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2017年5月7日 主日朝礼拝説教 「中心に、聖心は燃え」

2017年5月7日 主日朝礼拝説教 「中心に、聖心は燃え」

説教者 山本裕司 牧師

ルカによる福音書24:28~46

イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」(ルカ24:38)

 画家ルオーの「キリスト聖画集」を先週も鑑賞して過ごし、私にとってまさに「ゴールデンウィーク」となった5月の一週を過ごしました。先日も指摘しましたが、ルオーは聖書物語そのものを、余り描くことはしませんでした。しかし例外的ですが、今朝の物語「エマオの弟子たち」を主題とする作品は残しました。今朝、お渡しした1枚目のコピーがそれです。*
 夕暮れ時に3人の旅人がエマオの宿屋に入って行く場面です。遠くに昼の名残の青い空が見えますが、全体はもう闇の中と言ってもよい。しかしその暗い世界のただ中にあって、白衣のキリストだけが、中心に一際明るく描かれています。そしてキリストを「中心」とした両側のお弟子たちは、暗い穴蔵のような入り口の中で、微かに赤く浮かび上がって見えるのです。それは明らかに、お甦りの主の御言葉を聞くことが出来た弟子たちの、燃え立つ心が描かれているのです。

 「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」(ルカ24:32)

 ルオーの用いる赤色で思い出される2枚目の作品は「彼は汝のためにも来たれり」という出光美術館所蔵の作品です。*

 そこに裸の娼婦が横たわっています。キリストの姿はありません。しかしその作品の中心に「聖心」と呼ばれる、ハートが描かれています。それが絵画の「中心」となって鮮やかな紅色の光を放っています。それは娼婦の苦悩を救う主の憐れみの厚き心です。この上なく暗いと思われる娼婦の館です。しかしその中心に、主の憐れみの心が赤々と燃え消えることはない、そうルオーは表現するのです。

 私たちの人生も、暗いと思われる時がある。娼婦がそうであるように、男たちの罪によって汚される。病によって蝕まれる。世界も弱肉強食の獣の如き代になってしまった。神ではなく、むしろ悪魔が生きて働いているのではないかと思われるような痛みが、心と体を苛む。それにもかかわらず、その人生の「中心」は闇ではない、死ではない、悪魔ではない、キリストの真っ赤に燃える御心なのだと、神の愛が私たちの「中心」を支配している、そうやって何が襲ってきても揺るがぬ平和を、主は私たちに与えようとして下さっているのです。

 「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」(24;36)、復活の主の場は「真ん中」と言われるのであります。

 今、何度も「中心」、「真ん中」と繰り返しました。その理由の一つは、この物語には「中心」があると注解されるからです。聖書には「文学的構造」があるそうです。その構造分析をすると、明らかに物語全体の「中心」となる言葉が浮かび上がると指摘されます。それは「エマオ途上の物語」では、先ず「イエスは生きておれる」(24:23)という天使の言葉だと指摘されます。
 それから、エルサレムでもう一度、復活の主は弟子たちにお会いして下さいます。その箇所の構造においては、うろたえ心に疑いを起こしている弟子たちへの主の言葉「まさしくわたしだ」(24:39)、これが中心だと言われます。これらの言葉こそ、まさにルオーがその作品の中心に描く「真っ赤なハート」の生みの親であると確信します。
 物語だけでない。これが私たちの人生の中心なのです。復活の主は、私たちの交わりの「真ん中」(24:36)にいて下さる。命の主は、そのただ中で生きて働いて下さっておられる。そして夜と死と悪魔を、人生の額縁の外に追い払って下さる。そうやって生まれるキリストの平和が、あなたたちの中心で赤々と燃えているではないか、そう断言されるのです。

