2017年6月11日 主日朝礼拝説教「あの上にあるものを求め」
説教者 山本裕司 牧師
使徒言行録1:12~26
「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒言行録1:13~14)
教会暦における2017年の「昇天日」は5月25日(木)でした。私たちはその直後の主日より、新たな思いをもって使徒言行録を読み始めましたが、その冒頭に御昇天の記事があるのです。使徒たちは「オリーブ畑」の山で、天に上げられる主イエスを見送りました。白い服を着た二人の天使に「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。…」(1:11)とちょっと注意される程にです。しかしそれはとても正しい視線だと思います。「ハイデルベルク信仰問答」は、キリストが御昇天下さったことによって、どんな益(御利益)があるのでしょうか、と問うてこう答えました。私たちが「あの上にあるものを求め、地にあるものを求めないようにして下さるのであります。」そう言って、コロサイの信徒への手紙を引用します。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(3:1)
私たちは未だ地上にいます。しかし復活の主が勝利者として天に昇って下さった。だから私たちも天とそこにおられるキリストをいつも見上げて生きることが求められるのです。さらにコロサイの信徒への手紙は続けます。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(3:2)、地上のものとは罪のことです。天の御心でなく、地の欲望をじっと見詰める生き方です。そうならないように、なお地上を生きなければならないキリスト者は、上を見上げて生きようではないか。そうやって、天におられるキリストの御心が、地にもあるようにと祈り、天と地を繋ぐ、それが御昇天後の使徒たち、つまり教会の使命なのです。
使徒たちは、都エルサレムに戻りました。そして「泊まっていた家の上の部屋に上がった。」(使徒言行録1:13)と記されています。そこで彼らは「心を合わせて熱心に祈っていた」(1:14)のです。まさしく祈りこそ、上を見上げることの具体的姿です。この祈りの場は、「髙樓」(たかどの、文語訳)、「屋上の間」(口語訳)、「家の上の部屋」(新共同訳)と訳されています。英語翻訳では「upper room」(RSV)ですが、これをそのまま書名にした小冊子があります。日毎の祈りを導くための聖書日課です。私も「ローズンゲン」を用いる前、使用していた時期がありました。「アパ・ルーム」、これは大変心惹かれる書名です。
弟子たちが泊まっていた「家の上の部屋」とは、昔から受難週の木曜「最後の晩餐」が執行された部屋のことだと言い伝えられてきました。それはマルコ福音書を書いた弟子マルコ自身の家であったと言う人もいます。私はエルサレム旅行をした時、その「二階の広間」(マルコ14:15)を、本当に苦労して探し回った経験があります。ようやく教えてもらい、隠されたような階段を上って、その素朴な部屋に至った時の感動は忘れられません。
そして思ったのは、私たちもまたこの「アパ・ルーム」を持たなければならないということです。そこで天に向かって祈る時、上にあるものが地に影響を及ぼす、その神的出来事が始まるのです。逆に言えば、この祈りなしになされる業は、どれ程見事に見えても、所詮地のことで終わってしまうのではないでしょうか。上に昇られたキリストの御業は、いつも上から始まります。この「アッパー」は、二階の広間をも突き抜け、さらにもっと上を指し示しているのです。
その場を私たちはエルサレムの中に探し回る必要はない、この西片町教会礼拝堂こそ、あるいは水曜夕の集会室こそがアパルームです。またそれに連動して、私たち一人一人の心の中、日常生活の中に、このアパルームが生まれます。そこは天と繋がる場です。その「ルーム」を持たないと、私たちは「地」のことしか分からなくなってしまうのです。
この世界で最初のアパルームに集まったのは、どのような人たちだったでしょうか。そこにいたのは、ユダが欠けた11人の使徒たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たち、そして、血の繋がっている主イエスの兄弟でした(1:13b~14)。ここでは先ず、11人の使徒たちの名が記されています。ルカによる福音書にも使徒たちの名が列挙されますが(6:14~16)、この2つのリストを比べると興味深い違いがあると、ある人は指摘します。それによるとルカ福音書の方では先ず「ペトロとアンデレ」、そして「ヤコブとヨハネ」が並んで記されています。血の繋がった兄弟でペアです。ところが使徒言行録においては、肉親の組み合わせが解消されて、最初にペトロとヨハネの名が並ぶ(1:13)。使徒言行録におけるペトロとヨハネは行動を共にする一対の伝道者です。つまりここでは血の繋がっている兄弟の関係でなく、神の選びの順序によって、使徒組織が再編成されている、そう読むことが可能です。それと似て主イエスの血の繋がっている母も兄弟もリストの最後に置かれます。家系を重んじるユダヤの慣習からすれば、イエスの母マリアや実の兄弟たちが重視されてもおかしくなかったでしょう。実際、後の初代教会の中で、主イエスの血の繋がった兄弟ヤコブが重んじられ、使徒パウロと対立する、そのような学びもやがてここですることになります。しかしこのアパルームでは「選び」は地上の血によるものでなく上の基準による、そう暗示されるのです。
ペトロは、120人の会衆に「兄弟たち」(1:16)と呼び掛けました。アパルームで作られた交わりとは、血の繋がりを超えて、兄弟姉妹となる、そう言われている。ここに教会での麗しき呼び名「兄弟姉妹」が生まれたのです。地の人間の価値や基準がここで廃棄される。そして上からの価値観が流れ込んでくる。その天と地を繋ぐ通路こそアパルームです。勿論、主イエスの地上の御生涯の中では、主を理解出来なかった家族がここに集まっている、それは本当に嬉しいことです。私たちもまたこのように家族を教会に招きたいと願います。しかし教会においては、家族の繋がりがそのまま、横滑りに入り込んでくるのではありません。肉における家族の交わりも、上から捕らえ直される、それがアパルームです。
