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2017年4月30日 主日朝礼拝説教 「君はキリストを見たか」

2017年4月30日 主日朝礼拝説教 「君はキリストを見たか」

説教者 山本裕司 牧師

ルカによる福音書24:13~27

「'話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。/ しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」(ルカ24:15~16)

 フランスの画家ジョルジュ・ルオーの「キリスト聖画集」を先週鑑賞しつつ時を過ごしました。その作品集の中から、今朝朗読頂いた、ルカ福音書の頂点とも呼ばれる「エマオへの道」の物語を描いた作品を見たいと思ったからです。その中で「エマオの弟子たち」とはっきり題するのは一点のみです。しかし私にはそれ以外のいずれの作品も、やはりエマオへの弟子の物語と重なって見えてしまうのです。
 ルオーは確かに宗教画家ですが、聖書そのものを題材にすることを余り好みませんでした。むしろ何気ない日常や自然、自分が実際に長く暮らした町の風景を描きます。その中に自分と同時代人の喜怒哀楽を置く、そういう作品が多いのです。しかしそこから聖書画家のどの作品よりも深い意味で、聖書のメッセージが浮かび上がってくるのです。

 ルオーは何故二千年前の聖書の舞台そのままを殆ど描かなかったのでしょうか。その理由は一つだと思います。「イエスは生きておられる」(ルカ24:23)からです。主イエスは二千年前のパレスチナで、約30年間生きておられただけではない。復活され今も生きておられる。私たちと共に歩いて下さっている。今、私たちが毎日歩いているのはパレスチナではありません。21世紀の東京です。その道を歩く時、復活のイエス様も同伴して下さる。ルオーの描きたかったのはこれです。
 「エマオ」という地名について学者たちは、この村の存在が明瞭ではないと指摘します。エルサレムから60スタディオン(約12㎞)離れた所(24:13)に、エマオという村が存在しないからです。そして2人の弟子たちの内一人は「クレオパ」(24:18)と名がありますが、もう一人はありません。ルカはこう物語りながら、この「エマオ」の箇所に、あなたたちが今歩いている町の名を入れて御覧と、もう一人の弟子のところに、あなたの名を入れて御覧と、つまりこれはあなたの物語、あなたの人生の旅の物語、そう読むことを促している、そう確信します。

 エマオへの旅の物語、これは夕暮れの物語、日は西に傾いていたに違いない。それは2人の旅人の「暗い顔」(24:17)と重なり合う。私たちも夕暮れの東京の道を、光が見えない中で、とぼとぼ歩いた経験があるのではないでしょうか。悪い知らせを受けて、どこをどう通って家に帰ったかも定かではない、そうやって東京をさまようように歩いた経験が、人生の中で一度はあるのではないでしょうか。
 どうして旅は暗いのかというと、ルカは「イエスは生きておられる」、この事実から「目が遮られて」(24:16)いるからだと物語ろうとするのです。この2人はイエスのかつての力はよく分かっていました。同伴した旅人から、それが主ご自身ですが、「やり取りしているその話は何のことですか」(24:17)と問われて2人は答えます。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」(24:19)、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」(24:21)、しかしその認識が、今の彼らに光を少しももたらさないのです。
 その理由は、この弟子たちの言葉がみな「過去形」であることに関係するのではないでしょうか。「…預言者でした」(24:19)、「望みをかけていました。」(24:21)、イエスは凄かった、でも全ては過去形であって、もう終わった話だと言うのです。
 このエマオへの往路の旅に、ルカは約15節(24:17~28)を用いました。望みなき逃避行のために遅々とした歩みとして描かれたのでしょうか。私たちも苦しみの時間は無限のように長く感じられる。「立ち止まった」(24:17)ともあります。人生が立ち止まって、もうにっちもさっちも進まない。ところが、御復活のイエスに目が開かれて、エルサレムに戻る復路となりますと、「時を移さず出発して」(24:33)とあります。その時は、まるで羽が生えたような旅で、エルサレムまで同じ距離とは思えない、僅か1節しか用いません。そこに、今、生き働いて下さる復活の主を知ることが、どれ程、旅路の足を強くするかが暗示されている、そう思います。
 
 いささか、私も先走ったかもしれませんが、今朝の福音書では、未だ弟子たちには、イエスは過去の人です。生きておられるイエスが見えない。「二人の目が遮られて」(24:16)いた、それは明らかに罪です。復活の主御自身が言っておられます。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」(24:25)と。
 しかし私たちはどうしても、エマオ途上の弟子たちを責める気にはなりません。私たちの姿そのものがここにあるからです。誰もが試練に合うと、この目塞がれる罪から免れることはないのではないか、そう思います。ルカはこの旅人を一般人としないでみ弟子の物語にします。それは私たちと同様に一度信仰をもった者が、やがて道に迷う、そして神が見えなくなる、その試練をルカは語ろうとしたのではないでしょうか。