 しかしそれでも、その燃える色が、私たちには少しも見えないことがある。エマオ途上の弟子たちがそうでした。復活の主が2人と共に旅をして下さっている(24:15)、「イエスは生きておられる」(24:23)との天使の言葉、その「中心」が彼らに伝えられている。しかしなお弟子たちには、イエスが見えないのです。
 あるいは、舞台はエマオからエルサレムに移りますが、後に使徒となる弟子たちが集まっている、その真ん中に復活の主が立たれたのです(24:36)。その時丁度、弟子たちは主の復活について話し合っていました。だから、「ああやっぱり本当だったのだ」、そう言うと思ったらそうではなく、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」(24:37)、どうして亡霊だと思ったのでしょうか。主は指摘されます。「疑いを起こして」(24:38)いるからだ、と。
 しかし、ここでルカは、弟子たちを「何と愚かなものよ」と責める思いで書いているのではない、そう確信します。ルカは自分たちの教会の姿を思い浮かべながら、この物語を書いているのではないでしょうか。ルカ福音書が書かれた頃の教会は、厳しい迫害を受けていました。次々に同胞が捕らえられたかもしれない。秘かにカタコンベ(墳墓)の夜の中で、まさにルオーの描いた穴蔵同様の闇の中で、「うろたえ」、「疑い」(24:38)ながら、かろうじて礼拝を守っていたのかもしれない。その中で、神が見えない、希望が見えない、命が見えないと、その叫び声が、洞穴の中に木霊する夜もあったかもしれない。
 
 ルオーも似た経験をしました。彼の作風は1902年頃、大転換します。それまではレンブラント風の穏やかな写実主義でしたが、それは放棄され、荒々しい書き殴るような筆使いとなる。それは、彼が人間の原罪に直面したからだと言われます。それ以来、彼は、この世の暗黒面を描くことを始めます。それは近代美術における革命でした。その作品が公開されると、彼は「世界唯一の暗黒派画家」、あるいは「闇と死の画家」と呼ばれるようになりました。しかしそれがルオーの見ている現実だったのです。1910年に描かれた娼婦の絵は、余りにも醜い姿であり、どこにも救いの光は見えません。

 そのような穴に落ち込んだルオーに手を差し伸べたのが、作家スュワレスでした。彼のルオーへの手紙(1913年2月)にはこうあります。「親愛なるルオーよ、私は君の否定病を癒してあげたいと思います。私たちは地獄に止まるために作られたのではありません。地獄を通り抜けるためです。ルオーよ、君は否定の中に止まっていてはいけない。それがたとえ正当なものであったとしても、君はそれを終わらせるべきです。何故なら人は否定によって生きることは出来ないのだから。芸術家とは苦悩の世界の中に、愛の最も美しい形を与えることによって、世界を救う者です。」
 この手紙を受け取ってルオーは劇的に変わります。否定から肯定へ、破壊から創造へ、夕から夜明けへと。
 主題は同じです。描かれるのはやはり、娼婦であり、先週も紹介したように重荷を負う旅人です。彼はこの世の苦しみを知らないお人好しになったわけではありません。それにもかかわらず、一切が変わる。どこが変わったのかというと、その絶望の闇の中に、希望の光が現れるようになるのです。最初は小さく、だんだん大きく、終わりは全てを充たす、光が。

 先程の「彼は汝のためにも来たれり」、この聖心を戴く娼婦の絵は、まさに作家スュワレスの散文詩「聖娼婦」に影響されたと言われています。そこにはこう歌われている。「待て、彼(イエス)はお前のために来たのだ。お前に同情するために。」このスュワレスの理解から、ルオーの描く娼婦の姿は、初期の恐ろしい姿から急速に変わっていきます。その裸身は美しくなり、咲き薫る花とさえ思えると解説される。何故なら、男たちの罪にまみれて汚された女を、なお洗い、清め、癒す、聖心が、彼女を中心から捕らえているからだと。

