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2019年10月27日 主日朝礼拝説教「愛は私たちを覆う」

2019年10月27日 主日朝礼拝説教「愛は私たちを覆う」

ヨハネ福音書8:1~11 ホセア11:1~4  山本裕司 牧師

日本FEBC放送「全地よ主をほめたたえよ」(主日礼拝番組)で、この説教を含む西片町教会主日朝礼拝を、いつでも聞くことが出来ます。以下をクリックして下さい。
http://ch.febcjp.com/2020/02/16/susv200216/

 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。/こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(ヨハネ福音書8:4~5)

 今朝与えられました福音書の物語、姦通の女を主イエスがお赦しになる物語、これは一度読んだら忘れることが出来ない愛の物語です。しかし教会二千年の歴史の中で、これを読んだ多くの人たちが、この物語の前で、いつも喜んできたのではないようです。むしろ教会はこの物語の前で躊躇逡巡してきたとの指摘があります。その証拠こそ、この物語が〔 〕で括られていることにあると思いました。

 古代教会は沢山の文書を残しました。その中から教会は厳選して、これこそが教会の基準となるべき神の言葉である、そう選んだ文書だけを「正典」としました。それが「聖書」です。現在、そのオリジナルの原典は失われ、残っているのは全て、筆で書き写された写本、コピーのみです。中でも有力写本にバチカン図書館所蔵の「バチカン写本」があります。またそれと並ぶ価値を持つ「シナイ写本」が存在します。大英博物館を代表する至宝の一つですが、これはモーセが十戒を授かったと言われるシナイ山の麓にある、聖カタリナ修道院で19世紀に発見されました。両者とも4世紀のギリシア語写本です。殆どの旧訳、新約聖書が含まれているこの二つの写本ですが、土戸清先生によると、両方とも、この「姦淫の女」の物語は含まれていないそうです。従ってオリジナルのヨハネ福音書の中には、この文書はなかったということが判明していますので、これは正典とは扱えないと〔 〕に入っているのです。

 では、この物語は、後の時代の作り話だったのでしょうか。そうではありません。最新の研究でも、この物語は最初期の教会文書(2世紀後半)に既に存在していたことが分かっています。主イエスがこのような行いをなさった、それは事実だったと考えられます。それを目撃した人々に、忘れ難い印象を残したことでしょう。誰よりもここで、罪を赦して頂いた女性自身が、この出来事を集会で証し続けたことでしょう。それがやがて文書となる。しかしそれが正典にはなかなかならなかったのです。どうしてでしょうか。〈確かに良い話だと思いながら、福音書にはなかなか入れようとしなかった。ようやく入れても〔 〕で括って、いわば距離をおいた扱いをしてきた。どうしてでしょうか。〉

 正典とは「信仰と生活との誤りなき規範」です。教会は常に秩序ある生き方を大切にしてきました。結婚の秩序・一夫一婦を守ることも主の御心と信じてきました。旧約・ホセア書においても、死に至るまで「唯一の人」を伴侶として愛し抜くことと「唯一の神」を信じ抜くことは一つのことと理解されました。預言者ホセアは北イスラエルが、唯一の神を棄て他の偶像の神々に行ってことを姦淫と呼び、妻が不倫をして他の男のもとに行ってしまったことを重ね合わせて嘆いています。明治初期、日本に宣教されたピューリタンの伝統は、真面目一徹ということでした。特に当時の日本に蔓延していた三悪・飲酒、賭博、姦淫に厳しく、当時の長老会記録を見ると、それを理由に教会籍から除名となった者が多くいることが分かります。そうやって教会は、近代国家日本の基礎となろうとしました。

 古代社会においても、そのような新しい倫理を築こうとする時、この赦しの物語の存在が邪魔になったと推測されるのです。これでは示しがつかない、と。不倫やセクハラをした者を教会長老会が咎めます。すると叱られたほうが「逆ギレ」して、この物語を手に取り「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)、そうイエスは言ったではないか。神の前に長老と俺様の違いは紙一重なのだ。誰も俺を裁く資格はない」そう言い返された時、教会はどうしたら良いのかということです。愛の無秩序を是認するのか、ということです。その時、教会は、この物語を聖書正典に入れることがとうとう出来なくなった、そう想像する人もいます。

