2017年3月19日 主日朝礼拝説教「いや、まだ陽は沈まぬ」 

説教者 山本裕司 牧師

ルカによる福音書23:50~56

「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。」(ルカ23:54)

 主イエスが十字架上で死なれた後、そのお体を引き取り墓に埋葬したのはサンヒドリン・ユダヤ最高法院議員アリマタヤのヨセフでした。主イエスがお亡くなりになったのは、金曜日の午後3時過ぎでした(ルカ23:44)。ユダヤ人の安息日(土曜)とは、金曜日の日没から始まります。日が沈めば、安息日律法によって埋葬を含んだ一切の仕事をすることは出来ません。春のエルサレムの日没時間を調べると、4月初旬であれば午後7時頃です。そうであればヨセフは日の入りまでの僅か3~4時間の内に、主の埋葬をやり遂げたのです。もしそのまま金曜日の日が暮れたら、安息日明けまで、つまり丸一日、主イエスのお体は放置され、野犬や禿鷹の餌食になってしまったことでしょう。

 ヨセフは既に老人だったのではないかと想像することも出来ます。「十字架降下」を主題とする絵画を見ても、ヨセフを白髪の老人に描くことが多いのです。そうであれば、サンヒドリン議員というユダヤ最高位にある長老が、沈む夕日と競争することになったはずです。ゴルゴタでイエスの死を確かめてからピラト官邸へ向けて走り出す。春なのに汗を滴らせ道を走る長老の姿を、呆気にとられて見ている者もいたと思う。子どもたちはふざけて老人と一緒に走ったかもしれない。謁見室に倒れ込むように入り、「イエスの体を私に委ねて下さい」と申し出ます。ピラトの冷笑に耐え、役人の面倒な手続きを経て、やっと許可を得ると、再び心臓が止まりそうになりながら、丘を駆け登る。日はずんずん沈む。男は誰も手伝ってくれない。弟子たちはどこにも見当たらない。律法では、死体に触れることは汚れを意味していました。まして処刑による呪われた死体です。そこで丘に残っていた主を愛する婦人たちに手伝ってもらい、イエスの体を十字架から降ろし亜麻布に包む。その間何度も西を見て、未だ大丈夫だ、未だ時間はある、と呟いた。そして岩に掘った新品の墓にお体を運び、やっとお納めすることが出来た。そう書いて福音書は「安息日が始まろうとしていた」(23:54)と、その際どさを暗示しています。ヨセフは西に太陽の最後の光が消えていくのを見ながら、精も根も尽き果てて、墓地にへなへなと座り込んでしまったのかもしれない。そして「先生、安らかに眠ってください」と婦人たちと共に頭を垂れたと思います。

 この唯一、主イエスの埋葬のために心を砕いたヨセフを、聖人、少なくても英雄のように理解する者もいるかもしれません。福音書にもヨセフが「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」(23:50b~51)と書かれています。この「決議」とは明らかに、最高法院における主イエスの裁判のことを言っているのです(22:66~71参照)。「同意しなかった」とありますが、しかしヨセフがイエスの有罪に反対をしたのであれば、議員定数71人中、70対1であったと、その記録は残ったはずです。しかしそのような記事はどこを探しても存在しません。
 そこで思い出すのは、2001年9月14日にアメリカ連邦議会で起こったことです。この日、9・11の同時多発テロに対する報復戦争のために、「あらゆる軍事力行使」の権限をブッシュ大統領に与える決議が採択されました。上院は全会一致でした。しかし下院は420対1だったのです。唯一の反対票を投じたのがバーバラ・リー議員でした。彼女はこう議会で発言しました。「私たちが反撃を開始すれば、かの地の女性や子どもやその他の非戦闘員が十字砲火を浴びるという大変危険な目に遭うのです。あのベトナム戦争の過ちを繰り返してはなりません。」

