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2019年1月27日 主日朝礼拝説教「治めてい給う方がおられる」

2019年1月27日主日朝礼拝説教「治めてい給う方がおられる」

創世記1:1~3 使徒言行録23:11~35 説教 山本裕司 牧師

その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(使徒言行録23:11)

 異邦人のための伝道者使徒パウロは、その存在そのものが、ユダヤ民族主義者たちの憎悪の対象でした。神の御前に誰もが平等であるとする、パウロの宣べ伝える福音が、民族主義者の誇りをいたく刺激し傷つけたからです。その怒りは、神殿前でのパウロの逮捕時も、翌日のユダヤ最高法院裁判でも、パウロを処刑することが出来なかった、その苛立ちと相まって、爆発寸前に膨れあがっていました。そのユダヤ人の激しい怒りは暗殺の陰謀となりました。「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。」(使徒言行録23:12)、不退転の決意です。彼らは祭司長、長老たちと策を巡らす。暗殺のためには、ローマ軍エルサレム治安部隊によって保護されているパウロを、取り調べを口実に外に出させる、その護送の途中、拉致して殺害する。そういう周到な計画を練った。「絶対に暗殺せねばならない!」彼らは気合いを入れたことでしょう。

 しかしこの人間の「ねばならない」(マスト)に対して、神の「ねばならない」(マスト)が立ち上がってくる、これこそ使徒言行録の主題です。「ローマでも証しをしなければならない」(23:11)。神の「ねばならない」、その宣教のご計画が、人間の「ねばならない」、その悪しき計画の「面を動いていた」のです。
 天地創造物語にこうありました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2)、「地」には否定的力が漲っている。それは「混沌」、「闇」、「淵」、そして「水」(海)と表現されている。水は混沌と同義の人を滅ぼす力、混乱状態を表しています。しかし創世記記者が見ている「地」は混沌の海が満ちているだけではない。その水の面を神の霊が動いていた、そう語るのです。海の上には風が吹く、それと似て、原始の海面に神の霊が吹いている。つまりこの「地」は、混乱と殺意だけの世界ではない。その上を神の救いの風が吹いている世界なのだ、そう言われるのです。

 そこで自分でも知らない内に、聖霊の風に背を押されるようにして進み始めた者がいたと言われます。「しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。」(使徒言行録23:16)、パウロの親族について聖書が初めて口を開く箇所です。パウロの姉妹の子、つまり甥です。この甥とは誰か分かりません。またどうやってこの極秘の陰謀を彼が知ることになったかも分かりません。
 作家ウォルター・ワンゲリンは『小説「聖書」』を書きました。その物語によれば、そもそも話は、未だ教会の迫害者であったサウル(パウロ)の回心の出来事に遡ります。その時サウルはダマスコのキリスト者を迫害するために突き進んでいた。しかしその彼の闇の計画の面を、既に霊の風は吹いている。そこに「光あれ」(創世記1:3)との創造主の言葉を連想させる復活の主の光が照射し、彼は打ち倒されます。その遠征はサウル一人でなされたのではなく「一緒にいた人々」(使徒言行録22:9)とあるように「仲間」がいた。その仲間は光を見たけれども「サウル、サウル」と名を呼ばれる主の声は聞きませんでした。だから何が起こっているか分からない。『小説「聖書」』によると、この時一緒にいた男こそ、後にパウロの妹と結婚することとなる美しい若者マティティアであった。教会の迫害者サウルを深く尊敬し、サウルもまた彼を息子のように愛していた。マティティアはサウルの影響を受けて熱心党に入党し筋金入りの民族主義者となっていきます。やがてマティティアにダマスコで行方不明となったサウルが、驚くべきことにキリスト教に改宗したとの情報が入る。そして民族の誇り、神殿も割礼も律法もいらないと、ただ「キリストを信じる信仰のみ」と教えて異邦人を教会に招いていると伝えられた。近親憎悪と言います。彼は変節の義兄を一族の恥と、この上なく激しく憎むようになりました。それから20年が過ぎ、再び都エルサレムに帰って来たパウロに対する迫害の首謀者は、義兄への殺意に荒れ狂うマティティアであった。そう『小説「聖書」』は想像の翼を自由に広げて描きます。
 神殿前の踊り場で睨み付けるユダヤ人群衆を前に、パウロは呼び掛けます。「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください」(22:1)と。愛する同胞、血族にこそ、ユダヤの聖書が預言した通りご来臨下さった救い主イエスを知って欲しい、その熱意を込めて「兄弟」と呼び掛けた瞬間、『小説「聖書」』では、丁度目の前に現れた義弟とパウロの目が合った。パウロは人々に静寂を求めて上げた両手を、前方に差し出し「マティティアよ」、そう呼び掛ける描写を加えています。そして自分の回心を語る演説の中で、繰り返し「マティティアよ、わが子マティティアよ、マティティアは、今でも私の息子です」、そう呼んだ時、マティティアは叫びました。「この男を殺せ!」と。

