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2018年2月18日 主日夕礼拝説教 「飛翔よ、飛翔よ!」

2018年2月18日 主日夕礼拝説教 「飛翔よ、飛翔よ!」

説教者 山本裕司 牧師

創世記28:10~22

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」(創世記28:16)

 族長イサクの双子の兄弟エサウとヤコブは小さい頃から張り合って育ちました。しかし弟ヤコブの負けは最初から明らかでした。家督権は長男に相続されるのがしきたりだったからです。しかしヤコブはそれに甘んじない野心家でした。彼は兄の食欲という弱みにつけ込んで、煮物と長子の権利を交換してしまう。しかもヤコブはそれだけでは飽き足りません。未だこの家には祖父アブラハム以来の「祝福」が残っていたのです。その祝福を父イサクから受け継げば、穀物や葡萄酒に冨み、多くの国民が自分にひれ伏すと伝承されていた(27:28~29)。つまりこの上なき栄達に上り詰めることが出来る。その高所を求めてヤコブは彼を溺愛する母リベカと共謀して、父イサクも兄エサウも騙し祝福を奪い取りました。これで立身は約束されたと思った。しかし人の良い兄エサウも今度ばかりは激怒して、父の喪の日に弟を殺すと誓う。それを知ったヤコブは遠路、母の故郷を目指して砂漠へと逃れる、それが今夕の創世記の物語です。

 トーマス・マンはその長編『ヨセフとその兄弟』において、今夕の記事を作家の巨大なる想像の翼を広げて描き直しました。私も小さな想像の翼を広げてそれを少し変えて物語ることをお許し下さい。

 ヤコブは計算高い男です。逃げるにしても抜かりなく、旅先や移住先で困らないように、駱駝の背にうずたかく食糧や金銀財宝を積んで旅立ちました。その上母リベカの配慮によって二人の奴隷も伴いました。ところがエサウの息子13歳のエリパスがその気配に気付く。父を嘆かせた叔父への憤怒の中、失意落胆の父を説得して追跡の許しを得ます。
 お喋りの奴隷たちとのんびり旅をしていたヤコブが振り向くと、地平線に砂埃が上がっている。凄まじい勢いで追ってくるのは、駱駝に跨がるエサウの息子と5人の父腹心の狩人たちです。ヤコブは驚愕して逃げる。しかし荷物が重くて駱駝は思うように走りません。荷物を一つ捨て二つ捨て、さらにこれだけはと思う荷が意に反して転がり落ちる。砂漠には落ちた荷が列になって散らばっていました。それでも狩猟用駱駝の速さに叶うわけもなく距離は詰まり、狩人の正確無比の投げ槍によって、奴隷は次々に負傷し競争から脱落する。悪あがきの末ついにヤコブは捕らえられます。その時彼は、頭を砂に擦り付け恥も外聞も捨てる。言い訳と謝罪と甥へのおべんちゃらを涙ながらにまくし立てる。「未だ駱駝にぶら下がっている財産も、砂漠に落としてきた金銀財宝も、全部お坊ちゃま、あなた様の物、後生ですから命だけはお助け下さい。」中年の叔父が中学1年くらいの甥の前で見せる、あまりの惨めな姿(実は演技半分)、しかし父エサウに似てお人好しの少年エリパスは、急に怒りに代わって憐れみの心が溢れ出る。甥は「許す!」と宣告し、狩人たちはヤコブの身ぐるみを剥ぎ、その財産と傷ついた奴隷を乗せた駱駝全頭を連れて、ベエル・シェバに戻っていきました。

 急に砂漠は静まり返る。今やヤコブただ一人が広大な砂漠に取り残されている。あの愉快な奴隷もいない。夜の暖と枕も兼ねた愛駱駝もいない。荷物もない。何もない。これまで自分の才覚によって、どこまでも高く昇れると思っていた。しかし今や駱駝の背の高さも失われ裸で地に這いつくばる、その時日が沈みました。

 ここからは創世記に書いてあります。彼は石を取って枕として横たわった。自分を生かすと思っていた宝は全て失われた。少年の前で泣いた醜態は男として深い敗北感を残した。自分は昇っているように思っていたが、闇夜の砂漠、その底の底にまで落ちたと思わざるを得ない。その時夢を見ます。

 「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(28:12)

