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2018年6月24日 主日夕礼拝説教 「ヤコブは衣を引き裂き」

2018年6月24日 主日夕礼拝説教 「ヤコブは衣を引き裂き」

説教者 山本裕司 牧師

創世記37:23~36

 「父は、それを調べて言った。『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。』ヤコブは自分の衣を引き裂き、…」(創世記37:33)


 トーマス・マン『ヨセフとその兄弟』によると、ヨセフの「晴れ着」とは、元々母ラケルがヤコブとの結婚式でまとった美しい花嫁衣装でした。ヨセフはヤコブに駄々をこねてその服を譲り受け毎日着ていた。その姿は父の正統な跡継ぎは誰であるかを周囲に暗示させるものでもありました。ヨセフは愚かにもそうやって晴れ着を見せびらかすことによって、労働着を汗まみれにして働く兄たちの妬みを増幅させた。マンによれば、兄たちはその父への抗議の意味を込めて北へと出奔したのです。ヤコブはこの家庭不和に困惑し、問題の中心ヨセフを北に遣わし、兄たちに和解を申し述べヘブロンに帰るよう求めることにした。しかしヤコブの誤算は、さすがに送り出す時は旅行着であったヨセフが、鞄の中にラケルの晴れ着を入れていたことでした。まさかと思いヤコブは彼の持ち物までは点検しなかったのです。計画通りヨセフは丘を越えて父の目が届かなくなると直ぐ晴れ着に着替え、それからというもの子ろばの上から王子のような微笑みを浮かべて、出会う村人たちに手を振りながら進みました。村人は、ヨセフの前を行く者も後に従う者も叫びました。二千年後の初春の反復を引き寄せるかのように。

 「ヤコブの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 しかしシケムの牧草地に兄たちはいない。初めて感じる不安の中、彷徨っていると、見知らぬ若者が現れ、兄たちはドタンにいると告げる。若者が何故かヨセフを受難へと導く。そうやってヨセフが兄たちの前に立った時、驚く兄たちの目に飛び込んできたものこそ、父の愛そのものが縫い付けられている「晴れ着」であった。兄たちにとってその衣こそ、家出という示威行為の理由であったにもかかわらず。その瞬間兄たちは嫉妬の狂気にかられて「晴れ着」をはぎ取りバラバラに引き裂いた、そう物語られるのです。

 次はヨセフの体もバラバラに引き裂こうとする、その時長男ルベンは一縷の冷静さを保ち、「命まで取るのはよそう。…血を流してはならない」(創世記37・21~22)と、弟殺しだけは思い止まらせようとした。そこで弟を空井戸に投げ入れることをもって、兄たちの憤怒の逃げ道としたのだ。そうやって一応の決着をつけましたが、実は兄たちは袋小路に嵌まってしまった。このまま弟を石で塞いだ井戸の中に放置すれば、やがて飢え死にするに決まっていた。それは血こそ見ないで済むが殺したことには変わりない。だからと言って救い出してヘブロンに帰せば、どんなに口止めをしてもヨセフは父に告げ口をするだろう。では消えてもらうしかない。しかしそれは弟殺しのカインの反復となり、やがて「エデンの東、ノド(さすらい)の地に」(4:16)追放されることは必至であった。その解き難いジレンマの中で、3日間の煩悶の時が過ぎてしまったのです。

 思い詰めた長兄ルベンは秘かに群れから離れ、弟を井戸から助け出し、自ら父のもとに返そうと画策した。そして父に言うのです。「私が父上の宝石ラケルの子を深い井戸から救出しました。だからあなたの側女ビルハとの過ちを赦して下さい、と。*1父はこの失敗を口実にヨセフに長子権と祝福を相続しようと計画をしているに違いない。その父に弟を返すことと引き換えに、長男の身分を復権したい、そう計画した。しかし物語はこう続く。「ルベンが穴のところに戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった。」(37:29a)、その時ルベンは、「兄弟たちのところへ帰り、「あの子がいない。わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか」と言った。」(37:30)、そうあります。注解者は所詮ルベンの関心はここに繰り返される代名詞「わたし」にあったのだ、そう聖書はルベンのエゴイズムを暗に批判していると指摘しています。*2


*1  「イスラエルがそこに滞在していたとき、ルベンは父の側女ビルハのところへ入って寝た。このことはイスラエルの耳にも入った。」(創世記35:22a)

