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2017年9月17日 主日朝礼拝説教 「枯れた骨の復活」

2017年9月17日 主日朝礼拝説教 「枯れた骨の復活」

説教者 山本裕司 牧師

エゼキエル37:1~10

使徒言行録3:1~10

「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」(エゼキエル37:5)

「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」(使徒言行録4:33)

 夏が過ぎ初秋となりました。やがて教会の木々も徐々に葉を落とし、真冬には死んだようなたたずまいになると思います。しかし再び春が巡り来れば若葉が芽吹き、木々の生命力に驚かされる、そういう経験をすることでしょう。しかしそのような生命の再生を見ても、私たちの心は動かない、そういう時があります。むしろ私たち人間が、何度春を迎えても新しくなることはない、その悲惨を、それは改めて際立たせる役割すら果たすかもしれない。その哀歌をもって神に訴えたのは旧約のヨブでした。
 「木には希望がある、というように/木は切られても、また新芽を吹き/若枝の絶えることはない。地におろしたその根が老い/幹が朽ちて、塵に返ろうとも水気にあえば、また芽を吹き/苗木のように枝を張る。」(ヨブ14:7)
 そう言って苦難に呻くヨブは沈黙する神に訴えるのです。「だが」と繰り返して。「だが、人間は死んで横たわる。息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか。」(14:10)、「だが、倒れ伏した人間は/再び立ち上がることなく/天の続くかぎりは/その眠りから覚めることがない。」(14:12)
 この詩は自然の描写において最も美しいと注解されます。それだけに痛烈な歌です。「木には希望がある。だが、人には望みはない、木が羨ましい」と歌われるのですから。

 しかし最近はさらに深刻度を増しているように思われます。木が弱くなったのではない、人間の罪が増幅したのです。それに連動して死の力が自然にまで及んだ。ヨブの時代、強かだったはずの自然の再生力すら奪われる。ムダなダム、森林伐採、河川改修、干潟と珊瑚の喪失と、恐るべき殺戮が起こっている。その理由は利権と軍拡です。自分たちだけが富み栄えることに邁進する時、ある瞬間、限界と終わりが来る。そしてレイチェル・カーソンが預言したように「沈黙の春」が来る。苦難のヨブさえ知らなかった、死の春であります。
 
 預言者エゼキエルの時代にも未曾有の限界と終わりがユダに来ました。敗戦国民エゼキエルは捕虜となり敵の都バビロンに向かう「死の彷徨」をさせられました。国も神殿も土地も失う、もはや自分が依って立つ場はありません。開発が限界を超えた時土壌自体が流失し、荒野のみ残る。同様に民が根を張ってきた国そのものが流失する。後はそれぞれ根無し草としてバラバラに浮遊する。その望みなき時代にエゼキエルは、主の霊によって骨が累々と散乱する涸れ谷に下ろされます。枯れたバラバラの骨、それはユダの民の死を表します。それをエゼキエルは神の霊によって直視させられたのです。

 しかしそこで、左近淑先生は、この世界の破れを直視しながら、なおそれに耐えることが出来たとしたら、既にそこに聖霊の働きがあると書いています。そしてネパールに単身赴任している塚田さんという看護師を紹介します。彼女はその決心をした時もう若くはなかった。病児の看護法も英会話も決心をした後学んだ。どうして決心出来たか。それは人生の「破れ」があったからだと。岩村昇先生のネパールの話を聞いた時、彼女は心を動かされた。その頃結婚生活の終わりがありました。でも病身の子を育てることに生き甲斐を感じてきた。やっと大学生にまで育てた時、その子は父の豊かさに引かれ貧しい母のもとを去った。彼女にとって根を張るべき家庭という共同体、その土壌は何もかも流れ去る。限界と終わり、その破れです。しかし彼女はそれを直視した。自分の無力を告白する、神に一切を委ねる、その瞬間、霊が強く働き始めるのです。

 神はエゼキエルに骨に向かって預言するよう命じられる。するとバラバラだった骨と骨がカタカタと音を立てて近付いた。そこに筋、肉、皮膚が覆い、「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(エゼキエル37:10b)、聖霊がバラバラの骨を一つにする。破れ果てた人々が繕われ、一つ民となって立ち上がる。「非常な大きな集団となった」とあります。これは隊列を組んで整列している軍隊を意味すると左近先生は言う。彼らは捕囚としてよろめきつつ辿った同じ道を、今度は規則正しい靴音を響かせ母国へと凱旋するであろう。そう神の民再生の希望が預言されるのです。