 この「階段」と訳された言葉は、以前の口語訳では「はしご」でした。新共同訳が「階段」と訳したのは、古代メソポタミアに建設されたジグラット(聖塔)がこの夢のモデルではないかと推定されたからだと思います。
 昨年ブリューゲルの「バベルの塔」が東京都美術館で展示されましたが、それは創世記11章に記される物語を描いた大作です。それは人間が「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(11:4)と欲する巨大高層建築でした。それは人間の限りない上昇志向を象徴します。その塔の外側を巡る螺旋階段を回って人間が天に至るという意味は、人間の「自己神格化」、神にまで成り上がろうとする高慢の罪を表しています。事実、古代メソポタミア文明のジグラットは、皇帝が自らを、天に連なる神として崇めさせるための舞台装置でした。祭儀において王が螺旋階段を上へ上へとどこまでも昇って行くパフォーマンスが挙行されたかもしれません。
 ヤコブの見た階段はそれをモデルにしていると言いました。しかしそれでいて、ヤコブの階段は、バベルの塔と話は全く逆です。「御使いたちがそれを上ったり下ったり」(28:12b)している塔を呆然と仰いだ時、地の彼の傍らに「主が…立って言われた」(28:13)とある。この階段は上を向いているのではない。「地に向かって」(28:12)とあるように、天の神がへりくだって地に降るためのものでした。ところが口語訳で言えば、このヤコブの「梯子」を、下から上へ伸びると覚えた信仰者たちは昔から多かったのです。そのため時に梯子を「道徳」と理解して、善行を積み重ねて天に至ることが、ヤコブの梯子を昇ることだという誤解を生みました。美術作品でもその梯子が描かれる時その横木が15本だったそうです。これは15の徳目を意味し、人が第1の徳、第2の徳と、一段一段昇り、だんだん天の神に近づいて行く様を表す。それは確かにヤコブの野心や、帝国王の権力欲とは一見異なる良きことのための上昇のようですが、しかしそれもまた人間の原罪である上昇志向には変わりない、そう洞察した人こそ使徒パウロです。彼にとっての「梯子」とは「律法主義」です。律法遵守の梯子を昇ることによって、自力で天の神の傍らに至る、それがユダヤ人の栄光である、そうファリサイ派サウロは確信していた。

 しかし主に出会ったパウロは、人は「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)との真理を知る。つまり律法の梯子を一段も昇らなくても救われる、地の底の罪人のままで救われる、どうしてそんなことが可能となったのかと問われた時、パウロはフィリピの信徒への手紙で言った。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、/かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、/へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(2:6~8)
 自分では昇っていると思っていたヤコブは今や転落を認めざるを得ない、全てを失い孤独の極みで砂漠の砂と一体化したヤコブ、しかしその罪のどん底に、神が降りて来て下さる。「見よ、わたしはあなたと共にいる」(創世記28:15)と、塵にも等しい罪人の耳元で囁く、ただそれだけのために。その瞬間朝が来る。この朝の光にヤコブが照らされるためには、彼は一度持ち物を全部捨てなくてはならなかった。転落しなくてはならなかった。元々罪の中に転落していた、それを自覚させられなければならなかった。その貧しさを認めなければならなかった。そして自分の知恵と富と力によって生きるという高慢を、砂漠に点々と捨てて来なければならなかったのです。

 ヤコブは祝福を立身出世の道具と覚えた。しかし祝福とはそのようなものではなかったのです。主イエスは平地の説教で言われた。「貧しい人々は、幸いである、/…今飢えている人々は、幸いである、…今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:20~21)
 「幸い」とは祝福のこと。祝福の本当の意味を知っていたのは、実は全人類の中でイエス・キリストのみ。それはヤコブが夢想していた祝福と全く異質なものでした。貧しい人、飢えている人、泣いている人が祝福される。その悲しみの夜を知る時、その闇の地に梯子を伝わり降りて来て下さる、クリスマスの御子・インマヌエルの主を見る、それこそが私たちの人生の目的であり、それ以上の幸い、祝福はどこにもありはしないのです。
 「ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』」」(創世記28:16)、もうここには神はいないと思われる陰府の貧しさ、そのどん底に、神がおられることを発見した。だから「貧しい人々は幸いである。」

 かつてヤコブが求めた祝福とは、穀物、葡萄酒、権力であった。それは人間が地から天に向かって建てるバベルの塔です。皆これが建てば人生安泰と覚える。しかし実はその祝福ほど不確かなものはない。平地の説教で主は続けられる。「富んでいるあなたがたは、不幸である、…今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、…今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(ルカ6:24~25)、人間の思う祝福は直ぐ失われる。嵐の一吹き地震一つで崩壊する塔でしかない。真の祝福とは石を枕にして寝ていても「天よりとどくかけはし」(「讃美歌21」434、3節)が上から降りてくる、そこで生まれる平安を知ることです。その朝ヤコブは枕としていた石を立てる(28:18)。彼が「先端が地に向かって伸びる」垂直の世界を発見した祈念碑とするために。これほど確かな祝福はない。