 「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。」(コリント二12:15)、ここでもこのパウロの言葉を思い出さざるを得ません。

 「この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。」(使徒言行録23:16)、このパウロの姉妹の子、その父こそ、ワンゲリンに言わせれば、マティティアであったのです。家で父マティティアが「40人以上」(23:13)の男たちに、飲食を断つ誓いを呼び掛けているのを偶然聞いてしまった、常日頃父の厳格な律法主義に悩み、若者らしい反抗心が、父を裏切る道を選ばせたのかもしれない、そのような物語です。
 使徒言行録では、パウロは甥っ子の言葉を聞くと、百人隊長の一人を呼んで、この若者を千人隊長の所へ連れて行かせる、そしてこのユダヤ人の陰謀は千人隊長に知られるところとなりました(23:17~22)。若者から情報を得た千人隊長は迅速に行動します。その夜直ぐ、パウロをカイサリアのローマ総督のもとに送ることにしました。この千人隊長は伝道者パウロの信仰に共感して助けたのではありません。ただローマの市民権をもつパウロが、自分の管轄地エルサレムで殺害されたら、治安部隊長の責任問題となる。だからやっかい払いをしたかった、つまり自己保身以外の何ものでもありません。
 
 そうやって思い掛けないパウロの旅が始まります。その後、パウロはカイサリアで取り調べを受ける。さらに船出してシドンを経てイタリアへと向かう。物語はそう続いています。そうであれば、エルサレムからカイサリアへと移されたということは、パウロが一歩、ローマに近付いたことを意味しているのです。「ローマでも証しをしなければならない」(23:11)、この「ねばならない」という神の「マスト」が、はっきりと形となって動き始めているのです。この神の必然は、パウロを「殺さねばならない」という人間の必然、その中で起こる陰謀と憎悪、これが用いられました。この陰謀がなければ、パウロはこのローマへ一歩近付く、カイサリアへの護送ということは起きなかったからです。そしてこのユダヤ人の陰謀だけでなく、あの『小説「聖書」』が本当だとすれば、父への反抗心のために兵営のパウロを密かに訪ねる甥も、神に用いられる。そして自己保身だけのローマ官憲の思惑をも用いて、主のご計画は進展して行きます。それぞれが勝手な思いの中で行動する「混乱」した人間の営みの中で、いつの間にかそれらが一つに束ねられ、神の一筋の道が浮かび上がってくる。それが聖霊の歴史支配、私たちの人生を治めるやり方なのだと、使徒言行録は語るのです。
 
