2019年10月13日 主日朝礼拝説教「ここで渇きを癒やせ」

http://netradio.febcjp.com/2020/11/29/susv201129/

エゼキエル書47:1~12(旧1374頁) ヨハネ福音書7:37~39(新179頁)

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。…」(ヨハネ福音書7:37)

説教者 山本裕司 牧師

 今司式者が朗読下さいましたヨハネ福音書7:37はこう記されてありました。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」この祭りとはユダヤ最大の祭りである仮庵祭のことです。どうしてここで主イエスは、水のことを言われたのでしょうか。この仮庵祭は終わりのクライマックスの時、いわば水の祭りとなったからです。この祭りは秋の「収穫感謝祭」です。同時に、イスラエルのエジプト脱出の出来事を思い起こす祭りでもありました。奴隷の国エジプトを脱出したイスラエルは40年間約束の地を目指して荒野を旅するのです。その時定住することが出来ないために民は天幕で生活した。それを思い出すために、仮小屋を建てる祭りです。また荒れ野の生活はいつも水不足との戦いでした。民が渇きに苦しんだ時、御力によって岩から水が湧き出て民の喉を潤しました。
 その救いの出来事を思い出すために、この祭りの時、祭司は、特別の雨乞いの祈りを捧げます。それから祭司は、シロアムの池に下って水を汲むのです。そしてその水を黄金の柄杓で、神殿に携え上り、祭壇に注ぎました。あの荒れ野の旅の間、自分たちは何も確かなものを持たなかった。荒野漂白の天幕生活、水に渇く日々、しかしその貧しさの中にあっても、生きることが出来た。どうしてか。ただ神がその旅を守って下さったのだ、それを思い起こし、神に感謝する祭りです。
 
 しかしこのような祭りを繰り返しながら、イスラエルの民はその祭りの信仰を既に見失っていたのです。だから主は祭りの水の儀式が終わった時のことであったと思います。参拝者は皆、これで今年も、神の水を受けたと思った。しかしその瞬間、主はいや、未だあなたたちは渇いたままだと言ったのです。「渇いている人は、わたしのところに来て飲みなさい。」この意味は、「私が生ける水である」ということに他なりません。つまり、仮庵祭の水では、もはや人の渇きは癒やされないと言っているのです。そうでなければ、この祭りにおいて、7:19、神の子イエスに対する殺意が起こるわけがない。彼らがシロアムの池から汲んでくる水は、流れることなきその池の水は、もはや悪臭のする溜まり水に過ぎなかったのです。

 先ほど、これに合わせて、エゼキエルの見た神殿の幻の箇所を朗読頂きました。私はその司式者の朗読を聞いていて、改めて深い感動を与えられました。この一週の間、時に干からびてしまったのではいかと思う心に、今生きた水が注ぎ込まれるのです。これこそ主日礼拝です。聖書における生きた水とは、その意味は、川のように流れる水です。主も「川」と言われます。私たちが主の生ける水を飲む時、7:38b「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と。

 昨日から今朝にかけて散々テレビ報道で見た濁流、その川とは人の生命を奪う川です。それと対極にある命の川です。しかしいくら祭りを重ねても、私たちにもエゼキエルの言う命の水が魂に入ってこない時がある。どうしてかというと、それは私たちの心の内にもう何か別の水が蓄えられてしまっている。溜まり水で充たされてしまっている。その時、生ける流れる水は私たちを逸れて行くのではないでしょうか。

 仮庵祭は、砂漠放浪に象徴されるような、自らの貧しさを覚える祭りです。しかし今この祭りに参加している者は、もう既に表面、豊かなのです。池の水で充たされているのです。その偽りの豊かさがどこに表れているかと言うと、それは知識です。7:27記されていますが、先週も語りました、特にファリサイ派などの宗教的指導者は、イエスの出身地を知っている。それに照らし合わせると、イエスがメシア・キリストでないという神学的知恵となる。律法を熟知していて、イエスが安息日律法を破ったことを認定出来る。その魂を充たす宗教的知恵、その判断力の豊かさ、しかしそれは池の水の豊かさでしかない。その溜まり水の中で、人は自らの根源的渇きを忘れます。渇きを水溜で誤魔化したと言ってもよい。それが致命的であります。