 子どもの頃からの私の関心事「宇宙エレベーター」のことを思い出しました。それはロケットを使わないで宇宙と地上を垂直に繋ぐエレベーターです。それはバベルの塔のように地に土台を据えるものではありません。話は逆で、宇宙を回る静止衛星から「地に向かって」(創世記28:12)ワイヤーを伸ばし、そこに昇降機を取り付け人や物資を輸送するのが宇宙エレベーターです。これは地でなく天に支点を持っている。それだけに確かです。地上に支点を築くと塔は自重によって嵐や地震の影響を強く受けることでしょう。しかし天にその根拠があれば揺らぐことはない。

 「わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも/海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。…神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。」(詩編46:3~4)

 この後皆で、『讃美歌21』434「主よ、みもとに」を歌います。この讃美歌の3節の歌詞は、以前私たちが用いてきました、『54年讃美歌』ではこうでした。「主のつかいは み空に かよう梯(はし)の上より、招きぬれば、いざ登りて、主よ、みもとに近づかん」、私たちがこの梯子を登ることが強調されています。しかし『讃美歌21』においては同じ3節がこう歌われています。「天よりとどく架け橋、我を招く御使い。恵み受けて、恵み受けて、主よ、みもとに近づかん」。ここでは先程来私が強調してきたように、ヤコブの梯子を福音的に再解釈したのでしょう、「登る」という言葉は消えています。そして架け橋が、宇宙エレベーターのように天から「とどく」と歌われています。そして「恵み受けて」、「恵み受けて」と繰り返され、私たちが主とお近づきになれるのは、ただ恩寵によってのみ、自分たちが律法という梯子を汗水垂らして登る時、神に至る、というのではない。つまり罪人が恵みによって救われるという歌詞に代わりました。

 確かにそのような改訂はあっても、一方『54年讃美歌』から受け継いだ歌詞も残されている、それも忘れることは出来ません。「主よ、みもとに近づかん。十字架の道 行くとも」(『讃美歌21』434-1節)とあります。やはり私たちも「行く」、はっきり言えば「登る」と言って良いと思います。しかしその時、このヤコブの梯子は十字架である、その『54年讃美歌』から受け継がれた心を思い出さねばなりません。私たちは罪人であるにもかかわらず、主の贖罪によって、十字架という「ヤコブの梯子」を昇って天に至ることが出来る、その福音がここに示されています。
 主イエスは言われました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)、主イエス御自身がヤコブの梯子なのであります。そこで私たちが、地から天に昇るということは、もう決してバベルの塔の再来を意味するのではない。むしろ一方的な主の恵みに与り天に至ることが出来ると讃美されている。ですからこのヤコブの梯子を私たちも昇って天に至る、永遠の命の救いに至る、その表現を否定する必要はありません。
 それは先の例で言えば、これまでは、全人類の中で選抜された者の内、さらに厳しい訓練を経た超エリートのみがロケットに乗ってようやく宇宙へ飛び立ちました。しかし宇宙エレベーターが実現すれば電車同様、子どもも年寄りも病気の人も宇宙に上がることが出来るようになる。ロケットは夥しい環境汚染ガスを出しますが、宇宙エレベーターなら宇宙太陽光発電を使用するのでクリーンです。ロケットが人間一人運ぶのに1億円以上、しかし宇宙エレベーターが大衆化されれば新幹線代なみに下がるかもしれません。私たちが大富豪やエリートでなくても、貧しくても罪人でも、主イエスという、十字架という梯子を昇れば天に至ることが出来る。

 「天翔(あまが)けゆく つばさを 与えらるる その時 われら歌わん「主よ、みもとに近づかん」」(『讃美歌21』434-5節)

 もはやこの歌では梯子をも超える。私たちは十字架という翼を羽ばたかせ、天へと飛翔するであろう、その救いの確かさが高らかに歌い上げられる、これは何という祝福、何という喜びでしょう。

祈りましょう。 主なる神、罪人のために降ってこられたインマヌエルの御子に抱かれ贖われ、「天の門」である教会から飛翔し、みもとに近付く私たちとならせて下さい。

(今回は通常の朝礼拝ではなく夕礼拝の説教を掲載しました。2004年3月7日以来毎主日午後6時から開かれている夕礼拝のことを、どうぞ祈りのうちにお覚え下さい。)


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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