 時は御受難の金曜日から3日目、日曜日夕です。その春の主日の朝、エルサレムで次々に「イエスは生きておられる」との良き知らせを彼らは聞きました。それでも弟子たちはこの夕べ「イエスが見えない」のです。この物語を子どもの頃教会学校で聞いた時、とてももどかしく思いました。弟子たちの話を聞きながら、一緒に歩いているのは当の本人イエス様なのです。イエス様が墓に見当たらないと、もう聞いた後のことです。いわば私たちが日曜朝の礼拝を守って御言葉を聞いた午後と、この2人の状況とを重ねることが出来ると思います。これだけ良き知らせ・福音を聞いていながら、どうして旅人がイエス様だと分からないのだろう、そう子どもの頃不思議でした。しかしこの道をずっと歩いてきて年取った今は違います。苦しい時、やはり神が見えない。世の中にも、自分にも同伴してきたのは、悪魔ではないだろうかという、そういう経験を重ねる。どうしても光が見えないのです。

 作家・倉本聰さんには『君は海を見たか』という作品があります。36歳の父と、母のいない9歳の一人息子の物語。父はエンジニアで、沖縄の海中展望塔を作るための設計主任をしていて、東京と沖縄を飛び回ります。子どもの面倒は自分の妹に任せ切りで仕事に夢中です。ある時学校で先生が子どもたちに海の絵を描きなさいと言う。この子は皆が青い海を描いている中で、一人だけ真っ黒な海の絵を描きました。先生は問います。「何で海底の絵を描いたの。お父さん、しょっちゅう沖縄に行ってるだろ。君は海を見たことがあるだろう。」しかしその子は答えられない。もうずっと海に連れて行ってもらってないからです。
 この息子がある時、おなかがはれてると言い出す。妹が検査を受けさせます。医者は父親に病院に来るように伝言する。しかし彼はその時間がとれません。行き違いもあって、何日も空費した後ようやく面接をすると、検査結果は最悪のものであると告げられる。子どもは癌で後3ケ月の生命と診断されました。

 「何故もっと早く分からなかったんだ」、呻くように言う彼に妹は言います。「兄さん、あの子、兄さんに2ヶ月前に言ったそうよ。お腹に変なグリグリがあるって。兄さん、仕事の本を読んでて、返事もしなかったそうだわ。」
 この父は子どもに海を見せていなかった。しかしでは父親自身は海を見ていたのか。そうドラマは問い始めるのです。ここで「海」というのは、何かを象徴しています。それは「愛」と言ってもよいかもしれません。「命」かもしれない。今朝の私たちにとっては「復活のイエス・キリスト」です。子どもは父の愛を見失っている。父は仕事に忙殺されて、命を見失う。いつも一緒にいるはずの子どののことが、その心も体も、少しも見えていないのです。
 そんなある日、会社で窓際にやられた同僚が父親にこう言う。「愛社精神のかたまりだった俺が、突然窓際にやられた。ある朝いつものラッシュの電車で、何故かフッと窓の外の景色を見たんだな―。その時俺に全く初めて見る、見たこともなかった沿線がうつったよ。初めての景色なんだ。毎朝見てたはずなのに。ショックだった。茫然とした。それまで毎日通っていながら、景色なんて見ようともしなかったんだ。君は知ってるか、窓の景色を、毎朝通っている電車の外の、見慣れたはずの景色を知ってるか。」

 父は仕事の一切を放棄する。その帰り道、電車の窓から外の景色を見る。ここは、このドラマで最も感動的な場面だと思いました。飛んでいく情景、夕暮れの町、その郊外を放心したように凝視する。それから彼は息子との、それこそ、命がけの触れ合いを始める。そして2人で海を見に行くのです。

 息子が死んで、暫くして、担任の先生が一枚の絵を父親に送ってきます。その子が図画の時間に描いた2度目の海の絵でした。
 その絵を見ながら父は担任に返事を書きました。「この夏、息子と沖縄へ行って、ある日、たまたま日の沈むのを見てました。一年ほど通いつめていた作業現場の直ぐそばにある、オクマという小さなビーチの日没を。ショックを受けました。きれいでした。でも僕が受けたショックというのは、そのきれいさへのショックではないのです。一年中沖縄の海を見ながら、たぶん日没も年中見ながら、その海をきれいという気持ちで、これまで一度も見てなかったこと。先生はあの時、僕に、あなたはこれまで自分の子どもに海を見せたことがあるのかと問われた。でもその時僕は初めて愕然と、自分自身に尋ねたのです。では僕は本当に海を見てたのか、ずっと海で仕事しながら、自分は本当に海を見てたのか、例えば海の広さや色に、感動したことが一度でもあったのか。…」
 そして子どもの描いた真っ青な海の絵が写って、そのドラマは終わる。「君は海を見たか」、その青色が答えです。