 では、私たちがこの聖心、主イエスの心を見ることの出来る場所はどこでしょうか。エマオの弟子は言いました。「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(24:32)、つまりそれは先ず「聖書を説明」する場所、説教の場です。それを聞く時、どんなに暗い穴蔵を通る時も、心は燃え始めると約束されている。それだけではない。決定的なのは次にあります。「食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」(24:30)、聖餐の食卓です。主イエスが御言葉を解き明かして下さり、聖餐を挙行して下さる。そこに光が射す。
 今、私たちがしている主日礼拝とは、この福音書に記される「エマオの出来事」そのままを、説教と聖餐をもって、今ここで再現しようとする教会の営みです。
 聖書の説明(説教)と、パン裂き(聖餐)、この二つを礼拝は中心とする。従って、説教壇と聖餐卓は中央に置かれる。今読んでいるルカの物語はこの礼拝論の典拠です。この両者によって、人はどのような冷たい夜であっても、説教によって心は燃え(24:32)、聖餐によって「目が開け、イエスだと分かった」(24:31b)のです。
 エルサレムでの他の弟子たちも同じ経験をしました。今度は順序は逆になります。最初に主は焼いた魚を「彼らの前で食べられ」(24:43)ました。食卓共同体・聖餐が暗示されています。それから「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、」(24:45)とあるように福音を説明される。この復活の主への開眼のために、聖餐と説教という二つの中心を持つ礼拝は存在している、そう繰り返し物語られるのです。

 復活の主を見る。それはどれ程深い人間の原罪の闇にも勝つ、強い光の発見です。ルオーの画風は、その晩年が近付くにつれて、益々明るくなっていきます。先ほど上げた、1930年前後の「エマオの弟子」や「聖娼婦」は、芸術性は高くても、それに比べればなお暗いと言わねばなりません。
 1950年前後になると、第二次世界大戦の悲劇に遭遇したにも関わらず、彼の作品は光で満たされていきます。解説者はそれを「色彩の賛歌」と呼びます。そこには、全てを柔らかく包む温かい光が溢れる。風景は「晩秋」あるいは「夕暮れ」と題されていても、その場面を満たしているのは、天から注がれる超自然の光です。夜の場面でさえ、ルオーはもはや暗く描くことは出来なくなってしまいます。

 御紹介する3枚目は「キリスト教的夜景」(1952年)という作品です。*

 「夜の景色」とは思えません。私はゴールデンウィークにこれを見て過ごした夜、ふと夕べの讃美歌を思い出しました。

 「わが魂のひかり、すくいぬしイエスよ、ちかくましまさば、夜も夜にあらじ。」(21-214)

 空は青く、太陽は空に浮かぶ雲を明るい黄色で彩っている。手前の舟の艫(とも)の方に母子が座り、舳先(へさき)の側にキリストが立っています。ルオーは晩年の作品には、全て何気なくキリストが描かれています。「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」(24:36)、この出来事をそのまま描こうとしたに違いない。キリストの御臨在とその平和の故に、夜も太陽は沈まない。晩秋も冬も暖かい風が吹いて地上を覆うのです。
 晩年のルオーの感覚とは絶対肯定であります。どのような人の世の痛みも、もはや、復活の主に勝つことは出来ないからであります。ルオーは長い人生の旅路の最後に、一点の曇りもないキリストの光に包まれる経験をしているのです。
 「イエスは生きておられる」(24:23)、「まさしくわたしだ」(24:39)、この復活の主を心の中心とする人生の旅路は、その終わりに命に包まれる経験をする。例外なく。私たちも同じ道を辿っているのです。復活の主と共に歩む人生、それは何と幸いなことでしょう。

 祈りを献げましょう。  主なる神様、お甦りの御子は、今私たちの「真ん中」にいて下さる、その恵みに心から感謝を致します。もしそのお姿が、なお私たちの目におぼろであるならば、今、主の食卓へと私たちを招いて下さり、その霧を聖霊の風によって吹き飛ばして下さい。

*『ルオー キリスト教聖画集』(1987年11月30日、著者 柳宗玄、発行 学習研究社)より


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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