2017年5月14日 主日朝礼拝説教 「心の目よ、開け」

説教者 山本裕司 牧師

ルカによる福音書24:36~49

主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。(列王記下6:17)

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。(ルカ24:45~46a)

 この礼拝において、ルカ福音書を読み始めたのは、2014年5月18日、復活節第5主日のことでした。爾来、丸3年、殆どの主日を用いて私たちはルカ福音書を読み続けて今朝に至りました。いつ読み始めたのか調べるために、2~3年前の週報を捲ってみますと、兄弟姉妹の名が次々に登場します。その中には、もう地上にはいない兄姉が教会で奉仕して下さっていた、その姿を思い出させる記事が現れます。この数年の内に、死んでしまわれた人たちの名です。昨日は村越節さんの葬儀が行われました。節さんを含めてその方々と、その頃、共にルカ福音書を読み始めたのです。しかし福音書が最後の箇所に至る時を待つことはありませんでした。兄姉はこれを読み終わる時には、もう自分はそこにはいないのだと考えたでしょうか。当然、最後まで読むものと思っておられたのではないでしょうか。しかしその間に思い掛けない力に合って、この地上から去っていかれました。そのことはとにもかくにも、ルカ福音書を最後まで読むことが出来た、私たちの明日の姿です。この福音書を次週読み終えたら、このルカの書いた物語の第2部である「使徒言行録」を続けて読む計画です。28章という長編です。そうであれば、その間に何が起こるか誰にも分かりません。私自身が終わりの章節を語る前に、病気や老いの苦しみの末、去るかもしれない。いつかは必ずその時がくる。そう思うと、何か自分が滅びの穴に飲まれていくような気持ちになります。皆苦しむ、皆死ぬ。いなくなる。それを誤魔化すことは出来ません。

 主イエスも言われました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受ける』」(ルカ24:46a)と。苦しみの末に死なれる。それは動かせない。しかし、それで終わりではない。復活する、そう言われたのです。そうであれば、これは主のご境遇のこと、それで終わりというのでもない。そのキリストの復活を信じる私たちも、先に召された兄弟姉妹も復活する。これはその約束の言葉なのです。

 今朝の復活の主と11人の弟子との交わりは、エマオの弟子たちが夕食の席でイエス様だと気付き、エルサレムに取って返した、その直後のことです。未だ真夜中であったと思います。「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち」(24:36)、闇の中で語られる主の言葉に、弟子たちはじっと耳を傾けている。主は何のために語られているのでしょうか。それは夜明けを迎えるためです。主の復活を信じることが出来ず、「恐れおののき、亡霊を見ている」(24:37)と震える、目の前におられるのに、なお光を見ることが出来ない弟子たちが、イースターの朝を迎えるために、御言葉を語って下さる。
 主は弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(24:39)と語られました。ご自分の復活された御体を、蝋燭の明かりで照らし出したのかもしれません。よく見なさい、触りなさい、本当に私には「肉体」があるのだ。これ程確かに「生きている」(24:23)ではないかと言われるのです。

 最近、ある神学書を読んでいたら、私たちが終末時に与えられる復活体とはどのようなものであろうかと論じられていました。その時著者は急に、学問を忘れたかのように語り始めるのです。「人間は何と言っても若い時である。男子青年の美しさは独特なものである。若い女性の美しさは言うまでもない。」そう言って続ける。やがて私たちが与えられる復活の体とは、それに似ているであろう、と。しかもそれすら比喩に過ぎない。本当はもっと若々しく美しくなるであろう。輝くような美しい肉体を終わりの時に私たちは頂戴するであろう、とまるで夢でも見ているように語るのです。私もどんどん老ける。髪は白くなり、猫背は伸びず、顔も益々醜くなり、肉体はミイラのように痩せ衰えて終わる、と思っていたところが、そうではない。本当の終わりが来た時、私たちは「主と同じ姿に造りかえられ」(コリント二3:17)、新品の「肉体」をもって光の中に帰って行く、と言うのです。

