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2017年4月16日 復活日夕礼拝説教 「命のダンスは終わらない」

2017年4月16日復活日夕礼拝説教「命のダンスは終わらない」

説教者 山本裕司 牧師

詩編16:7~11 イザヤ35:1a マルコ福音書16:14~15

「暗い雲が光をとざし、神のみ子が釘づけられて 悪がちからをふるうなかも、みわざはすすんだ。おどれ輪になって、リードする主とともに 福音の喜びへと 招かれた者はみな。」(『讃美歌21』290「おどり出る姿で」4節)

 この復活日夕礼拝への招きの言葉として、先ほど詩編16編を朗読しました。そこで詩編詩人はこう歌いました。「 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」(16:9)どうして詩編詩人の魂は、喜びの中で踊ったのでしょうか。その理由はそれに続くように、主が「わたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくだ」(16:10~11)さったからです。このように命の道を教えて頂き、踊り出すほどの喜びが与えられる、これは主イエスの御復活によって私たちの現実となりました。

 またその招詞に併せて、私たちは、讃美歌21-290番「おどり出る姿で」(1~4)を歌いました。これは今日の午後にも催されました子どもたちによるイースターページェントで、毎年フィナーレを飾る歌です。原題は「Lord of dance」(踊りの主)です。これはプロテスタントの一派シェーカー教徒が19世紀に作った讃美歌です。シェーカーという教派名は、文字通り彼らが礼拝の中にシェイクする踊りを取り入れたことで付けられたそうです。最近は、このシェーカー教徒の伝統に触発されて、礼拝の中にダンスを取り入れる教会もあります。真の礼拝において私たちは深い喜びを与えられるからです。礼拝はただ知識を得るだけでない、豊かな感情に満たされます。その溢れるような感情は、体を動かすことに通じると思います。美しい歌を歌う時、体が自然に動くように。人が深い喜びに会った瞬間に、急に走り出したくなるように。

 讃美歌21-290番「踊りの主」、この歌のオリジナルの英語歌詞からイメージされる物語は、人々が次々に神の踊りに加わっていくドラマです。
 世界の一番最初の日の朝、宇宙でたったお一人、神様が踊り始めます。神様が踊ると、太陽ができ、月や星が生まれ、山や海も広がり、あらゆる生き物が誕生し、神様と一緒に踊り始めます。神様の踊りの行進が今出発しました。神様は、地上に降りて来られます。ご自身が創造された人間と一緒に踊るために。人々を神様の踊りに誘うために。だから踊りの主は、クリスマスの夜、人となられました。その夜、空に表れた天使の大群の歌に合わせて、貧しい羊飼いたちが、初めて喜びの踊りに加わりました。
 神の子イエスは、神のダンスのリーダーです。ダンサー・イエスの踊りの輪に入り、イエス様の真似をして踊るとき、人々は大きな喜びに満たされ、胸の中に愛が一杯になります。だからイエス様に声をかけられた瞬間、漁師のペトロたちは、持っていた網(あみ)をぱっと捨て、喜び勇んでイエス様の踊りに加わって進んでいきました。

 踊りの行列はどんどん長くなっていきます。子どもも女も男も、皆大河に小川が流れ込むように、その行列に吸い込まれていきました。そしてとうとうその数が何万人にもなった時、踊りは輪になって野を覆いました。イエス様は、その時、五つのパンと二匹の魚を踊りながら、人々に配り始めます。不思議なことに僅かだったパンと魚は、分けても分けてもなくなりません。神の子から頂いた、パンと魚を掲げて、人々は大きな輪になって踊りました。

 遠くから、少数になってしまったファリサイ派と律法学者が妬みながら見ています。誰かが、彼らの手をとって、踊りの輪に導こうとしますが、彼らは、手を振り払って加わりません。
 イエス様の踊りは、安息日も休みません。いえ、安息日こそ、益々そのダンスは情熱的になりました。そしてイエス様は、足が不自由で座り込んでいる男の手を取られました。その手を男がしっかりと握り返した瞬間、先ほど朗読したイザヤの預言が成就するのです。35:6「そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」そして男は激しく感謝のタップダンスを踏み始めました。

