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2019年1月13日 主日朝礼拝説教「天から照射する御子の光」

2019年1月13日 主日朝礼拝説教「天から照射する御子の光」

ダニエル書4:1~34 使徒言行録22:1~21 山本裕司 牧師

「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。」(使徒言行録22:6)

 伝道者パウロは第3次伝道旅行を終えて都エルサレムに帰った時、同胞ユダヤ人の激しい憎しみの渦中に投げ込まれました。ユダヤ人から汚れているとされた異邦人を、神殿境内に入れたという悪意を込めた「誤解」のためです。異邦人へのキリスト教伝道に邁進するパウロは、ユダヤの伝統「神殿、律法、割礼」を破壊する危険人物と見なされていました。そのようなパウロが祭りの最中に上京すること自体が自殺行為であったのです。しかしパウロは主イエスに倣う者でした。主もまた過越祭の期節エルサレムに上られ、律法違反者と裁かれ十字架につけられました。しかしそれは神とユダヤ人を含む全人類との和解のためであったのです。パウロもそれに倣って、ユダヤ人と異邦人との和解のために命懸けの上京を決行したのです。パウロはこの時、からくもローマ治安部隊に逮捕されることによって、同胞の殺意から救われました。その時パウロは、私はユダヤ人だからユダヤ人に話させて欲しいとギリシア語でローマ千人隊長に願いました。その許可を受け語り出した時、彼の言葉はもう母国語「ヘブライ語」(使徒言行録21:40)に切り替わっていた。しかもその第一声は「兄弟であり父である皆さん」(22:1)という呼び掛けであった。これを聞いて「人々はますます静かになった」(22:2)と記されてあります。

 この「兄弟であり父である皆さん」、これが使徒言行録に表れるのは2度目です。1度目はエルサレム教会筆頭執事・ステファノの裁判において、ステファノはやはり「兄弟であり父である皆さん」(7:2)と自分を迫害するユダヤ人に呼び掛けました。この演説が終わった時人々は激怒してステファノを殺害した。この20年前の悲惨な出来事をパウロは今、同じエルサレム神殿前の裁きの場で思い出したに違いありません。だから万感の思いを込めてそのステファノの挨拶を用いました。パウロはその弁明の終わりに、自分はこう主に罪の告白をしたのだと紹介しました。「あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。」(22:20)、パウロの思いとは、ステファノはあの時、自分を迫害するユダヤ人に「兄弟よ、父よ」と和解の手を差し伸べた。しかしその意味を自分は少しも分からなかった。その呼び掛けに「違う!」と、我々は決しておまえの兄弟でも父でもないと、その挨拶ごと彼を葬った。しかし今、パウロは、自分は180度変わったと、あの20年前のステファノの心を、そのまま受け継いだのです、そう同胞に表明しようとしたのです。

 同時に、この呼び掛けには、あなたたちも私のように変わるだろう、その期待が込められている。神の光が差し込む時、あなたたちもきっと変わる。あなたたちは、主イエスの兄弟であるということを、あなた方、旧約の民こそ、教会の父であるということを。あなたたちが今、キリストは律法、割礼、神殿を超越する、その福音が理解出来ないのはよく分かる。私も20年前そうだったからだ。しかしどうかその闇の心を開いて、神の光を受け入れて欲しい、その時私たちが等しく、ただお一人の神の家族であることに目が開かれ「見えるように」(22:13)なるであろうと。

 今、ステファノとパウロという2人の偉大な先達のことを語ってきました。この物語を聞く時、私たちはこの2人と一緒にされても困ると思うかもしれません。あるいは、「わたし(パウロ)は、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、…熱心に神に仕えていました。」(22:3)、そうも言いました。優れた教師から律法を学んだ。最高の教育を受けた。神奉仕において「熱心」であった。もうここから違うと私も劣等感を持ちます。しかしこうパウロが自己紹介したのは、自分を誇るためではない、逆です。20年前、ステファノの「兄弟よ、父よ」との愛の呼びかけに対して、このガマリエルの教育は、拒絶の知恵と熱心を呼び起こしただけであったと言いたいのです。しかしパウロは変わる。どうしてそんなことが出来たのか。その理由は一つです。それは天から放射される神の光に打たれたからであります。

 若きサウル(パウロ)は教会迫害のためにダマスコへ向かう途上、強い光に照らされた(22:6)。その光はそのまま呼び掛けの声となりました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(22:7)、二度までも名を呼んで下さった。それは「兄弟よ、父よ」との、ステファノ、パウロ、この2人の呼び掛け、その源流と言って良い愛の挨拶です。その御声を聞き光に照らされた時、彼は生まれ変わる。この回心の出来事から分かることは、人間は、高度な教育を受けたことが決定的ではないということです。熱心であれば良いというのでもない。そういう自分の「内から」出て来たものによって変わるのではない。「天から」(22:6)とある。「上から」です。「外から」です。そこからの光によってのみ人は変わる、目覚める、そう言われているのです。