 本当のことを言うと、私たちを醜くするのは、老いではありません。老いて益々美しい人が私たちの教会の兄弟姉妹です。顔を本当に醜くするのは罪です。それが心から溢れ出て顔に深い皺を刻む。恐ろしいことです。しかし私たちが夜明けを迎えるとは、その罪の闇が照らされることに他なりません。「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』」(24:47)、そう主は言われました。悔い改める時、罪が赦される。悔い改めるとは、復活の主を見ることです。そこで顔も肉体も生命が漲り始める。
 それは終末の時のことだけではないでしょう。この地上の生において、復活の主の救いにあずかる時、私たちは既にこの所で、夜明けを迎える。年をどんなにとっても、若々しく立つことが出来る。主の復活は、死後の話だけではなくて、なお許されて地上で生きる私たちにも生命力を付与する。その生命を、今、復活の主は弟子たちに分け与えようとしておられるのです。罪の赦しを得させ、命を甦らせる福音を、あらゆる国々に宣べ伝える伝道者として、あなたたちは立ち上がる。復活の証人として夜明けを迎える(24:47~48)、そう主は約束されたのです。

 そのような命の恵みを頂戴するためには、弟子たちは先ず「聖書を悟るために…心の目を開」(24:45)かせて頂かねばなりません。聖書が分からなければ伝道は出来ません。しかしそれは、単に聖書を勉強しなさいということではありません。勿論、聖書の学びは大切です。主イエスも折に触れて弟子たちに聖書を教えてこられました。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(24:44)、しかしなお弟子たちの眼差しにおいて聖書は閉じられている。いくら聖書の知識が増しても、それだけでは、心の夜明けを迎え、命の光を見ることは出来ないのです。心の夜明けとは、私たちにとっては、洗礼を受ける時がその一つだと思います。しかしそれは、教会に暫く通っていれば自然と洗礼を受けるようになる、というものではありません。一人の人が信仰を得て洗礼を願い出る。それは一つの奇跡です。人為的なものではない。私たちの力ではない。では何の力でしょうか。復活のイエスが、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」(24:45)下さる、そうありました。ここに私たちは望みを繋ぐ。復活の主よ、どうか私たちの心の目を開いて下さい。そう祈る他はない。そして主は必ずその祈りに応えて下さる。御手を伸ばし、私たちの閉じた目に触れて、開いて下さる。その瞬間、私たちは復活信仰に開眼し、洗礼を受ける、命を得る、光を見る、そして証人(24:48)として立ち上がるのです。