 今朝、お配りしたのは、既に何度か皆様に紹介してきたルオーの作品です。しかし今回は、教会にカラーコピー機が入りましたので、初めてカラーでお渡し出来ましたが、先程の物語と重ねても、やはり絵には「色」が必要であると改めて思いました。
 ルオーが多く描いた主題は旅人(難民)の姿です。その作品の一つが、一枚目の「避難する人たち」という1948年の作品です。暗い輪郭の中に閉ざされた夫妻2人が、背を曲げて下を見詰めながら黙々と歩いています。疲労にこけた顔は泥にまみれ、重い足は夕闇の中で定かに見えない。ルオー自身が書いています。「希望なく逃れる避難者は、頭を下げ、いつか手に入れようという希望も失った。幾度もの占いが約束した幸福を、彼らはもう信じようとはしない」と。
 太陽は西に没しようとしている。一切は終わった、一切は過去形となる。そう思った時、ルオーは、闇の空に白い希望の星を一つおいているのです。夫妻は重荷に喘ぎ下を向いているために、その星が昇ったことを見てはいない。だから未だ涙を流したままです。しかし母親に抱かれているため上を向く赤子だけが、その星を見上げている、そして笑っているように見えます。「幼子のようにならなくては」という御言葉が暗示されているのでしょうか。「幼子のようにならなければ、神の国を見ることは出来ない。」
 しかしそこでルオーが本当に言いたいことは、あなたは星を見ていないではないかという、咎める心ではありません。苦悩の夫妻に、光が見えなくても、星は既に頭上にある。希望の星は夫妻とその子どもたちを照らしているではないか。何を信じられなくても、それだけは事実だ、とルオーは訴えようとするのです。

 2枚目の作品題は「秋」(1946年)です。やはり夕暮れです。黄色い太陽がもう沈みかけています。色彩は暗い。そこに母親とやはり子どもたちが道を歩いています。先を行く2人の子どもは無邪気に歩いてる。しかし母親は巨大と言っても良い荷物を背負っています。その重みに耐えかねて前屈みになってやっと歩いている。父親は描かれません。既に死んだのかもしれない。それは女が独りで子どもを守る、その孤独が象徴されています。しかしこの3人は気付いていないものがあります。時に私たちも見落とすのです。太い筆で「聖心」(御心)を表す、ハート型に描かれた道と重なるように、2人の人が立っている。そして旅人をじっと見詰めています。解説には、白い衣の人はキリストであり、もう一人はその弟子なのだと指摘しつつ、まるで説教者のように続けます。「この世で重荷を負う人は、ただ一人で苦しんでいると思っている。しかし自分たちは気付かなくても、もうすぐ近くに、キリストはおられるのだ。」

 先に、この絵を何度も紹介してきたと言いました。でも何度でも良いと思います。私たちは繰り返しエマオ途上の弟子たちのように、キリストが見えなくなるのですから。だから繰り返し言います。私たちが主イエスを見えなくても、主は共に歩いて下さる。耳元で御言葉を語り続けていて下さる。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(24:26)と。
 ここに「苦しみを受ける」とあります。ルオーの作品、この重荷を負い喘ぎつつ進む旅人に、主が十字架を背負う姿を重ね合わせる解釈者も多い。その絵に描かれる没しようとする太陽は、十字架の正午、光を失ったといわれる太陽(23:45)を暗示しているとも解説されます。そうであれば、主イエスはいきなり復活されたのではない。先ず苦しみを受けられたのです。神が見えない私たちの苦しみの旅を、既に主イエスがその御受難の時、みな経験して下さった。そして私たちと一つになるようにして、大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と。その主が私たちに語りかけて下さる。
 あなたは一人で苦難の旅を続けていると思っている。しかし、私はあなた以上に苦しんだのだ。あなたと一つになるようにして重荷を負って今も歩いている、だからあなたを決して一人にはしない、この道は険しくても、やがて「栄光に入るはず」(24:26)の道なのだと、どうかそれを信じて下さい、栄光と命を目指して、諦めず、一緒に旅を続けようではないか、そう御声をかけて下さる。その御声がたとえ、痛みのために聞こえない夜でも、主は「まどろむことなく見守って」(詩編121:3)下さり、耳元で励まし続けて下さっておられる、その事実は何も変わりません。

 祈りましょう。 主なる神様、御子はお甦りになられ、今、生きて私たちと共に旅をして下さっている、その事実に心から感謝します。どうか信仰の眼を開いて、海のように広いあなたの愛を見ることが出来ますように。耳を開いて、海のように轟く御声を聞くことが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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