 ファリサイ派の人たちは、チャンスをとうとうつかみました。イエスは、安息日の律法を破ったと。彼らは、その時始めて少しずつリズムをとって体を揺らし始めます。そのファリサイの踊りに、学者が加わり、祭司が加わり、ローマの兵士たちが加わっていきます。その踊りはイエス様の踊りのように楽しくありません。気味の悪い動きです。しかし皆それに陶酔し始めました。誘いは群衆にも伸びました。手を伸ばされると、人々は、神様の踊りから、一人抜け、二人抜け、悪魔の踊りに加わってしまいます。そしていつのまにか、イエスと12弟子の回りには、気味悪く踊る集団の輪が出来上がりました。12人の弟子たちと女たちは、最後までイエスの踊りを続けようとしますが、いつのまにか、ファリサイのリズムに引き込まれ、あわてます。
 イエス様はたった一人になりました。イエス様は取り囲まれ、十字架につけられました。もう二度と踊れないように、手と足に釘を刺さされました。もうお体は動きません。「踊りの主」のダンスはついに止まりました。人々は動かなくなったイエス様の体を墓に運び、大きな石で入り口を塞ぎました。もう二度と踊れないように。その墓の回りを、夥しい人たちが激しく踊り回り、獣のように駆け回り、ついには体をぶるぶる痙攣させます。もう踊りとは呼べません。そして墓場に倒れます。累々たる屍のように。最後まで主に従った、主を愛する女たちも精も根も尽き果て倒れます。もう誰も踊りません。世界からダンスと歌は永遠に失われてしまったかのようです。そして暗黒がこの世を覆いました。

 しかし3日目の朝早く、ダンサー・イエスが、足にバネでもついていたかのように、お墓の塞ぎ石を吹き飛ばし、ひときわ高く躍り上がります。命をみなぎらせて。そしてまた一人で踊り始めました。人々をもう一度救いの踊りに招くために。ガリラヤまで踊ってやって来られた主は弟子たちに命じました。マルコ16:15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」弟子たちはこの声に励まされて、また踊り始めました。全人類がこの神の踊りに加わるまで、そのような歌です。
 私は以前、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(*注)という映画を観ました。これは高い評価と、余りにも暗いということで拒否的な反応、その対極の評価を得た映画でした。
 舞台はアメリカのとある小さな町です。主人公は、チェコスロバキアからの移民のセルマです。彼女は息子と二人で暮していました。彼女が工場で、夜勤までして、必死に働いていたのはわけがありました。彼女は先天性の病気で徐々に視力が失われつつありました。息子もまた遺伝によって、13歳で手術をしなければいずれ失明する運命にありました。ある日、とうとう殆ど見えなくなったセルマは工場を解雇されます。さらにやっと蓄えた息子の手術費用を、大家で警察官のビルによって盗まれてしまいました。彼女はビルを訪ね、押し問答の末、ビルは拳銃を取り出し、銃が暴発してビル自身に当たってしまう。彼女はやっとの思いで、金を取り戻し、病院に納めました。しかし結果的に、セルマは警官殺しの汚名を着せられてしまいます。やがて逮捕され裁判にかけられた彼女は、真実を語ろうとせず、処刑台に向かっていく、というまさにダーク、闇の中の物語です。

 私はこのセルマとは、まさに、イエス・キリストの寓意であると感じました。それは例えば彼女が移民であることにも何気なく暗示されているのではないでしょうか。移民に対して、皆最初は親切であるかのように見え、結局、いざとなると、事実を究明することもなく断罪するのです。天に国籍のある主もまた、地上では移民でした。そのため、主もまた受難週の日曜日にはホサナと喜んで迎えられながら、冤罪によって金曜日には十字架につけられたのです。
 真にセルマを愛する2人の友人だけは、彼女の秘密を知り、真実を明らかにすれば減刑されると説得します。そして弁護士を紹介します。しかし、彼女は弁護士費用が、息子の手術代と同額であることを知ると、弁護士を断りました。
 これもまた大変暗示的でして、主イエスの十字架の犠牲を思い出させます。母セルマも自分の命を犠牲にして息子を救おうとするのです。その息子が遺伝病であると表現しているところにも意味があると思いました。アダムとエバ以来、全人類に広がっていった原罪、それは昔、遺伝と考えられました。その原罪を、主イエスは、ご自分の命の値を支払い、贖って下さり、原罪の血の流れを、御自身で断ち切って下さったのです。