*2 結局、ルベンの長子権は戻ることはありませんでした。エジプトのヤコブがルベンに宣告した遺言はつれないものでした。「お前は水のように奔放で/長子の誉れを失う。お前は父の寝台に上った。あのとき、わたしの寝台に上り/それを汚した。」(49:4)



 一方ルベンと同じ母レアを持つユダは、隊商がやって来るのを見て、彼らに弟を売ってしまおうと提案します(37:26)。そうやってヨセフを殺すか、告げ口覚悟で父の家に帰すか、そのどちらも選択出来ないジレンマからの解決策を見出す。3日目にヨセフは引き上げられイシュマエル人の隊商に売られました。かくして彼の誕生以来、17年間、父の愛を独り占めした弟は、ついに兄たちの前から消えた。それはヤコブが若かった頃、同様に兄の殺意に晒され、兄の前からも弟を偏愛した母の前からも、姿を消した、その反復として。
 
 次にすることは隠蔽です。「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。」(37:31)、マンの物語では創世記と異なり、兄たちが直接隊商と価格交渉をして、ようやく銀20枚とヨセフを交換することが出来ました。その契約締結の時、兄たちは小羊を屠り、ヨセフをも加えて、互いに肉を食べることによって、取り引き成立の証明としました。そして兄たちは弟の見ている前で晴れ着の破片を小羊の血で赤く染めた。その行為によってヨセフは弟アベルのように、土に自らの血を流すことからは免れたと暗示される。マンは明らかに、二千年後のエルサレムで、この犠牲と共食(きょうしょく)は反復されると暗示しているのです。

 「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 …「皆、この杯から飲みなさい。/これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ26:26~28)

 食卓を囲んだ憎み合う兄弟たちが、それにもかかわらず、その犠牲の小羊の体と血を分かつ時、その聖餐によって、兄の嫉妬の罪も、弟の高慢の罪も、やがて神に赦される時がくるであろう、そして和解が起こる、そう予感されてくるのです。

 さて、ドタンの貧しい男が羊毛と凝乳で雇われ、証拠の衣を携えヘブロンに旅することとなりました。この使者はヤコブの天幕の前に進み出て言った。「これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください」(創世記37:32)、ヤコブが血で汚れた服の切れ端を受け取り立ちすくんだ時、ようやくその使者は自分が何をしたかを悟り、じりじりと後退りした。そして絶望の台風が凄まじい速度で回転し始めたヘブロンの一角から逃走した。塩の柱のように硬直して後ろにひっくり返ったヤコブは、家族の介抱によって、ようやく柔らかくなった時、とうの昔にドタンの男は逃げ去っていたのに、ヤコブはまるでその間、時間まで硬直していたかのように、いもしない男に答えた。「さよう、これはわしの息子の服に間違いありません…」、その瞬間から彼は叫び始めた。「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。」(37:33)、「引き裂かれてしまった!引き裂かれてしまった!」、そう呻いてヤコブはどうしたら良いのか、ついに思いついたように、自分が着ていた服をびりびりと引き裂き始めたのだ。「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。」(37:34)

 息子たちは父が血染めの服を見る瞬間だけは何としても避けたかったので、一週遅れてヘブロンに帰って来た。そして衣の断片を未だ握り締めている父を慰めようとした。「父上、一人の息子がいなくなっても、未だ私たち11人の息子がいるではないですか」と。しかし結果は「ヤコブは慰められることを拒んだ。『ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。』父はこう言って、ヨセフのために泣いた。」(37:35b)、兄たちは父の愛を求めて恐るべき罪を犯したのです。しかしそこまでして得たものは、20枚の銀貨のみでした。
 ドタンで隊商との取り引きを提案したユダと同じ名を持つ男が、二千年後のエルサレムで、やはり父なる神の独り子と引き換えに、銀貨30枚を得ただけで終わる、そうやって聖書の歴史は螺旋状に事柄が上昇するのか、下降するのか、とにかく相似形をもって、永遠に反復され続けていくのです。私たちの人生でも。

