御自身だと告白して村八分とされた。しかしその時新たにキリストの教会が迎えてくれるのだ。ここで光を仰いで互いに支え合って生きていこう。この教会こそ新しい真の仮庵祭なのだから。そういう決意がこの福音書には込められています。
このヨハネ教会の時代、このような信仰の勝利の一方、主イエスを一度は信じながら、会堂追放を恐れたために、教会から距離を取った者も多くいたと推測出来ます。
「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。」(12:42)
その代表として登場するのが、この目を開いて頂いた男の両親です。ヨハネ教会の時代としてここを読むなら、この両親の息子は闇の中に長く打ち沈んでいた。そのためにずっと両親は悩んでいたと思う。ところが息子は教会に招かれてどんどん変わっていった。暗い顔をしていたのに光に照らされたように明るくなった。本当に嬉しかったと思う。そして両親も息子を救ってくれたキリスト教を信じ始めていたのではないでしょうか。その時会堂長から問われる。注解者はこの福音書に登場するファリサイ派の問いとは、実はヨハネの時代の宗教裁判のことだと指摘しています。「あなたの息子は…どうして今は目が見えるのか」(9:19)。そう尋問された時に両親は「分かりません」(9:21a)としか言えませんでした。両親は主イエスが息子を救った、光を与えたのはキリストです、そう事実を証言すべきところで「ユダヤ人たちを恐れた」(9:22)、そのために信仰告白を避けました。そうやってこの両親は光を見失ってしまうのです。息子ではない両親こそが目が塞がれているのだと、福音書は暗示します。だから主は最後に言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(9:39)
私たちも繰り返し両親のように、主イエスを知りながら「アーメン」と唱和せず、神から逃げる、そのような弱さがあります。それは再び目が塞がれたことであり、闇の中への逆戻りです。しかしその度に、主イエスは、遣わされた者シロとして私たちの所に来て下さる。そしてもう一度、光を見せて下さるに違いない。土の塵から命ある者に再創造して下さる。そのお方は誰か、その問いに、二千年前、目を開かれた男は、両親と真に対照的に答えます。「イエスという方が」(9:11a)と、「あの方が」(9:15、25、30、33)と。そう何度も何度も飽かずにこの人は繰り返す。これこそ信仰告白です。彼は恐れを超える、大きな感謝からです。このお方以外の誰も私たちの暗い眼差しを、希望に向けて開くことは出来はしない。この救いの経験をした者は、たとえ何から追われても、シロに行く、ヨハネの教会を選ぶ。そう福音書は私たちに訴えて止みません。
祈りましょう。主なる神様、私たちが不信仰の闇に落ちる時、その度に、御子を私たちの所にお遣わし下さり、御子の指し示されるシロアムの池で、自ら、洗うことが出来ますように。そして目開かれ、御子こそ我がシロ、我が救い主、アーメンと告白する私たちとならせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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