2019年11月24日 主日朝礼拝説教「光を見る」
ヨハネ福音書9:1~12 山本裕司 牧師
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ福音書9:2)
先日、吉田好里牧師をお招きした時、先生が長年取り組んでこられた、カルト問題についてもご教示を頂きました。破壊的カルトが用いる金儲けの方法に「因果応報」があります。因果律とは、これはカルトだけではなく、多くの宗教に共通の教えで、日本の普通の宗教的行事である追善供養(法事)にもこの思想は含まれています。この私たちが馴染んできた信心をカルトは目一杯利用するのです。吉田先生と一緒に、統一協会、今は名を変えて「世界平和統一家庭連合」と長く戦ってこられたのは、川崎経子(きょうこ)牧師です。先生は、機関誌の中で、統一協会が用いた「因縁トーク」を取り上げられていますので、それを紹介します。
統一協会が霊感商法のためにマニュアル化した因縁(いんねん)話に「吉展ちゃんトーク」があります。幼い吉展ちゃんが、誘拐され殺された事件を記憶しているご年配の方は多くおられると思います。統一協会の幹部たちは、これをもとにこのようなトークを作りました。「吉展ちゃんが犯人小原保に殺されたのは深い因縁がある。吉展ちゃんの先祖も、小原保の先祖も福島県石川村の住民だった。ある旱魃の年、村の中で水争いが起こり、両者は敵と味方に分かれて争い、ついに吉展ちゃんの七代前の先祖が、小原の七代前の先祖を殺してしまう結果になった。この殺傷因縁が七代後の吉展ちゃんに巡ってきて小原保によって殺されたのである。因縁とはこのように恐ろしい働きをするものである。」だから霊能者が見たあなたの先祖の因縁も、献金によって断ち切らないと、不幸が訪れると脅迫するのです。これは誰も吉展ちゃんや小原の七代前を学問的に調査しないことを見越した作り話です。このように因縁だったから殺されて当然のような作り話で、どんなに死んだ吉展ちゃんや家族の名誉を傷つけても、カルトは知ったことではありません。
そう言って川崎牧師が引用したのが、今朝私たちに与えられた御言葉です。
「弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。…」」(ヨハネ福音書9:2)
そして川崎牧師は続けます。「イエス・キリストはこう言われて、その盲人に前向きに生きる力を与えられました。後ろ向きになって先祖の罪にその原因を捜してみても何も生まれません。主イエスは、この人が盲人であることを、将来、神の素晴らしい御業が現れるという結果を生む原因とされたのです。つまり後ろ向きの因縁を、前向きの因縁へと転換させたのです。」本当にそうだと思いました。
私たちはこのようなカルトの作り話ではなくても、どんなに後ろ向きの因縁に縛られているでしょうか。勉強しなかった、それが原因で落第した。そのような当然の因果律から始まって、親が悪い遺伝子をもっていたから自分の容姿は悪いのだ、だからもてないのだ、俺は呪われている、だんだん因果か被害妄想か分からないような話となり、それがさらに、先ほどの弟子たちが問うたような、証明不能の宗教的な「因果律」に広がっていく。自分が不幸なのは、自身が罪を犯したからか、両親か先祖が罪を犯したからだ、その結果なのだ、と言う。そうやって、今の自分とは、過去に何かの間違いがあったために、本来の自分自身でなくなってしまった存在なのだ、そういうふうにしか自分を見ることが出来なくなる。そして金をつぎ込めば、過去の呪いを解消することが出来ると、マインド・コントロールを受ける。そこで言われているのは、今の自分を、過去の原因による失敗作として、否定的に見るということです。
このマインド・コントロールという言葉を聞くと私が思い出すのは、使徒パウロの言葉です。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、…柔和、節制です。」(ガラテヤ5:22~23a)
この御言葉を私は、一時期、大きな問題となったカルト教会、その脱会者から教えられました。彼は長い苦悩の末に普通の教会に導かれ、洗礼を受け直して救われました。その時、彼が一番心引かれた御言葉が、このガラテヤの信徒への手紙の「節制」という言葉でした。これは英語聖書では「Self-Control」と訳されます。マインド・コントロールではなくて、セルフ・コントロールこそ、聖霊の賜物なのだとパウロは言うのです。彼は言いました。「私にとって一番驚きだったのは、神は私たちが聖霊による歩みの中で、自己コントロールすることを望んでおられるということです。」彼はその教会に属している時、ディサイプルパートナーと呼ばれるリーダーに全てコントロールされていた。熱心さを強要された。つまり本来の自分でなくなっていた、と言うのです。しかし聖霊の賜物とは、セルフ・コントロールである。自分で自分をコントロールすることが出来る、言い換えれば、自分が自分であることを大切にするということです。
また、別の女性のメンバーはこう言います。「私は「伝道」が得意ではありませんでした。その教会の伝道とは、出会った人全てに声を掛けるというものでした。私はそれがとても苦痛でした。私と同じ頃クリスチャンになった友人は次々と弟子を増やしていくのに、私は全く弟子を持つことが出来ませんでした。見た目が可愛い、素晴らしい職業を持っている、英語が話せる、「ガイジン」という人をリーダーは持ち上げました。そうでない自分が恥ずかしかった。」彼女はそこを去りました。そして続けます。「現在はプロテスタント教会に通っています。神様は「愛」です。繰り返しますが神は「愛」なのです。罪を犯すことも恐れていません。それが私たち人間なのだから。イエス・キリストは人となり、誰よりも私たちの弱さに共感して下さり、憐れんで下さったのです。私は今自分のあるがままの姿を神に差し出すことにしました。私は罪と病を持つ「人間」です。それ以上でもそれ以下でもないのです。だからこそイエス・キリストは十字架にかかって下さったのです。それゆえ私は罪と病から解放されたのです。私は自分を裁くことをやめました。それもまた傲慢であるからです。」