 今水曜夜の聖書研究会でダニエル書を読んでいます。そこで物語られるバビロン王ネブカドネツァルは絶頂期にありました。それが「わたしネブカドネツァルは、健康に恵まれ、王宮で心安らかに過ごしていた。」(ダニエル4:1)、この言葉に表れています。しかし彼は夢を見る。大地の真ん中に大きな木が生えていた。その木は生長して天に届くほどの高さであった。葉は美しく茂り実は豊かで生き物たちを養った(4:7b~9)。ところが、聖なる見張りの天使が降って来て「この木を切り倒せ」と命じる(4:10~11)。やがてその夢がネブカドネツァル自身の身に起こるのです。どうしてでしょうか。彼が帝王として大木のように高く君臨した、そのことを「天に届くほどの高さ」(4:8)と何気なく語りますが、ここは急所です。何故なら、まさにこのネブカドネツァルの都バビロンこそ神話「バベルの塔」の建つ舞台だからです。建設者は言った。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(創世記11:4)と。「天まで届く塔」とは、人間の自己神格化の高慢を意味します。天の真の神はそれを許さず塔建設を阻止される、そういう神話です。今や、世界の覇者ネブカドネツァルは、第二のバベルの塔となろうとしている。しかし打ち倒される。やはり天から声が響く。「いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神は御旨のままにそれをだれにでも与えるのだ」(ダニエル4:29b)、しかしそれで王は滅びたというのではない。「わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。」(4:31a)、正気に返った。無教会の指導者矢内原忠雄は、だいたい人は成功している時は頭がおかしくなっているものだ、そう言った。ダニエル書にも「天を仰ぐと、理性が戻った」と書いてある。そして最後にこう賛美するに至る。「それゆえ、わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される」(4:34)と。これは旧約の中でも忘れ難い信仰告白です。これはパウロの回心と重なる。異端弾圧の英雄として得意絶頂であったサウルであった。しかし彼は打ち倒され、天からの光に照らされる。そこで彼もまた正気に返った。大木・ネブカドネツァルも、打ち倒された大地から、初めて天を仰いだ時、理性が戻った。天の光を仰ぐことこそ、私たちをまともな人間にする、そう旧約新約両聖書で等しく言われているのです。

 子どもの頃に「日光写真」をしました。まことに原始的な写真です。その元のフィルムは「ネガ」(陰画)と呼ばれるように、白黒が反転している。それはそのまま見たら異様ではないでしょうか。確かにその人だと何となく分かるかもしれません。しかし白い歯は黒く、黒目は白い。しかしそれに太陽の光を当てると印画紙で「ポジ」(陽画)に逆転する。そしてその顔はその人本来の自然な美しさを取り戻すのです。聖書は人間とはこのように光に照らされない限り、それはネガのようなものだ、逆立ちしてしまった姿なのだ、そう言っているのです。矢内原先生が言うように、頭がおかしくなっているのです。
 パウロは光に照射された直後、彼がやるべき仕事をキリストから示されます。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」(使徒言行録22:21)、ユダヤの救い主が来ても無縁だと思われてきた異邦人に、和解の福音を宣べ伝える伝道が命じられた。あなたたちは教会の他人ではないと、ユダヤ人だけでない、そこでも「兄弟よ、父よ」と今度はギリシア語で呼び掛けるために、彼は召された。彼の「神への熱心」(22:3)、これが本当に生かされる世界が開いた。ネガ(サウル)がポジ(パウロ)に変換した。

 私たちが教会で洗礼を受けることこそ、この天からの光に強く照らされる瞬間だと思う。ダマスコ教会長老アナニアはサウルに言った。「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」(22:16)
 そうやって私たちも教会に加わりました。しかし私たち人間は弱いものです。日光写真がほっておくとだんだん薄くなっていく、子どもの時そういう悲しい経験をしました。それに似てせっかく陽画にして頂いたのに、また陰画に戻っていく。そうならないために私たちはその光を繰り返し浴びなくてはならないのです。

 私たちが何故毎主日礼拝に出席することが奨励されるのか。それは繰り返し光に照らされるためです。そうしないと、だんだんまた頭がおかしくなってくるのです。だから何度でも、御言葉の光を仰ぎ、正気にして頂く、理性を取り戻させて頂く。そうやって神様に造られたままの人間に返して頂く。だから礼拝を理由無く怠ることは危険なことです。相変わらず熱心かもしれない、健康かもしれない、でもそれはいつの間にか白黒逆転した人生を作るのです。サウルのように、ネブカドネツァルのように。しかしそういうダマスコ途上を進む時、再び主イエスは私たちの名を呼んで下さることでしょう。「サウル、サウル」(22:7)と。この2度とは、何度でもという意味だと思う。その呼び声こそ、罪人を照らす光そのものです。そこで私たちは神様に造られたままの自然の自分に戻る。主は決して私たちを見捨てない。和解の御手を差し伸べ続けて下さる。何度罪を犯してもです。牧者イエスは2度でも3度でも、100度でも、迷える羊である私の名を呼んで下さる、それは何と嬉しいことでしょう。

 祈りましょう。  主なる父なる神様、あなたが御光をもって私たちの名を呼んで下さり変えて下さったことを心から感謝します。どうかその恵みの光を浴びた者として、破壊の使者から和解の使者に反転し、誰にでも「兄弟よ、父よ」と愛の呼び掛けをなす、あなたの器となることが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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