 家族はその後一日たりとも幸せな日はなかった。兄たちはドタンの秘密のために、二度と正面から父の顔を見ることは出来なかった。禁断の木の実を食べたアダムが、風の吹く頃、「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」(3:8)たことの反復として。父の心からも息子たちが何か隠しているのではないかという疑惑が消えることはなかった。同時にヤコブ自身もヨセフを送り出す時、あれほど野獣を心配しながら、結局単身で旅立たせたことを死ぬほど後悔していた。そして自分こそがヨセフを殺したのだという思いにかられ、妻ラケルに申し訳がたたない、そう苛まされ続けていた。つまりこの家こそ、ヤコブが下りたいと願った、「陰府」(37:35b)そのものであり、石で塞がれた井戸の底であり、月輪が新生する前の下界の3日であった。家族はその暗黒の3日を、3ヶ月を、3年を、30年を、神の裁きとして受ける他はなかったのです。

 話はドタンに戻りますが、ルベンが秘かに闇夜の井戸に行ったところ「意外にも穴の中にヨセフはいなかった。」(37:29b)という経験をしますが、マンの物語ではその井戸端で思いがけず別の男に会います。井戸の塞ぎ石がいつの間にかわきへ転がしてあり、その上に一人の若者が座っていた。その若者こそ実は、シケムでヨセフが彷徨っている時ふと登場し、ドタンへと導く見知らぬ男でした(37:15~17)。ルベンが驚愕して「何をしている」と言うと、若者は、君こそ空の井戸の中に大声で呼び掛け、誰を捜しているのかと問う。そしてこの若者は、二千年後の初春、同名ヨセフの新しい墓の前でマリアに言うことになっている言葉を続けた。「あの方は、ここにはおられない」(マタイ28:6)と。ルベンが弟は死んでしまったのかと問うと、男は謎のような不思議なことを語り始める、歌うように。

 「小麦の穀粒の譬えを思い出しなさい。小麦の種は大地の井戸の如き奥底に落ちて死ぬ。しかし死ねば多くの実を結ぶ。今その一粒の穀粒を君の頭の奥底にも蒔かせてもらおう、やがて父君の心にもその種が蒔かれることだろう。それがいつの日か芽を出し何倍にも実る日がくる。その甦る命の神秘を待ち続ける時、君たち家族の飢餓を救うために立ち上がる麦束の前に、兄弟よ、君たちはひれ伏す時が来るであろう、その時を待ち望め、それを君たちの父親にも聞かせてあげれば、父君の心も少しは明るくなるであろう。」

 やがて人類は気の遠くなるような待望の後、その春の朝、深い井戸のような墓穴で、二千年前ルベンがドタンで会った若者と再会する。服を引き裂かれた独り子が裸で葬られた、アリマタヤのヨセフの墓の前で。
 その独り子は4日前の木曜、弟子たちと「最期の晩餐」の食卓を囲んでおられた。そして、私は神の小羊、これは私の体であるとパンを引き裂き、その断片を食べよと命じられた。次に、これは私の血潮と、ワインを分けられ、一口ずつ飲めと求められた。そこで私たち罪人は、この小羊の御体と血潮と引き換えに、引き裂かれ血を流すことから免れ、陰府の井戸の底から引き上げられるのだ。その神の小羊はあのドタンの若者の反復として弟子たちにこう語られた。

 「 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24)

 そのお方がまさに地に落ちて死なれ陰府に下られた、しかし下界に沈んだ月輪が、3日目に新生すべく東の夜の地平線を打ち砕いて昇るように、その塞ぎ石は打ち砕かれわきへ転がされてしまう。そして若者がその石の上に座る。そして春の朝、イエスを捜しに来たマリアに言う。「恐れることはない。…あの方は、ここにはおられない」(マタイ28:5~6)と。その直後、マリアは、「おはよう」と挨拶しながら、自分の目の前に立ち上がった、大いなる麦束、その「足を抱き、その前にひれ伏した。」(マタイ28:9)、少年ヨセフが見た夢の実現として。

 愛という名のために、どうしても罪を犯す私たちの魂の飢餓、それがついに贖われる新しい約束の時代を、あなたたちは迎えるであろう、そう旧約聖書は預言する。

祈りましょう。 主なる神様、愛すれば愛するほど、陰府の底に落ちて行く私たちを憐れんで下さい。そして御子の十字架と復活の故にその墓穴から甦らせて下さい。その救済の奇跡を既に遠くから指し示しているヨセフ物語を通して、福音の神秘に驚き感謝する者とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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