 しかし私は思います。この物語を正典に収めたら、不倫くらい何でもないのだと、軽く考える人を、本当に世の中に増やすことになるのだろうか、古代教会はちょっと心配しすぎたのではないだろうか、そう思いました。律法学者やファリサイ派は言った。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(8:5)その問いに、主は「そんなことは何でもないよ」と人生の筋道喪失の現代人のように許したというのではありません。沈黙しておられるのです。
 実は、このファリサイ派のイエスへの問いは罠でした。イエスが赦しなさいと言えば、律法違反者としてイエスを糾弾することが出来る。逆に律法に従って刑に処せ、と答えれば、余りにも普通で、救い主としてのイメージダウンを避けられない。この沈黙とは、そういう罠に陥らない「何と深い知恵であることよ」とこれまで説教されることもありました。しかし私は思います。主はただ、逃げ道はどこにあるかと、つまり自分の安全のことを、必死で頭の中で計算していた、本当にそういう意味の「沈黙」なのでしょうか。私にはとうていそうは思えません。十字架につかれるご覚悟を持っておられた主イエスにとって、そんなことはどうでもよかったと思います。それよりも大切なことは、ここに倒れている一人の女性です。そこに主はひたすら集中しておられるのです。確かにこの女は罪を犯した。それをごまかすわけにはいかない。罪を曖昧にする時、人は立ち直ることはありません。やがて、また同じ愛における過ちを犯し、前以上の混沌の海で溺れてしまう。やがて社会全体の愛の秩序は失われ、それは、最後には日本のピューリタンが心配した通り、国を滅ぼしてしまうに違いない。だから間違いは問わねば駄目です。しかしそれなら、石打の刑にすればこの問題は解決するのでしょうか。では、どうしてこの女性はこの刑罰を知っていながら、命懸けで姦通をしたのか、この罪を犯すに至る彼女の孤独とはどのようなものだったのでしょうか。先週まで読んできたのは、水の祭り、仮庵祭の出来事です。それを物語りながら、ヨハネ福音書が人間の悲惨と覚えるものは、何よりも渇きです。そうであれば、ここでも女の深い渇き、そのことを考えないで、実は愛の問題は何も解決することはないのです。

 相手の男はここにいません。男性優位の社会の中で工作し、訴えから逃れたのかもしれません。男を何としてもかばってきた女性は、しかし最後に「男はこう言っていたぞ」と聞かされた時、世界が音を立てて崩れていくのを感じたかもしれない。「あの人は私を捨てた…、自分を守るために…」、この愛の余りに激しい渇き、この女性はもう石に当たる前に死んでいたと言って良い。主イエスにとっての最大の問題は、この女がこの渇きから救われることです。復活させると言って良い。一人の人を生かすことは、裁きだけでは出来ません。どうしたらよいのか、この泥まみれの女が、少女のような美しさを取り戻すためには、どうしたらよいのか、その問いから生まれる主の沈黙です。そこに主は集中している。それは愛です。愛が深まる時、私たちは言葉を失うのであります。

 その沈黙の中で「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」(8:6b)そして、主は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8:7)、それだけ言われてから、また同じことをされました。「そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。」(8:8)地面に主は何を書いたのだろうか。これは古来読者が想像を巡らすところです。そこで多くの人が思い出したのは、旧約・エレミヤ書の言葉です。「またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、あなたを離れる者は土に名をしるされます。それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(17:13/口語訳)
 私たちが水の源である神を捨てた。その時、人は、土に名を記される、罪人として、渇ける者としての名が土に記される。主イエスがしておられたことはそのことなのではないか、と言われるのです。そうであれば、最初に主が名を記したのは、その女の名です。次に記したのは、やはり罪を犯してきたことが暴露された律法学者やファリサイ派の男たちの名であったのではないか。そうやって、等しく、神の愛を見失っている、その渇きの中にいる者の名です。そうであれば、今この礼拝堂に座る私たち一人一人の名も、主は土の上に書いておられるのではないでしょうか。そうやって、主は結局全人類の名を、沈黙の中で記してしまわれたのではないでしょうか。糾弾のために名を記しているのではありません。憐れみの内に名を覚えて下さるためです。○○さん、あなたもまた寂しいのだね。△△さん、あなたもまた渇いているのだね、と。そして主は、その上に身を屈めて下さるのであります。「イエスはかがみ込み、指で地面に…書き始め」(8:6)と。