 先程、3年前の週報を捲ったと言いましたが、先週は村越節さんの葬儀説教のために、節さんが洗礼を受けられた、1981年前後、約35年前の「月報」を読んで過ごしました。それこそ既に神に召された兄姉、また今も活躍されておられる兄姉の貴重な証しの宝庫です。その中に津屋式子さんの「我が愛する教会に捧ぐ」という1983年12月号の投稿が目に留まりました。「その主日には、私たち東洋英和女学院ハンドベル・クワイアの高校生16人は…皆様方に温かく迎えられて、賛美と演奏をするという機会が与えられましたことを感謝します。前日の夜に、車に満載されたハンドベルは、河野和雄先生の手によって教会に運ばれてきたのですが、会堂に足を踏み入れるなり先生の第一声は、「わあ、きれいな教会だね。」でした。ドイツ留学の経験もある先生は、会堂上に掲げられている「ヘルンフートの星」をご覧になって大変喜んでおられました。…そして、主日にやって来た部員たちも異口同音に、きれいな教会だと感嘆するのです。礼拝の中では2階ギャラリーで演奏したために、天井の梁を目の前にして痛く感動していました。このような顧問や仲間の言葉に、私は思いがけずはっとさせられました。あまりにも見慣れ過ぎていた自分の教会の造り、-河野先生曰く、ハンドベルもよく映える「格調高い」造り-、この美しさを指摘したのは、意外にも西片町教会に初めて来た人々だったのです。…以前先生からこんな話を聞いたことがありました。先生が中学生の頃、夏に合宿をした寮で、毎朝顔を洗う場所にあった高い窓からは、いつも同じ空が見えていました。ある朝、並んで顔を洗ってた背の高い友人がふと、その窓の外に見える木々や草花のことに触れた時、その方は初めて自分がそれまで見ていたものは外界のごく一部でしかなかったことに気付かされたというのです。小柄な自分はその窓から空しか見ることが出来なかったが、背の高い友人は、ほんのわずか自分と視点が違うというだけで、全く別の景色を見続けていて、しかもそのことに、お互いに長い間気が付かなかったのだそうです。大地に美しい自然が息吹き、鳥が木の実をついばみに来るような豊かな景色が、合宿所の建物の壁一枚隔てた向こうに存在するというのに、ただ空が外界の全てのように思い込んでしまう。それと同じようなことは、私の日常のあらゆる場面でたやすく起こり得る現象であるように思います。…私は西片町教会に十年来お世話になっていながら、木造の会堂の格調高さや、不思議な赤星の美しさをすっかり見逃していました。…教会に来る度に、木造の温もりも梁の造形の妙も、確実に視界内に入り、目にうつってはいたのですが(となると、やはりこれは内的な視野の狭さを物語っているのでしょうか)。しかし友人に言われてみて会堂の天井を見上げようと頭を後ろに倒したその瞬間、私は周りの空気が一切入れ替わったような気がする程のショックを覚えました。こんなにわずかな角度首を動かしただけで!…結局、人間の視野の限界に常に自覚的で、つまり謙虚でありたいし、そうであれば、行き詰まった際の視点変換が可能となってくるのではないか、と思う。…」そう言うのです。私は34年前のこの高校生の言葉を読んで、今朝の御言葉の最良の注解を得たように思いました。

 目開かれて、聖書を悟る(24:45)とは、これに似ていると思いました。もう何度も開いて、よく知っているはずの聖書の内容です。しかしもはや弟子たちには何の感動もない。十字架の死の苦しみしか見えない。しかし復活の主が来て下さる。心の目を開いて下さると(行き詰まった際の視点変換)、同じものを見ているのに、その十字架が私たちの罪を贖う救いであり、この上なく美しきものであることを、そこから復活の若き生命がほとばしり出て来ることを、見ることが出来る。それも「わずかな角度」と津屋さんが言うように、それは決して私たちの視力が増したというのではなく、主にあって聖書の角度を、わずかに違えて見せて頂く、ということです。
 同時に、主は「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(24:49)とも言われました。次々週から読み始める「使徒言行録」のペンテコステの記事にあるように、約束通り50日後、高いところから聖霊が降ります。「家の上の部屋」(使徒言行録1:13)で使徒たちも、「わずかな角度、…見上げようと頭を後ろに倒した瞬間…ショックを覚える。」受難週以来、何十歳も一度に年を取ったようになった弟子たちでした。主を見棄てた罪のために、ひどく老いさらばえ、死んでしまったと言ってよい。この世も自らの心も望み無き闇としか見えなかった彼らが、しかし首を少し曲げて見上げただけで、吹き下ろす聖霊の風を感じることが出来るようになる。そこで「周りの空気の一切が入れ替わってしまう」、夜が朝に、虚無が充足に、罪が義に、死が命に、絶望が希望に、そうやって、使徒たちは霊も肉体も復活して、命漲らせ、世界の果てにまで出て行く。身を以て復活の証人となるために。私たちも同じ経験をする、それが教会です。この美しい会堂を持った西片町教会で今日も朝の光の中、礼拝をすることの出来た私たちの限りなき祝福を思う。

 祈りましょう。 主なる神様、霊的に老い、それが故に肉体も疲れ果て、うつむく私たちの真ん中に、復活の御子は来て下さる、首をもたげさせて下さる、聖霊を雨のよう浴びせて下さる、そうやって私たちを甦らせて下さる、その恵みに心から感謝します。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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