 何よりも、その映画で、私たちが感動するのは、彼女の心のうちだけに浮かび上がる、空想のミュージカルです。彼女は、生活の重荷に耐えられなくなる瞬間、それまで自分を苦しめてきた工場や列車が発する金属音が音楽として聞こえてくる、その世界へ移行することが出来るのです。そこでの彼女は妖精のように自由に歌い、踊ります。しかしそれは、決して、現実逃避の幻ではありません。この世は、本来、音楽が充ちている、この世は本来、ダンスの喜びが溢れていると、彼女は見ることが出来るのです。いったいどちらが幻で、どちらが現実なのですか、そう映画は私たちに問いかけていると思います。セルマは肉眼が不自由なだけに、神が造られたままの人間と世界とは、どれ程色彩かで、どれ程輝いているかを、霊的な眼差しを開いて見ることが出来る人なのです。
 御言葉を思い出さざるを得ません。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハネ9::9)

 死刑の直前に、友だちから、セルマは息子のメガネを受け取りました。それで、セルマは、息子の視力が復活したことを知りました。だから、死刑台で、彼女は歌い始めます。そして、彼女は、縛り付けられた身体の中で、なお、大好きだったタップダンスを踊ろうとする。死刑執行のベルが響いた瞬間、セルマは床を一度大きく踏み鳴らし、落下していきました。
 ダンスを誰も止められない、そう表現されているのではないでしょうか。むしろその最も暗い受難を利用して、最も美しいタップダンスが始まる。その死を通して命の歌が生まれる。主の十字架がそうです。そして、それが現実なのだと、霊の眼差しを見開けば最も暗いはずの十字架を通して、それが贖罪であるが故に、この上なき命の光が、そこから、ほとばしり出るのが見えるであろう。
 ゴルゴタの丘のこの上なき醜い処刑の釘音を通して、この上なき深い音楽のリズムが鳴り渡り始まる。さらに復活の朝、塞ぎ石が墓のわきにゴロゴロと転がる音と、その石の上に天使が着地する音が重なって、リズムはさらに深みを増す。その音楽を聴いた時、墓参りに来てうつむいていた女たちもまた、鹿のように躍り上がる。そして歓喜の中で走り出すであろう。弟子たちに甦りの踊りを伝えるために。決して罪に負けない踊りに、死に勝つ命のダンスに、今夕、主はこの夜であっても負けない光の中に、私たちを招いて下さいました。何と嬉しいことでしょう。

祈りましょう。  踊りの主・イエスキリストの父なる神、家を出た瞬間に、急に駆け出したくなるような喜びを与えるため、あなたは、わたしたちを、夜の復活祭に招いて下さいました、この恵みを感謝致します。時に暗くなり、歌も踊りも忘れてしまう冷たい心に、命の熱を再び点じて下さいましたことを重ねて感謝致します。十字架と復活の主イエスのリードに合わせて、今、私たちもまた踊る心で、イースターの聖餐に与ることが出来ますように。

「重い墓石をもけやぶり 朝のひかり照りかがやいて、おどりの主イェスはよみがえり、初穂となられた。おどれ輪になって、リードする主とともに 福音の喜びへと 招かれた者はみな。」(『讃美歌21』290「おどり出る姿で」5節)

 〈「キリスト教放送局」(FEBC) で、昨年のイースター(2017年4月16日)に 収録された西片町教会復活日夕礼拝の説教をここに掲載します。この説教が含まれる礼拝は、現在もFEBCインターネット放送「全地よ主をほめたたえよ」(2018年4月1日)(http://www.febcjp.com/2018/04/01/susvex180401/)に接続すると、24時間いつでも聞くことが出来ます。〉

(*注)原題「Dancer in the Dark」、ラース・フォン・トリアー監督、2000年製作、デンマーク映画。アイスランドの歌手ビョークを主役に据え、不遇な主人公の空想のシーンを明るい色調のミュージカル仕立てにした斬新な構成の作品。2000年、第53回カンヌ国際映画祭最高賞のパルム・ドールを受賞、ビョークは主演女優賞を獲得した。音楽もビョークが担当し、主題歌『I've seen it all』はゴールデングローブ賞、アカデミー賞歌曲部門ノミネートなど高く評価された。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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