この人たちは、このように主イエスと出会い、聖霊の賜物を頂くことによって、まさにセルフ(自分自身)を認める。弱い「自己」を受け入れることを学ぶのです。どうして受け入れることが出来たのかと言うと、様々な限界を持つ小さな自分かもしれない。でも、その自分を通して、であります。「神の業が現れる」(ヨハネ福音書9:3b)、そう信じることが出来たからに違いありません。
私は今朝、セルフ・自分という言葉を強調してきました。それは、生まれつきの盲人が主イエスによって目を開いて頂いた時、彼がこう言ったことと関係があります。「わたしがそうなのです」(9:9b)。どうしてこう言ったかと言うと、彼がイエス様の指示に従って行ったシロアムの池から、目が見えるようになって帰ってきた時、近所の人々がこう言ったのです。「「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。/「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。」(9:8~9a)そうあります。
シロアムの池に行く前と帰って来た後では、どうも彼の顔が変わっていたようなのです。彼自身がおそらく、因果律(9:3)を繰り返し聞かされて、変えられない過去を背負い込み、道端で項垂(うなだ)れていたのではないでしょうか。過去の間違いを変えることが出来ない限り、救われることはないのだ、そう絶望していたのではないでしょうか。それは彼から光を奪い、彼の顔は暗かった。しかし主イエスが「神の業がこの人に現れるためである」(9:3b)と宣言された時、彼の心の中に初めて光が射し込んだのではないでしょうか。無価値な自分と思いこんでいた。しかし彼は、この弱い小さな自分を通して、神の御業が現れるのだ。私でも出来ることがあるのだ、いや、でもではない、こそです。自分だからこそ、神の光り輝く御業が現れるお手伝いをすることが出来るのだ。そう主から教えられた時、目が開いたとか開かないという現象を超えて、彼は、初めて光を見たのではないでしょうか。そして彼は、自分自身を受け入れることが出来たのではないでしょうか。その時、彼は「わたしがそうなのです」(9:9b)と胸を張って答えたのです。
この言葉は、原文のギリシア語では、不思議なことにこれまで、私たちがこの福音書を学ぶ中で何度も聞いてきた同じ言葉です。「わたしはある」と訳されてきた言葉です。「わたしはある」(8:58)、そう主イエスが御自身のことを言った言葉です。英訳で言えば「アイアム」です。これは昔、神がモーセに自己紹介された時の御名そのものです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)。これは「ヤハウエ」(主)という御名と直結する言葉です。従って、主イエスは「わたしはある」と名乗られることによって、本来の御自身「セルフ」こそが「主なる神」であると宣言しておられるのです。これが私だ、神の子なのだ、私はヤハウエなのだ、と宣言されておられるのです。
それと類似のことが、今度は一人の人間に起こっている、そう福音書は語るのです。ここで主イエスと一人の男が重なる。ヨハネ福音書は何と凄いことを語るのでしょうか。その神御自身であるイエスの「わたしはある」という恵みの世界の中に入り込んでしまった、この男は、彼自身もまた、御子イエスと全く同じ名を持つこととなった。「わたしがそうなのです」(9:9b)、英訳では「アイアム」です。勿論私たちが神になるのでありません。イエス様が真の神として存在すると同様に、主イエスの恵みの中に入れられた私たちもまた、本当の自分として存在する者となる。だから「わたしはある。わたしはあるという者だ」と私たちもまた主イエスと共に言うことが出来るようになるのです。「わたしはある」とは、元々、神の尊厳を表す言葉でもあります。そうであれば、私たちも、失敗作ではなくて、本当に尊厳のある存在であるということが言われているのです。これが私だと、本当にあるのだ、実存するのだと、その真理がついに見えたのです。それこそが、この男にとって、自分自身を照らす肯定の光なのです。
この福音書の男に起こった最大の神の御業とは、本当のことを言うと、肉眼が開いたということではありません。そうではなくて、「主よ、信じます」(9:38)と彼がこの物語の終わりに信仰を告白出来たことです。イエスを主と信じることが出来た時、初めて私たちは本来の自分自身「アイアム」になることが出来るのです。そして主イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(9:39)、神を見る、その信仰に目が開くことが出来ることこそ、最高の神の御業なのです。
私たちも「わたしはある、わたしはあるという者だ」、そうはっきり言えるようになる。わたしは空しくないと。この私という「存在」を通して、主イエスの御業はなされる、主はこの私という「存在」に大きな意味を与えて下さる、この自分に対する光り輝く前向きな自己理解、それを持てたことこそ、光を見ることだったのです。あなたにしか出来ない神の業がある。だから自分を大切に思えと、あなたはある、掛け替えのない存在としてある、そう主は直ぐ劣等感や不幸に打ちのめされ、道端に項垂(うなだ)れるような私たち一人一人に、御声をかけて下さる、手を取って起こして下さる、この主イエスと出会えた私たちの限りなき幸いを思う。
祈りましょう。 主なる父なる神様、あなたが、私を捕らえ、私にしか出来ない使命を与え、あなたの存在には掛け替えのない意味があると教えて下さった、その恵みを感謝します。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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