2017年9月24日 主日朝礼拝説教 「アナニアとサフィラ」

説教者 山本裕司 牧師

使徒言行録4:32~5:11

「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、/妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」(使徒言行録5:1~2)

 最近、私が加わるフェースブック交流サイトで献金のことが話題となりました。H牧師が「今日の礼拝の献金の時、財布から万札を引き出してしまい、あわてて押し戻し、千円札を献げました。罪でしょうか」と皆に問いかけました。それに対して多くの教会の仲間たちからコメントがありました。きっと皆、身につまされたからだと思います。それを以下に列挙します。

*「え? それで罪になるんだったら、私、常習犯です。もっとも、万札入ってないことも多いけど(^_^;)」

*T牧師「いや、用意が悪いのでしょう。僕は献金をきちんと前もって用意しています。」

*「礼拝がはじまって財布に一万円札しか入ってないことを思い出すと気が気でなく説教が全然入って来ません…献金袋からお釣りをとってもいいようにしてもらいたいのですが…」

*教団出版局の市川真紀さん「そういう川柳がありました。」
 「席上献金誤って万札入れてなぜ悔やむ」(「信徒の友」2016年9月号、文芸コーナー)

 (そしたらまた別の人が川柳を投稿しました。)

*「気前よく 万札捧げる 夢を見た」

(そしたらある長老が応答した。) *「正夢になりますように」

*礼拝献金に1万円札が入っていたと会計役員さんが喜んでいたら、後で、「あのう、献金のお釣り下さい。細かいお金が無かったから1万円札をいれたので。」という方が会計室に現れてビックリしたという事がありました😳

*北支区のMTさん「私はお財布を開けたら、1万2円しかなかった。固まっていたら、隣のお友達が千円貸してくれました。」

 このように献金にまつわる涙ぐましい葛藤が記されてあります。長い教会生活の中で皆さんもこれに近い経験をされたことがあるのではないでしょうか。皆献金に対して大変真剣であるためにこのようなユーモアが生じるのだと思います。

 最後に発端の問い「財布から万札を引き出してしまい、あわてて押し戻し、千円札を献げました。罪でしょうか。」に対する、S牧師のコメントを紹介します。

*「あわてて」なら無罪でしょうねえ。「計画的に」万札をみんなに見えるようにチラ見せした上で、千円札に「すりかえたら」アナニアとサフィラっぽいので厳罰です(笑)。

 使徒言行録に記される初代教会の姿はこうでした。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(4:32)、さらに、土地や家を持っている人が皆、それを売って代金を持ち寄り献金しました。それが必要に応じて分配されたので、信者の中に一人も貧しい人はいなかった(4:34)、そう言われるのです。

 国際貧困支援NGOが「世界のトップ62人の大富豪が、全人類の下位半分、すなわち36億人と同額の資産を持っている」と報告しています。例えれば、1台のバスに収まる程度の人数の金持ちが、世界の人口の半数を養える額、約180兆円を持っているということだそうです。それはこの初代教会の理想と真逆の世界です。

 その献金の模範の一人として、キプロス島生まれのバルバナが紹介されています。彼は自分の畑を売ってその代金を使徒たちの足もとに置きました。その名の意味は「慰めの子」と紹介されています(4:36~37)。

 この直後にやはり同じ教会員アナニアとサフィラの名が出て来ます。注解によるとアナニアは「ヤハウエは恵み深い」という意味で、「サフィラ」は「美しい」です。しかし聖書にその意味は書かれていない。バルナバだけが紹介されたのです。彼は後にパウロを導き一緒に命懸けの伝道をしました。「バルナバ」の意味だけが紹介されたのは、彼が真の献身に生き抜いたために、名の通り人々に「慰め」を与えたからに違いありません。
 その時、アナニア・サフィラ夫妻は、私たちもバルナバのように、あの夫妻も名の通りの信仰者だね、そう称賛されたい、そして名をバルナバのように聖書に残したい、そう願ったのかもしれません。そのために献金するのです。そこに既に彼ら自身の美しい名に対する裏切りが始まっている。ですから願い通り聖書に名を残しましたが、それは皮肉にも永遠の悪名となりました。

 アナニアとサフィラはバルナバを真似して自分たちの土地を売り、夫アナニアが代金の一部を持って来て使徒の足もとに置きました。しかし使徒ペトロはアナニアの欺瞞を見抜いたのです。
 「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。…どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(5:3、4b)
 ペトロは献金の強要をしたのではありません。献金とは額を含めてそれぞれが祈りの内に決断するべき自由なものです。そのことをペトロは誤解なきよう丁寧に言います。「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」(5:4a)と。

 注解は、ペトロは私有財産を持ちながら教会生活をする、そのあり方を最初から認めていたと書いています。ペトロが問題にしたのは全財産を献げたふりをして神を欺いたことにある、その一点です。その偽りのためにアナニアは裁かれ息絶えました。3時間ほどして妻が来ます。ペトロが「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい」(5:8)と問うたところ、彼女は「はい、その値段です」と答えました。やはり夫妻で示し合わせていたのです。もし夫が不正を持ちかけてもサフィラが「あなたちょっと考えてご覧なさい」とたしなめることが出来たのなら、この家は滅びを免れたと思う。しかしこの夫妻にとって致命的だったのは、サタンに心を奪われた(5:3)、似たもの夫婦であったためです。