またこの時、使徒は定めの12人が揃っていません。11人しかいない。それはユダの死によって欠けてしまったからです。この時、ペトロの口を通して、ユダについての厳しい言葉が語られます。ユダは主を裏切って祭司長から得た報酬、銀貨30枚で土地を買いました(1:18)。土地を買うとは、まさに地上のことを暗示しているのではないでしょうか。ユダの裏切りとは、まさに彼の関心が「地」にあったためです。そのユダの死に方は象徴的です。ユダは、地面にまっさかさまに落ちた(1:18)と書かれています。彼は上にあるものを求めなかったために、まさに地の一番低い所、いわば地獄が、彼の居場所になってしまったということではないでしょうか。上を見上げないで生きる時、どんなに、土地を買うことに代表されるように富み栄えても、それは、真っ逆さまに落ちたことなのだ、と暗示される。ここでも、今朝の主題、アッパー、「上にあるものを求めなさい」(コロサイ3:1)との御言葉が響き渡ってくるのです。
さらにユダの「体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしいました。」(1:18)とあります。これも天の御心を体に入れない者、つまりアパルームなき魂は、その内側から崩壊してしまうことを告げているのではないでしょうか。私たちは、このユダに近い人間なのではないでしょうか。いつも自分の心を捕らえるものは、地のことである。富と力と欲、それを求める人生、それは一見強いようで、実は自己崩壊への道かもしれないのです。
使徒たちは、ユダの欠けたところを補充し、使徒職を整えようとしました。いわば人事です。しかしここでも、上を見上げることが求められる。教会は「くじ引き」(1:26)で空席を埋めました。私たちは人事をどう考えるでしょうか。ただ候補者の内一見優れている者を選ぼうとするだけではないでしょうか。もっと悪質になると、能力ですらなく自分のお友達や利権から役職を選ぶようになるのではないでしょうか。
追伸1:福田康夫元首相は最近、安倍政権を痛烈に批判した。2014年に発足した内閣人事局に関して「政治家が人事をやってはいけない。安倍内閣最大の失敗だ」との認識を示した。人事局の影響で、「各省庁の中堅以上の幹部は皆、官邸(の顔色)を見て仕事をしている。恥ずかしく、国家の破滅に近づいている。中央省庁の公務員の中には、官邸の言うことを聞こうと、忖度(そんたく)以上のことをしようとして、すり寄る人もいる。能力のない人が偉くなっており、むちゃくちゃだ。自民党がつぶれる時は、役所も一緒につぶれる。自殺行為だ」と述べた。〈「東京新聞」2017年8月3日、朝刊第一面〉
地の基準しか持たない組織は、「地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出て」(1:18)しまう。そのような「地」の思惑で教会人事を決めることを、使徒は排除するために、上に向かって祈りました。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。」(1:24)、そしてくじ引きをしたのです。教会はそうやって上にあるもの、人事でなく神事を求めるのです。
使徒に選ばれる可能性のある人として、2人の人物があげられました(1:23)。ひとりは3つの名前で紹介されています。その内の2つはパレスティナ名(バルサバ、ヨセフ)、ひとつはギリシャ名・ユストです。この名は注解によると、由緒ある家の出であることを示しているそうです。他方マティアには何の別名もありません。人々は当時、ユダヤ人でありながら、ギリシャ名を持つ家柄のユストというバルサバ・ヨセフこそ、当然選ばれるべき者と覚えたのではないでしょうか。しかしくじはマティアに当たりました。アパルームでは地の判断と異なる結果が出るのです。
旧約聖書・申命記にこうありました。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」(7:6)、左近淑先生はこの個所をこう訳しておられます。「きみは聖なる民だ。君は君の神ヤハウェのものなのだ。神ヤハウェが地上の万国のなかから選んで、ご自分の最も大切な宝とされたのは、まさに君だったのだ。」
「まさに君だったのだ」、そうマティアは指差されました。彼はびっくりしたのではなないでしょうか。思いがけず12使徒の一人になったのです。
申命記はこう続けます。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。/ ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…」(7:7~8a)そう言います。左近訳ではこうです。「神ヤハウェが君にひかれ、君を選んだのは、君がほかの大国、列強諸国にまさっていたからではない。事実君は国力で言えば世界中で一番の弱小国。ただ神ヤハウェが愛したということ以外に(選ばれる)理由はない。」
イスラエルが神の民とされたのは、ただ神が愛の故に「まさに君なのだ」と言って下さった。それ以外に理由はないのです。私たちも同じです。この西片のアパルームにおられるのは、全員天の神が選んだ人です。同時に皆、血族関係を超えた兄弟姉妹です。地の基準ではない、上の基準で私たちは選ばれ結ばれています。それが私たちの人生と生き方の「自信」となる、それは何と嬉しいことでしょう。
祈りましょう。 天の神様、つい地上のものを追い求めてしまいます。しかしその末路は、転落であると教えられました。どうかそうならないように、いつも上を見上げる私たちとならせて下さい。
追伸2:この日の御言葉は、この同じ月報に掲載されました、森本あんり牧師の平和聖日(8月6日)説教「72年前の誓い」とも深く関わると思います。先生は、「日本国憲法」が「祈りと誓いの書」であり「地上の事柄を超えた天に目を向ける」宗教性に権威と根拠を持つと言うのですから。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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