 「人間の混乱、神の摂理」、神学者バルトが用いたこの格言は余りにも有名です。宮田光雄著『カール・バルト 神の愉快なパルチザン』、その中で先生は、東西冷戦体制の中、チェコスロバキア市民による民主化運動「プラハの春」が起きた時代を取り上げます。市民たちが自由を謳歌する春が来たことを喜び合ったのも束の間、社会主義体制の危機を感じたソ連のブレジネフ政権は、1968年8月、軍隊20万人を投入した。そしてプラハの民主化運動を圧殺したのです。バルトはそのチェコスロバキアへの弾圧の痛みを自分のこととして感じていました。その年の暮れ、12月9日の夜、バルトは親友トゥルナイゼンに電話をした。2人は心を暗くする困難な世界情勢について話し合った。しかし最後に気を取り直すようにして、バルトは親友を励ますのです。「さあ、意気消沈だけはしないでおこうよ!決して!なぜなら、治めてい給う方がおられるのだから。-モスクワやワシントンや北京だけではない。全世界を、全く上から!天から、治めてい給う方がおられる。神が統治しておられるのだよ。だから僕は恐れない、どんなに暗い時にも、にもかかわらずと僕たちは確信し続けようではないか!希望をなくさないようにしよう。全ての人に対する、全世界に対する希望を!神は、私たちが滅びるままにまかせられはしない。私たちの内のただ一人も滅ぼさせはしない。治めてい給う方がおられるのだよ。」、これが彼の最期の言葉となりました。次の日、1968年12月10日の朝、手は夕べの祈りの形に組まれたまま、バルトは永眠していたのです。

 「それにもかかわらず、治めてい給う方がおられる」、このバルトの遺言を言い換えれば、「人間の混乱、神の摂理」となります。その言葉を思い出しながら、もう一度、このパウロの物語を読み直すと、この物語が私にはまるで二重写しに見えてくるのです。もしそれを映像にするとしたら、マティティアを中心に40人の男たちが陰謀を練っている。息子がたまたま家に帰ってきて、扉の後ろで聞き耳をたてる。それは表の映像では全く偶然ですが、二重映しになる裏の映像では、息子は神の摂理という名の天使に導かれて、その陰謀の部屋の陰に至る。その直後から、若者はパウロへ、パウロは百人隊長へ、百人隊長は千人隊長へと物語はレールが引かれたように真っ直ぐに進む。その中に「囚人パウロ」(23:18)という言葉があります。確かに表の映像では、鎖に縛られている惨めなローマの囚人がいるだけです。しかしそれと重なり合うもう一つの映像では、パウロが手紙で挨拶したように「キリスト・イエスの囚人パウロ」、その姿がダブっている。それは主に捕らえられてしまい、愛の鎖で縛られ、ローマに連れられて行くパウロの姿、しかしそれは真に光り輝く伝道者の姿としてです。
 保身の千人隊長は、ユダヤ人の暗殺を恐れ、歩兵200名、騎兵70名、補助兵200名(23:23)という大部隊を編成して、パウロを護送する。しかしそれと二重写しになる裏の映像は、天使の大群に守られ、聖霊の風によって「マスト」を膨らませて北西、つまりローマへと航海する、凱旋将軍のようなパウロの姿がある。そういう不思議な映像を想像しました。

 「人間の混乱、神の摂理」、私たちの人生も歴史もまた、人が人として生きる時の矛盾と混乱に満ちています。愛しながら憎み、憎みながら愛するような混沌とした人間関係を作る他はない。一所懸命やっている、熱心です。あの小説のマティティアが熱心党に属したように。しかし明後日の方向に向かう熱心でしかないことがどんなに多いか。一方、ただ自分の利害損得だけが関心の権力者が歴史を動かしている、そのように見える。そのような人間の罪が寄り集まって、キリストは十字架につけられたのです。にもかかわらず、その十字架の立つゴルゴタの面から、神の摂理の風が吹いてくる。人間の敵意も、曲がった熱心も、偶然も、自己保身の思惑も、子どもの反抗心も、全てを用いながら、神は、神が「マスト」と、「せねばならない」と定めた、摂理の道を、私たちに進ませます。だから絶望してはならない。人間がこれは破滅の歴史だと思うところで、それがいつの間にか救いの歴史に置き換わっている。何故なら、治めてい給う方がおられるからであります。その治め給う方、そのお方は愛だからです。これは本当です。何と感謝なことでしょう。

 祈りましょう。 主なる神様、この地は人間の思惑だけが支配しているのではないかと疑いの海に溺れそうになる時もあります。しかしその混沌の水の面を、摂理の風が吹いている、あなたが治めておられる、その事実を思い出すために、繰り返し礼拝に集まり、御言葉に耳を傾ける者とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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