 この主の姿から思い出されるのは、もう一箇所朗読頂いた、旧約・ホセア書11:4です。「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。」ここにも「かがむ」という、私が特に愛する言葉が記されています。北イスラエルは唯一の神に対して不貞を働き、偶像礼拝に走り、まるで娼婦のように身を落としました。それがどんなに低き場所か神は知っておられる。しかしそこで、神は何と哀れな者よと、天の高みから見おろされたのではない。そうではなく、ご自身が、その低みに降られ、かがみ込まれる。そして養って下さる、食べさせて下さる、愛に飢え渇く者に、と言われるのです。御自身がそういう罪人の場所にまで、身を落とされて救おうとされる、相手がどれほど醜くなっても決して捨てない愛、一途な愛、それはクリスマスの夜、飼い葉桶にまで降られた御子において、私たちの現実となりました。しかし私たちは、この一途な愛に欠けるのです。そこでファリサイ派も私たちも変わりありません。たとえ具体的には性における過ちを一生犯さなかったとしても、その心は、氷のように冷たい。それは、一度愛を誓ったパートナーに対する裏切りと少しも変わらないのです。この罪から免れる者は一人もいない。特に長く生きた者は、皆、自分が結局、一途な愛に生きることは出来なかった、そう思わざるを得ない。だから「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」(ヨハネ8:9)ました。そこで皆、人は愛に飢え渇いている。そうなるのは人類を充たす原罪のせいです。だから石を投げる資格ある者はいない。だから主は可愛そうに思い、私たちの名の上に身を屈めておれる。それが主の十字架です。神の怒りの石つぶてが私たちの名の上に及ぼうとする時、主はかがんで、私たちの名を身をもってかばって下さる。そのために主は血だらけになられました。私たちが唯一の神を捨て唯一の隣人を捨てた、その私たちの裁き、その罰を、主は負って下さった。そのことを本当に知った者は、ついに愛とはこのようなものだと知る、学ぶのです。

 私たちは、自分のために死んでくれる人を、心の深みでいつも求めている。その一人の人を見出すまでは、私たちの根源的飢え渇きは決して癒やされない。何人男を代えても、女を代えても、その者たちはみな同じことであった。自分の身が危なくなればさっさと逃げて行ったのです。ただイエス・キリストだけが「私に免じてこの人を赦して下さい」と執り成して下さった。私たちに代わって石で打たれ、十字架で死んで下さった。これを知る時、ついに私たちの飢え渇きが癒やされる。主は水の祭りのクライマックスに大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は…その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:37~38)
 本当に主にあって渇きが癒やされた者は、隣人を潤すための川が内から流れ出るようになる、そう主は約束された。ほんの少しかも知れません、しかし愛の水が流れ始める。主のようなわけにはいかない。しかし、もう前の自分とは違うのです。主は女性に最後に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。どうせ許されるのだから、これからもじゃんじゃん罪を犯しなさい、と言われたのではない。教会はそのようになることを恐れてこの物語を〔 〕に入れたと初めに指摘しました。しかしそんなことは本当はする必要がなかったのです。主ははっきり言っておられる。「もう罪を犯してはならない!」これが結論です。主は罪を犯さない歩み、一途に人を愛する歩み、それを踏み出す力をこの女性に与えられた、何も潤いの水も与えずに、食べさせてもくれず、やれ渇くな、飢えるな、罪を犯すな、というのではありません。「もうあなたは罪を犯す必要なないね、生ける水を飲み、命のパンを食べたのだから。」この時、私たちは変わる。

 椎名麟三は、ドストエフスキーの大作「悪霊」の中の言葉を要約し、あるいは解釈してこう書きました。「我々は、どんなことをしても赦される。一人の少女を犯して、殺しても赦される。しかし、本当に赦されることを知った者は、そういうことはもはやしないであろう」と。決して渇かない水で満たされた魂は、もう、直ぐ渇く水は必要なくなったからであります。

 祈りましょう。  主イエス・キリストの父なる神様、私たちが罪の裁きを受けようとする時、私たちの上にかがみ込んで下さり、かばって下さった、その愛に深く感謝します。もう誰も信じられないと嘆く夜も、この愛の主を思い起こして渇きを癒やすことが出来ますように。そして朝になったら、私たちもまた愛の水を携えて、孤独な友を訪ねるために立つことが出来ますように、聖霊を雨のように注いで下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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