 だから憐れみの主は大声で言われました。7:37「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」主はこう言って、この命を失った水の祭りを更新しようとしておられるのです。土戸清先生はこういう意味の説教をしておられます。平均的な日本人は、渇いているのは遠い国の戦争の渦中にある人、不幸な子どもたちだと感じている。しかし私たちは実は自分の中に充たされないものを持っている。老いも若きもそうだ。不景気が報道されている。健康に自信がなく不安を覚えている。家族の介護のために、苦労している人が多くおります。余り人に言わないだけだ。陰で一所懸命尽くしているのです。就職難もある、受験、進学問題で悩む人もいる。そう考えれば、満ち足りたという人は皆無だ。念願の学校に入った、理想の職業に就いた、しかし入ってみれば、そこで序列があり、劣等感を持つようなことが、不公平と思えることが次から次へと起こる。充たされたように見える人が身近にいると、その人に対する嫉妬心で苦しみ、憎悪の感情さえ抱く。そういう充たされない渇きを日々に耐えるだけです。先生はそれらの問題の内の多くは、実は心の貧しさに起因している。世界も同じだ。現代は神に対する畏敬を失った時代だ。神の言葉を聞かないで、自分は優れている、軍事力も経済力も知恵もある。その水溜まりを誇る時、この時代はいまだかつて起こったことのないような未曾有の破局が起こりうる時代なのだ、そういう意味を語っています。本当にそうだと思いました。

 その中で私たちが自分は渇いていると不満に思う、そういうところが私たちにはあります。そして渇きを癒やそうとする時、かつてここで読みました、4:13、サマリアの女性のように、水を求めるけれども、それは直ぐ渇く水でしかなかったということになってしまうのです。それが主のご覧になった秋の祭りの限界でした。

 また別の牧師はこの御言葉の説教で、いつの間にか葬儀のことを語り出すのです。葬儀の時ほど、私たちが渇きを覚える時はない。葬儀も一種の祭りです。そこで牧師ははっきりこう言っています。「祭りの一番大きな危険は、自分の渇きを一方で知っており、他方において、それを自分が一番満足する仕方において充たされることを求めることだ。葬りはそういうことが起こりやすい祭りだ」そう言うのです。自分たちの悲しみは、こういうふうに慰められなければならない、そのように決めて、その慰めの仕方を遺族たちが教会に求めると言うのです。例えば会堂を花で埋め尽くすようなことをする。あるいはどんなにその人が生前偉かったか、それが語られる時慰めとなる。それは確かに慰めです。しかしそれは直ぐ渇く水なのではないでしょうか。そうではない。実は主イエス・キリストの十字架と復活からしか永遠の命に至る水は私たちに流れては来ないのです。その人の一生は立派であった。そういう主張のみであるならば、その人の一生は少しも渇いていません。仮庵の心はありません。渇いていない人は主イエスを本当には求めることはないでしょう。そこに溜まり水の葬儀が行われてしまうのです。その人が生前犯した弱さ、罪を知っている者たちにとって、その葬式で次々に語られる褒め言葉は空言としか聞こえない、そこでは葬りにおける渇きは何も癒やされないままその葬儀は終わる。しかしその時です。その葬儀の終わりに甘い言葉を語った職業牧師を、弔辞を述べる者を、横へ退けるようにして、まさにその7:37、祭りが、葬儀が、最も盛大となった終わりの日に、イエスは立ち上がる。そして会堂に響き渡る大声で言われる。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」

