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2018年5月13日 主日夕礼拝説教 「ディナ物語」

2018年5月13日 主日夕礼拝説教 「ディナ物語」

説教者 山本裕司 牧師

創世記34:1~31

「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか。」(創世記34:31)

 メソポタミアからの試練の長い旅を経て族長ヤコブとその一行は、ついに神の約束の地カナンに帰還しました。そしてシケムの首長ヒビ人ハモルの息子たちから土地を買いました。ヤコブはなお天幕生活者ですが、しかし土地を持つことによってようやく一族で長く暮らせる場を得たと、どんなに安堵したことでしょうか。ところが試練は終わっていなかったのです。たとえ神の約束の地と言ってもそこは元々カナン先住民の土地でした。そのただ中で移民イスラエルがどう生きるかという問いが突き付けられるのです。そしてこれは創世記の族長だけの問題ではなく、やがてカナンに定住するイスラエルが避けて通れぬ課題でした。つまりカナンに於ける信仰の民は、異なる価値観を持つ異邦人との接触による緊張を、常に強いられることになるのです。それは今日のパレスチナ問題にまで受け継がれてしまった未解決の問題です。

 私たち聖書の読者はイスラエル中心主義にどっぷりつかっていて、カナン先住民を文化的に劣った人と思いがちですが、決してそうではありません。ディナ物語はこう始まります。「あるとき、レアとヤコブとの間に生まれた娘のディナが土地の娘たちに会いに出かけた…」(創世記34・1)、天幕暮らしのディナはシケムの進んだ文化生活に魅力を感じたことでしょう。少女の好奇心もあってよく町に遊びに行き友だちも出来ました。しかしそこで文明の衝突のような事件が勃発するのです。ヒビ人は定住農耕民によく見られる性的に解放された民であったと思います。それに対して遊牧民であるイスラエルは極めて性的に厳格でした。モーセに率いられた荒野放浪のイスラエルこそが、十戒「姦淫してはならない」(出エジプト20・14)という掟を神から得ているのです。

 私は大洲にいた時「瀬降り物語」という全て四国の深い森でロケされた映画を見て大変感動したことがあります。戦前まで存在していた、山野を漂泊し天幕を張って旅を続けた山窩(サンカ・山の民)の物語です。「瀬降り」とは彼らが河原に張った天幕のことです。山窩は一般社会とは隔絶して生き「十戒」に似た独自の厳しい掟を持ち、特に性に対して厳しい倫理観を持っていました。やはり物語は町の青年と山窩の娘が引かれ合ったために起こる事件が描かれます。それに似てディナ物語においても、性的に厳格なイスラエルが、性的に解放されたカナン文化圏に入ったために激しい摩擦が生じたのです。

 再びトーマス・マン著『ヨセフとその兄弟』ですが、彼の描くディナ物語に暫く耳を澄ましてみましょう。
 ディナはヘブライ人・ヤコブの一人娘であった。ヤコブとその一族がシケム郊外に住み着いた時、彼女は9歳だった。破局当時は13歳になっていた。ディナはシケムに来てから肉体が開花し、これがあのレアの娘かと驚くほどチャーミングな処女(おとめ)となった。ディナはメソポタミアの草原にいかにも似つかわしい娘であった。早くから蕾がほころび、多くの花を咲かせる春には恵まれるが、その春には溌剌とした夏が続かない草原そっくりの娘であった。草原は5月になるともう瑞々しい花の盛りの全てが、情け容赦ない太陽によって、炭のように焼き焦がされてしまう。

