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2018年6月17日 主日夕礼拝説教 「愛の蹉跌 -ヨセフとその兄弟-」

2018年6月17日 主日夕礼拝「愛の蹉跌 ヨセフとその兄弟」

説教者 山本裕司 牧師

創世記37・1~11

「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。/さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。…あれの夢がどうなるか、見てやろう。」(創世記37・19~20)

 ヤコブは最愛の妻ラケルの忘れ形見、しかもラケルと瓜二つの美しいヨセフを溺愛しました。その偏愛によってヨセフは羊飼いの労働から免除され、毎日「裾の長い晴れ着」(創世記37・3)をまとって暮らすご身分であったのです。ところがある時父は彼にシケムで働いている兄たちの所に行くように命じました。「兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか。」(37・14a)と。ヤコブがどうしてこれほど過保護にしているヨセフを遠い地に旅立たせたのか釈然としません。一つの理由は、兄たちと羊の「無事を見届ける」ためだと言われますが、換言すれば兄たちに何か落ち度があればそれを父に「告げ口」(37・2b)をさせるためのいわば調査です。ヤコブはヨセフを将来の家の管理者、同時に兄たちの監督者としての教育をしようとしているのだと解釈されるのです。つまり帝王教育です。トーマス・マンに言わせれば、ヤコブは自分の経験同様に兄ではなく弟であるヨセフに長子の特権と祝福を受け継がせようと考えていました。従ってヘブロンからシケムまでの長い旅程であるにもかかわらず、彼は「裾の長い晴れ着」を着て行くのです。それはその姿をもって労働着の兄たちの前に、イスラエルの家長に約束された身分を表す必要があったからだと言うのです。
 「無事か見届ける」、この「無事」は「シャーローム」(平和)です。それがあるかを確かめに派遣されるとあります。しかし皮肉なことに兄たちにとって「裾の長い晴れ着」を着るヨセフの存在、これこそが兄たちにとって「穏やか(シャーローム)に話すこともできない」(37・4b)とあったように、平和を破壊する最大の理由でした。兄たちはドタンの草原で思いがけずヨセフの訪問を受けた時、何よりも「裾の長い晴れ着をはぎ取る」(37・23)ことに全精力を費やしました。その意味がよく分かると思います。

 そのような破滅が待っているとも知らずにヨセフは意気揚々と旅立ちます。目的地のシケムまではヘブロンから北上した約70㎞先です。数日の距離ですがマンの『ヨセフとその兄弟』では例によってその旅路が微に入り細に亘り描かれます。その中でも深い印象を残すのはベツレヘム近くの路傍の描写です。ヨセフは路傍の石に美酒を供えた。微風が無心にたわむれ辺りはひっそりしていた。かつて父ヤコブがラバンの娘ラケルを埋めたその場所はラケルの子ヨセフの供犠(くぎ)を無言で受け取った。それからヨセフは石に水を注ぎ人生に勇敢に立ち向かった母が永眠している地面に接吻し立ち上がった。そこに埋められている女性から譲られた美しい目と唇とを空に向け、若者は敬虔な祈りの言葉を呟いたのだ、そう言われるのです。旅はこの墓参りにも象徴されるように実に爽やかな旅でした。しかしヨセフがシケムに着いた頃から暗雲が立ちこめてくる。何故かシケムの草原をどれほど彷徨っても兄たちは見当たりません。途方に暮れていると一人の見知らぬ男と出会い、「何を探しているのか」と問われる。ヨセフは「兄たちを探しているのです。どこで羊の群れを飼っているか教えてください。」(37・16)と問うと、何故か余りにもよどみなく回答を得る。「もうここをたってしまった。ドタンへ行こう、と言っていたのを聞いたが。」(37・17)、つまりヨセフは何故かシケムから更に北30㎞もあるドタンへ進まなければならないのです。この直線距離計100㎞、山坂屈曲を考慮して200㎞の移動の物語、その意味を左近淑先生は、ヨセフが保護を一身に受けていた父ヤコブから遠く隔てられていく様を示しているのだと解説しています。「日暮れてやみはせまり、わがゆくてなお遠し。…」(『讃美歌21』218)という経験をヨセフもするのです。やはり夜、焚き火を囲み祖父の語るこの物語に耳を澄ませる子どもたちも、闇の中一歩一歩父のもとから遠ざかる主人公の身の上に、不安と恐れを感じたことでしょう。シケムならヨセフも幼い頃暮らしていた懐かしい土地です。しかし「ドタン」とは旧約聖書で初めてここに出て来る地名です。それは未知の世界へとヨセフが入っていくことを暗示するのです。マンに言わせればここに「反復」がある。父ヤコブ自身が兄の相続権を奪った時、兄の殺意を避けて母リベカの保護の地から遙かに遠く離れなければならなかったのです。愛が深いほど憎しみも深くなる「ガラスの城」、そのために起こる亀裂と暴力、この創世記の悲劇がその後、古今東西の人類で夥しく反復される。それは21世紀の私たちの「家」そして「教会」の中でなお反復され続けているのです。