 私たちは表面、豊かでも貧しくても、皆同じです。私たちは罪人です。罪を犯した一生だったのです。それは御前でどうやっても取り繕うことは出来ない。しかしそこに主が生ける水を注いで下さった。やがてヨハネ福音書は書く。十字架の主の脇腹を突くと、水が流れたと。この水であります。生きる時も死ぬ時も、その十字架から流れる水を浴びる他に私たちの罪は贖われることはないのです。この人はその生涯の中で水を浴びた、だからこの人は生きる、復活して生きる、そう語られる以外に、私たちにとって真の慰めは実は生まれてはこないのです。だから葬儀説教で本当に言うべきは、ただ、この人はその人生の中で、生きた流れる水を浴びる洗礼・バプテスマを受けた、それを大声で牧師は語れば良い。その時、もう他の溜まり水的慰めの言葉は一つもいらなくなる。

 カトリックの信仰をもつ加賀乙彦さんの書きました『小説家が読むドストエフスキー』という本があります。その中で「罪と罰」についても語られるのですが、その登場人物の一人に、清らかな娘ソーニャの父マルメラードフという酔っぱらいがいます。この有名なマルメラードフは酒場で滅茶苦茶にしゃべっているようですが、実に深い意味を語っている、実は聖書の言葉、キリストの言葉を語っているのだ、そう加賀さんは書いています。変形はしている。しかし聖書の福音が正しく語られているのだ。その中の特に有名な台詞はこうです。
 マルメラードフは酔いどれの自分たちもまた天国に迎え入れられる、と言います。万人の裁きの終わった後に、キリストは言うと。「おまえたちも出てくるのだ。酔いどれたち、弱き者たち、恥しらずども、おまえたちも出てこい」「獣の姿と刻印を押されたるものたちよ。だがおまえたちもくるがいい!」。この「獣の姿と刻印」とは「ヨハネ黙示録」13章に表れる、悪の権化サタンと理解される獣です。その獣の刻印を押された悪魔の仲間です。普通救いようのない者たちです。だから賢者たちが言う、「主よ! なにゆえに彼等を迎えるのですか」、これは主イエスが徴税人や罪人を受け入れる時、ファリサイ派が「この罪人を迎入れ、食事まで一緒にしている」(ルカ15:2)と非難した、その物語から取られました。すると(マルメラードフによれば)キリストはこう答えられる。「なぜなら彼等のうち一人として自分でそれに値するとは考えていないからだ」と。

 ここでドストエフスキーが語ろうとしていることは、真に渇く者は、救われるということです。何故ならその人こそ、主イエスを必要とするからです。神なしで生きられない貧しい者だからです。その者は相変わらず酔っぱらいかもしれない。しかし主イエスはそれでも迎え入れてくれる。その福音を誰よりも、彼ら貧しい者は、知っているからです。私たちは、主イエスの福音の水を飲んだ時、どんなにその人が酔っぱらっていても、その口から溢れて来るものがある。7:38b「…その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」主イエスこそ命だと宣べ伝える生きた水がその口から川のように流れ出るのです。やがてこの物語が伏線となって、家を救うために娼婦となったソーニャが、聖書のラザロの復活の場面を延々と殺人者の前で、朗読する場面がやってくると加賀さんは解説しています。そうやって、生きた水は流れて行く。殺人者の足許までその川は流れていった。それこそサタンの刻印を受けたと思われる殺人者ラスコーリニコフの罪を犯した激しい渇きを癒やすために。死者を復活させるために、ソーニャは溢れ出る川の流れ、その福音を伝えるのです。
 主の大声、その私たちへの肉声を、もう一度聞きましょう。7:37「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」

祈りましょう。 主なる父なる神様、私たちの渇きを癒やすために、懸命に御子が大声で語って下さった御言葉を、その命の水を、私たちの魂に、今満たすことが出来ますように。その水を留り水とすることなく、それが川となって隣人へ向かう宣教の流れとなりますように。そうやって決して渇かない御子の潤いが、この世界に充たされて行きますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



a:288 t:1 y:0