 秋分の満月の夜シケムでは7日間の祭りが開かれる。楽士たちはタンバリンをかき鳴らし、男たちは山羊のように跳ね上がり、娘たちを捕まえようとするが、娘たちは身体をそらして逃げ回った。その時、町の長(おさ)の息子、町の名をもつシケムは、13歳になったエキゾチックなディナを見て欲情をむらむらと燃え上がらせた。シケムは館に帰ると父親にせびり続け、ヘブライ人のあの娘がいなくては生きていけないと言った。そこで父ハモルは、輿(こし)に担がれヤコブの幕屋に出掛けた。そして息子の激しい情炎のことを述べ、ヤコブが結婚に同意してくれるなら豊かな贈り物をしようと申し出た。ヤコブは息子たちを集めて相談したところ、息子たちがシケムを「だます」(34・13)ために用いたのが「割礼」の要求であった。我々は神の手前、割礼のない男に妹を与えることは出来ないのだと。
 その条件を聞くと若者シケムは、「それだけ?」と叫んだ。ディナを頂くためにだったら、片目だって片手だって投げだそうと思っていたのだ。シケムが急ぎ処置し未だ治りきっていない7日後に訪ねて来た時は、献げた犠牲の故に足を引き摺っていた。ところがその時、興奮するシケムに兄弟たちは冷ややかに言ってのけたのだ。「割礼に必要なのは伝統的には石刀なのだ。まさか金属でしたのではないでしょうね。」、シケムは「今になってから石刀のことを持ち出すのですか、そうだったら最初からそう言ってくれれば良かったではないか」と憤慨し、呪いと罵声を叫び走り去った。
 白昼広々とした草原で子羊と戯れていたディナは、町の男たちに襲われて町に連れ去られた。一杯食わされたシケムがディナを誘拐したのだ。ディナはシケムのハレムに閉じ込められ最初は震えていたが、シケムを始めとして家族たちから宝物のように扱われ親切にされ、ある夜全てを自然のこととして受け入れたのだ。シケムからの使者たちが数日してヤコブのもとにやって来た。そこには慇懃で協調的な文面があった。「父ハモルとあなたはこれから姻戚関係に入り、緊密な友好関係を永遠に結びたく思います。どうかあなたのディナの代償及び結婚の条件を改めてお示し下さい。」
 その時ヤコブの息子たちが改めて提示した条件こそ以下であったとマンは言うのです。「それは、あなたたちの男性が皆、割礼を受けて我々と同じようになることです。」(34・15b)、ヤコブの息子たちとその群れは、数の上ではシケムの住民たちにはるかに劣っていた。しかし結婚の条件を呑んだシケムの男たちは、今度はきちんと石刀を用いて付けた傷のために老いも若きも炎症発熱に苦しみ守備隊もその仕事についていなかった。そこをディナと同じ母を持つ兄シメオンとレビに率いられた息子たちは襲いかかったのだ。不意をつかれた町民は抵抗するどころか身体も思うように動かせない。ヘブライ人は荒れ狂い町も城も神殿も煙に包まれ路地と家とは血の海となった。役にたちそうな男、そして女と子どもは捕虜とされ他は残らず絞め殺された。シケムもあさましい姿に変わり浴室の下水口に真っ逆さまに突っ込まれた。略奪は続き宝物も家畜も何もかも奪い取られた。長のハモルは恐怖のあまりあっさり死んでしまった。ハレムの奥にいたディナは発見され兄の手に戻ったが、彼女にとっての本当の恐怖は今回の兄たちの襲撃の方であった。それ以来ディナはやつれはて老婆の顔のようになってしまった。彼女の青春は血に塗られて13歳で終わったのだ…そういうマンの物語であります。

 確かに性に厳しいヘブライ人の兄弟は、唯一の神の掟に従い正義を行使しただけだと言うに違いありません。事件に困惑する父ヤコブが「困ったことをしてくれたものだ。…」(34・30)、そうシメオンとレビを責めた時2人が言い返した言葉こそこれです。

 「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか。」(34・31)

 父はその「正論」に何も返せず黙ってしまった、という印象を与えて聖書のディナ物語も終わるのです。

 ある注解者はこのヤコブの「困ったことをしてくれた」という言葉が、ヨシュア記に出てくることに注目しています。ヨシュア記とは、モーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエルが、やはり既に先住民の地であったカナンをどう取得していったかを主題とする物語です。その時イスラエルは先住民との戦争によって土地を得ました。カナンは神の約束の地ですので、それは「聖戦」と位置付けられました。そこでは敵対民族や家畜は全て殺戮され、全ての戦利品も神に奉献されることが求められました。それは「聖絶」と言って残酷な掟に思えますが、違う視点ではこのやり方こそ信仰のための純粋な聖戦なのです。人間が正義や宗教を言い訳にして本音は敵国の資源や利権を収奪するという、現在も行われている侵略戦争のあり方が禁止されているということです。ところがヨシュア記には「アカンの罪」と呼ばれる話があります。「イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。ユダ族…アカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。」(ヨシュア7・1)、そしてヨシュアはアカンを裁きました。「お前はなんという災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)」(7・25)と。この「災いをもたらす」という言葉、これが原文ではヤコブの嘆き「困ったことをしてくれた」(創世記34・30)と同じ言葉なのだそうです。ですから息子たちのシケム戦争とは、土地取得を主題とするヨシュア記で禁止された大義を逸脱した侵略戦争「アカンの罪」に過ぎないと、ヤコブの言葉「困ったこと=災いもたらす」をもって暗に批判されている、そうここを読むことが可能だと思います。