 小檜山ルイ著『アメリカ婦人宣教師』によると、明治初期、カナダ・アメリカ婦人宣教師が次々に来日してミッションスクールを創立した時、女子教育の柱としたのは「ウーマンフッド」(女らしさ)でした。19世紀の北米で理想とされたウーマンフッドとは、正しく家を守る女性という意味です。その徳は「従順」、「純潔」、「家庭的」です。これは日本における女性の理想像「良妻賢母」と似ていますが、一つ大きく違う点がある。それは良妻賢母には抜け落ちウーマンフッドには存在する徳「敬虔」(パイエティ)である、そう言われます。「信仰」と言い換えることも出来ますが、この「敬虔」こそ、北米において女性に「道徳の守護者」としての地位を確保し、社会的発言力を与えたのだと指摘されます。
 どうしてそれが可能だったのかと言いますと、敬虔なクリスチャンたる女性は、男性の社会的優位、世俗の権力を飛び越えて、神の権威と直接結ばれることが出来たからです。それに対して良妻賢母には社会を変えていく力はなかった。男たちのなす軍国主義にただ巻き込まれていくだけでした。

 献金は「使徒たちの足もとに置」(4:35,36)かれたとあり、また裁かれたサフィラが「ペトロの足もとに倒れ」(5:10)たとあります。これは「使徒の足もと」が主の御体である教会の権威を代表する場と覚えられたからです。ウーマンフッドの体現者たちは、この使徒由来の教会の力を支えに世俗的権力を持つ男たち・父、夫、息子と対等に渡り合うことが出来た。仕事に追われて礼拝や祈りを怠る男たち、彼らが発するこの世的理屈に「ノー!」と言うことの出来る女がそこに出現したのです。家庭の中に御心を伝える偉大な役割を担う女性の育成、つまり「家の主人」は、父でも夫でも子でもない。真の「父、子、御霊である」と、「私たちは使徒の足もとで生きる」、そう断固主張出来る女性、ウーマンフッドの育成、それこそ女学校・ミッションスクールの教育方針でした。

 もしサフィラがそのような教育を受けていたらと思います。そうしたら彼女は名の通り「美しい妻」になることが出来た。そして自分だけでなく夫を救うことが出来たと確信します。この家庭崩壊の物語を読んで気付くことは、私たちは家族を救う使命を持っているということです。実際に死ななくても、霊的に死んだ家にならないために。

 ペトロはアナニアの根本問題を正しく指摘します。「あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺い」(5:3)たと。そこで思い出すのは人間創造の神話です(創世記2:7)。その時神は土の塵で人を作られ、その鼻に命の息を吹き入れられた。「人はこうして生きるものとなた」と記されてあります。神様が吹き入れて下さった命の息とは、明らかに使徒言行録の時代、大活躍される聖霊のことです。サタンはその聖霊を欺いて、アナニアの心を悪霊で満たしてしまった。そうすると玉突きのように、せっかく神が吹き入れて下さった「命の息」(創世記2:7)も追い出される。そうなると人間は、元の土の塵・泥人形に戻ってしまう、それが夫妻の死と表現されている、そう思います。

 では、どうしたら良いのでしょうか。祈ることです。主イエスが主人として我が家を支配して下さるように、聖霊が家族の心を隙間なく充たして下さるように、そう祈るのです。その聖霊の充満の中で始めて、私たちは献金問題、その心の葛藤を引き起こす、サタンの誘惑と戦い勝利し、長く生き、幸いを得ることが出来るようになる。

 「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」(申命記5:6)

 この「十戒」、「あなたの父母を敬え」とは、単に親孝行の勧めではありません。父母を敬うことを通して家の信仰を受け継ぐ、信仰継承のための戒めであると教えられます。父母のパイエティを敬い、その父母の魂を充たした聖霊を、子どもたちが受け継ぐことが出来れば、その家は主が与えられる土地に長く生きことが出来る、幸いを得る、そう約束されています。
 この戒めが含蓄することの一つは、土地は誰のものかということです。アナニアの問題、それは自分の土地は、元々主が与えて下さった恵みの賜物であると、つまり「ヤハウエは恵み深い」、この自分の名の意味を彼がついに信じることが出来なかったところにあると思います。

 多額な献金をすることによって、私たちの名が高まることはありません。神は私たちが一円も献げないうちから、全てを与えて下さいました。命の息を吹き入れて下さった。土地を与えて下さった。献金のことで直ぐフェースブックのコメントのように、躓き迷う小さな私たちのために、主は罪の赦しを与えて下さいました。その一方的な恵みに与っている。その限りない恩寵を覚え、それを私たちの名「ヤハウエは恵み深い」(アナニア)とする。ただ「恵み深い主に感謝」(詩編136編)する、それが私たちの自由な献身・献金の心となる、そう確信します。
 
祈りましょう。 主なる神様、この後、献金を献げます。あなたは全てのものを与えて下さった上に、さらに御子の命を与えて下さいました。これに報いることは出来ませんが、その恵みの大きさに少しでも応える奉献に生きる私たちとならせて下さい。そのために私たちの心に命の息・聖霊を豊かに吹き込んで下さり、悪霊を追い払って下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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