 公害で荒廃した足尾銅山の植林事業は土嚢を一つ一つ運び上げるところから始まりました。失われた土壌の回復によって、冬に落葉しても春に芽生えるという生命の輪廻が戻る。永遠に川を寸断すると思われたダムが砕かれ、バラバラだった川が一本に繋がり、そこを嬉々として生き物たちが上下し、干潟、珊瑚が復活する。沈黙ではなく、春の歌声が聞こえるようになる。奪うのでなく与えることを通して、自分も生きる、持ち物を共有する、分け合う、繋がりをもった命と喜びの循環世界が甦る。そこに讃美が響き渡るのです。

 「荒れ地よ、喜べ。砂漠よ、歌え。咲かせよ、一面に 喜びの花を。」(「讃美歌21」173)

 旧約の話をしてきました。しかし実は今朝私たちに巡ってきた新約・使徒言行録の世界を語ってきたつもりです。エゼキエルの見た預言の成就こそ、使徒言行録に現れる初代教会だと確信するからです。
 「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(使徒言行録4:32)、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、…」(4:34)、これが教会です。思いが一つです。持ち物も共有している。分け合うのです。
 さすがは初代教会だと思うかもしれません。しかし使徒言行録はその理由を、そこに属する人間の力と見てはいない。この書が原始教会の麗しき生活を描写する様式は、その直前、砂漠に雨が降るように霊が注がれることを必ず記します。預言者の経験とそこで重なる。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」(使徒言行録4:31)、この聖霊の力が交わりを生むと続く。この交わりは何よりも先ず「イエスの復活を証し」(4:33)しました。再生不能と思われたバラバラ人間が、しかしイエスの復活を信じる時、教会共同体として復活すると言われるのです。
 
 「一人として持ち物を自分のものだと言う者はない。」(4:32)、それにしても、どうしてこんなことが出来たのでしょうか。それは彼らが塚田さんのように一度破れ果てた経験を持ったからではないでしょうか。彼らは主が十字架につけられた時、逃げ去り、荒れ地のバラバラの骨となった。その孤独の極みの中で、その死の破れからの救いを切実に願ったに違いない。春の朝、復活された主は、その祈りに応えて下さる。「木には望みがある。だが人間は…」と呻いたヨブにも応えて下さる。「いや、あなたたち人間もこの春、新芽を吹くであろう」と。主は御自身の復活の命を独り占めされない、「共有」して下さった。「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」(4:32)、主が真っ先に御自身の永遠の命を私たちに分け与えて下さった。そこで教会は、全て良きもの、それは物資的なものも含めて、神が「分配」(4:35)して下さったことを覚える。その神の振る舞いに倣った、教会の「共有」の精神が生まれる。それが共同体を作る。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、/使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」(4:34~35)

 私たちは今、献堂82年を迎えた美しい礼拝堂の中で、兄弟姉妹として一つになっています。しかし私たちの中でこの会堂を得る時、奉仕と献金をした人が一人でもいるでしょうか。いないのです。では私たちが満ち溢れるほど享受しているこの教会財産の出自はどこまで遡るのでしょうか。
 私は愛媛の大洲教会の歴史を研究したので、大洲教会であればその財産がどこまで遡るか知っています。1898(M31)年に教会は土地を取得し会堂を得ますが、その代金の半分はウッドハル宣教師の遺産でした。また1903(M36)年に初めてオルガンを購入した時も、宣教師遺族の献金によったのです。彼は、1888(M21)年に来日し、大洲教会を特に応援して下さった米人宣教師でしたが、1895(M28)年に36歳の若さで病死しました。その墓は染井霊園の外人墓地にあります。大洲教会のために、時間も能力も財産も体も命も全てを献げ尽くされた宣教師でした。
 西片町教会財産の根源はどこまで遡るのでしょうか。私たちが良くやっている、献金をいっぱいしているから、この教会は運営出来るのだと思うことが出来るでしょうか。大洲においても、さらに遡ればウッドハル宣教師にその献身の志を与えたのは、やはり牧師であった御尊父であり、さらに復活の主と聖霊です。神にまでその財産が遡るというのは抽象的なことでなく、実に具体的なことです。西片町教会の有形無形の財産、その柱一本も、その礼拝の心一つも、神にまで遡る賜物です。御子イエスが御自分の時間も能力も財産も体も命も全てを私たちに献げて下さった、「おのおのに分配」(4:35)して下さった。私たちから出たものはない。それを知る時深い感謝の中で、私たちもまた自分を献げ「分配」することを学ぶ。創立130周年を迎えようとする西片町教会に、私たち一人一人が招かれ、聖霊によって組み合わされ、もう涸れ谷の骨でも禿げ山の根無し草でもない、そのことを喜び、この神の財産を後世に受け継ぐために、私たちも自らを分配する、そのように願う。

祈りましょう。 主なる神様、バラバラであった私たちが、今ここに共に座っています。この聖霊による奇跡を感謝します。沈黙した砂漠のような世界に、春の歌を響き渡らせるオアシスとしての教会に、益々献身する私たちとならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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