 正義が踏みにじられる、自分たちの宗教的戒律が犯される、「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか。」、その悪に対抗する神の義と人道のために我々は戦わねばならないと兄たちは言った。それは正しい。しかしその時、神は眉につばをつけるようにして、「本当にそれだけか」と私たちをじっと見詰めておられるのではないでしょうか。息子たちは「だました」(34・13)とはっきり書いてある。割礼という聖なる契約のしるしを用いて隣人を罠にかける。聖なるものを悪の道具とした。その上、聖絶の掟を破り「町中を略奪した」(34・27)、「羊や牛やろばなど…野にあるものも奪い取り、/家の中にあるものもみな奪い、女も子供もすべて捕虜にした。」(34・28~29)、妹を口実にです。神はその偽善に騙されません。真面目な信仰、結構です。しかしそれを手に取って私たちが人を裁く時、実は神の名も神の義も盗用し自分の貪欲や感情に仕えさせる「アカンの罪」を犯しているのではないか。その信仰者だけが持つ傲慢の罪、それは時に度し難い。だから我々は正義を行使する時、自分の心をこそ顧みようではないか、そうディナ物語は私たちキリスト者に注意を促しているのではないでしょうか。そのような偽善的宗教的信念ほど恐ろしいものはなない。それは結局シケムの初恋を破壊し、乙女ディナの美しさを草原の夏の花のように枯れ果てさせてしまった。やがて兄たちは妬みの故に弟ヨセフを半殺しにするのです。そうやってイスラエルには平和はきませんでした。現在、21世紀のイスラエルもパレスチナ人の土地を侵略し、その祖・ヤコブの息子たちと全く同じ道を辿っているのではないでしょうか。

 むしろこのディナ物語の中でふとカナンのヒビ人、つまり異邦人がこう語っているのです。「あの人たち(イスラエル)は、我々と仲良くやっていける人たちだ。彼らをここに住まわせ、この土地を自由に使ってもらうことにしようではないか。」(34・21)、この「仲良くやっていける人たち」という言葉は、「シャロームな人たち」ということです。「シャローム」(平和)、これはユダヤ人の挨拶となりました。創造主であり全知全能のアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と比較すれば、ろくな宗教も持っていないと馬鹿にされるシケムこそが大らかに移民を「シャローム」と迎え入れようと呼び掛けているのです。「シケムは…ハモル家の中では最も尊敬されていた」(34・19)、その彼の純朴なシャロームに対して宗教的信念で偽装した大虐殺(ホロコースト)で応えたイスラエルの罪は余りにも重い。
 なまじっか信仰を持ったからこそ、このような恐ろしい罪を犯すのが人間なのです。使徒パウロがこう洞察した通り。「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。」(ローマ7・8)、そうであれば(偽善的)信仰を持つことは何と危険なことでしょうか。その私たち宗教者の傲慢にブレーキを掛けるためにイエス・キリストは来られたのです。健康、謙遜な信仰を私たちに回復させるために。

 終わりにヨハネ福音書を朗読します。「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、/イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。/こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」… /イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」…/これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(8・3~9)

 祈りましょう。 主なる神様、あなたが正義を振るわれたら、その瞬間に灰と化す私たちを、あなたは御子の贖いの故に、今夕も生かして下さった恵みに心から感謝致します。時にあなたを知らない誰よりも傲慢になり、隣人の弱さを裁く私たちの罪をどうか憐れみ、真の平和をつくり出す者へと、この期節聖霊をもって私たちを造り替えて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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