 その頃マンに言わせると、ドタンの地で焚き火をしていた10人の兄たちは深い憂鬱に捕らえられていました。自分たちがどれ程努力しても父の愛はヨセフにのみ注がれる、その虚無の中、ゆらめく炎に照らされた顔を伏せていた。それは既にヨセフの夢のように、彼の束の前でひれ伏す兄たちの束、その姿そのものでした(37・7)。
 その中で兄たちは誰彼ともなく太古の時代から伝わっていた歌を歌い出した。半ば消滅し不完全な断片となった歌を。それがレメクの「剣の歌」だとマンは描く。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。」(4・23)、最初、レメクを傷付けたのは「大男」のようなイメージですが、この歌は直ぐ「若者」と言い換えられます。歌は、男に傷付けられたと歌うけれども、そこで復讐を受け倒れたのは、かぐわしい「若者」の血まみれの痛ましい姿であったと暗示される。(これは私たちにも経験があるのではないでしょうか。頭の中でどんどん悪いイメージを膨らませ相手は悪魔的大男にまで増幅される。しかしふと接してみると別に普通の人だったという経験をすることがある。被害妄想です。)兄たちは襲いかかってみればヨセフが弱々しい若者だと気付きながら、もう抑えることは出来ない。自分たちこそが悪魔的になるのです。「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」(4・24)、レメク同様兄たちは、77倍の嫉妬と憎しみの「核分裂反応」によってその復讐心は大爆発寸前です。

 主なる神はここでもこう反復されたに違いありません。弟アベルは父なる神に受け入れられ、兄カインは受け入れられない、その嫉妬によって正気を失おうとしていたカインに、神は言われる。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。/もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(4・6~7)、「あなたの内なる罪をねじ伏せろ!」、これはその後の歴史において、数億、数兆回も人間に対して反復されたに違いない神の言葉です。

 その瞬間日が上り東の草原を照らし出した時、遠くに何か光るものがある。男が一人でやってくる。レメクの歌うように男と言うより若者であった。ヨセフがあでやかな服をまといそれが朝日に反射し、兄たちの目を打った。カインへの神の言葉の反復、兄たちよ、お前は復讐心を「支配せねばならない。」(4・7)、その神の言葉が力を持つ前に「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した」(37・18~19a)のです。その時、カインのように兄たちの顔は朝焼けに染まり真っ赤になったに違いない。
 「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」(37・19~20)、これまで自分でも意識しなかったが、その機会をずっと狙っていた。ヨセフが生まれて以来17年間です。「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、/カインとその献げ物には目を留められなかった。」(4・4b~5a)、その父なる神の偏愛、その反復がヤコブ家でも起きた。そこで第二のカインたる兄たちの怒りのマグマ、その噴出が、ついに時と場を得る瞬間を迎える。もはやこの機会は二度とはない。それが「さあ、今だ。」(37・20a)との兄たちの雄叫びです。
 「ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、…」(37・23)、先に言った通り、その暴力の嵐の中で兄たちが何よりも執着したのが、裾の長い晴れ着をはぎ取ることであった。それこそがヤコブの偏愛の象徴、それこそが11番目の弟でありながら父からの家督権と祝福を独り占めする、その身分の象徴でした。兄たちは「集団心理」の中、その罪意識は麻痺し、むしろチームワークによってもたらされる巨人的力に酔いヨセフに飛び掛かった。「カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」(4・24)晴れ着をはぎ取り素っ裸にして、お前は兄ではない、お前はただの弟だと、兄である俺たちに一度でもお辞儀をしてみろ、そう呻くように言う。そもそもヨセフがここに父から派遣されたこと自体が兄たちを監視するためだと直感する。そうであればこの暴行を父に「告げ口」をされないためにやるべきことはただ一つ、穴に投げ入れ殺すのです。「 彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。」(37・24)

 集団心理の中で自分を保つというのは非常に困難です。ところがこの時さすがに唯一の神を信ずる家だったということでしょうか。すんでのところでルベンがまさに長兄の自覚から我を取り戻す。ヨセフを「父のもとに帰し」(37・22b)たいと願い「命まで取るのはよそう」、「血を流してはならい」(37・21b~22a)と求めますが、もはや引き返すことは出来ない。ヨセフの告げ口だけは避けなければならないからです。そのためにカインの罪の反復をここでも起こさなければならない。ヘブロンの父が「お前の弟は、どこにいるのか。」そう問うた時、兄たちがカインと肩を並べるようにしてこう答えるために。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」(4・9b)

 梶原寿先生よりキング牧師終焉の地・メンフィス国立公民権博物館前には、旧約聖書の言葉を刻んだ銘板が立っていると教わりました。その言葉こそ以下です。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。/さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」(37・19~20)
 キング牧師は1963年8月28日、ワシントンDCのリンカーン記念公園に参集した20万人の前で余りにも有名なスピーチを行いました。「私には夢がある!いつの日かすべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来る。…」
 確かにキングの夢とヨセフの夢は正反対のように思えます。一方は「水平」の世界を求め、一方は「垂直」の世界の頂きに立とうとする。しかしどちらも神が予知夢として見させた「啓示」である点で共通しています。ヨセフの夢も、単に家の王となりたいという彼の深層心理からだけ生まれたものではない。それは今粉々に砕け散った「ガラスの城」イスラエルを、その霊肉とも救済するための不思議な神の御計画、それを予め暗示した夢だったのです。だからヨセフがその夢を見て傲慢になる理由はなかったし、本当は兄たちがその夢の話を聞いて、顔を伏せる必要もなかった。神の夢は究極において平和を実現する。
 その神の夢の実現のために私たちは今生きています。父なる神は、私たちの人生の苦しみ、その傲慢と妬み、愛憎と破れ、その人間の罪さえも利用しながら「シャーローム」を私たちの家、私たちの教会、私たちの世界に実現しようとされている。だからその夢を殺してはならない、そう思う。

祈りましょう。 主なる父なる神、あなたが私たちに見せて下さる夢が、時に不都合に思えても、あなたへの信頼の故に受け入れ、争いではなく平和・シャーロームに生きる私たちとして下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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