 テロ後3日目のことです。憎悪の報復感情で一致した数百人の米国議会の中で、彼女一人は、それはまさに福音書の言葉をそのまま用いれば、「同僚の決議や行動には同意しなかった。」(23:51)、そしてそれを確かに表明したのです。しかし繰り返しますが、二千年前の議員ヨセフは、この女性のように議会で反対意見を述べることはなかったのです。同僚が捏造された証拠を並べる時、彼は確かに口の中で「ノー!」と同意しなかったかもしれない。しかし誰にも聞こえないようにです。決を採る時はどうしたのでしょうか。席を外してトイレに行ったのでしょうか。臆病の罪です。彼は議員としての責任を果たさなかった。ヨセフもまた主を十字架につけた一人から免れることはありません。しかし私は思います。このヨセフの気持ちは思い当たることが余りにも多いと。

 アジア太平洋戦争に自分は反対だったと皆言います。しかし72年前、それを表明した日本人はまことに少ない。治安維持法によって逮捕されるからです。21世紀の治安維持法・共謀罪(テロ等準備罪)の国会審議が間近です。あるいは「教団総会」で後にも先にも私は、ただ一度発言をしたことがありました。やっとの思いで発言台に立って「反対」の声を上げ、保守体制派から怒濤のヤジを浴びた時、足がぶるぶる震えました。もっと身近な例をあげれば、皆が一人の人の悪口を言う。その中で一人であっても、いや彼はそんな人じゃない。そう反論することが出来ない。自分も村八分にされる、それを恐れるのです。このヨセフの姿はそうした私たちの姿と重なる。彼はだから議会に絶望しただけでない。自分にも絶望したと思う。何て男だ、これが子どもたちにあれほど道徳(律法)を説いた長老のなれの果てか、そう議員トイレの椅子にがっくりと座り込んで、頭を抱えたかもしれない。「恥ずかしい、恥ずかしい」と。

 他がどんなに汚くても、自分だけは浄いと思えば、人は耐えられる。しかしその自分こそが汚れている、そのことを知る時、人はもう立つことは出来ない。望みを失うのです。ところがヨセフは何故か立ち上がりました。エルサレムの町を子どものように走る。それはヨセフが実は本当には絶望していない。そのことが表れているのです。世間にも自分にも絶望している。それならどこに走る望みがあるのでしょうか。彼は「神の国を待ち望んでいた」(23:51)そう福音書は書く。どこを見渡しても絶望であった。しかし神の国の希望は残った。そこに彼の精一杯の勇気が生まれる。
 何も出来なかった私であった。先生は死んで、もう何もかも遅いと思われる。二千年後のバークレーという著名な新約学者が注解しています。「人に愛を表すなら、生きている内にすべきだ。死んでからその墓前に花を供えて何になる、手遅れだ。」、そうヨセフを批判します。それはヨセフも百も承知のこと、それにもかかわらず、ヨセフは走る。どうしてそんなことが出来るのか。繰り返し申します。神の国(神の支配)の望みがあるからです。人間の世界では自他ともに絶望の闇が広がるばかりであっても、この世界には神がおられる。その神の望みの光がこの地上になお残されている。その神の国の備えとして、主イエスにこの墓を献げたい、その一心で日没と競争するのです。

 この説教題を「いや、まだ陽は沈まぬ」としました。これは太宰治の『走れメロス』の中の台詞です。御承知の通り、メロスもまた、陽が沈まぬ前に友の命を救うため、友が磔にされている処刑台の前に戻らなければなりませんでした。その帰路の中で、次々に試練が襲う、ついには自分も投げやりになって、もうどうにでもなれと野原に大の字になる。どうせもう間に合わないと忠告する者も現れる。しかし何故かメロスは最後にそれらの誘惑を振り払って言う。「間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。…いや、まだ陽は沈まぬ。」
 ヨセフもまた「もっと恐ろしく大きいものの為に走った」のではないでしょうか。自分は議会で正義を貫けなかった。しかしその罪にも負けない、もっと恐ろしく大きなものが存在する。もっと恐ろしく大きなものとは神の国です。それが到来した時、墓前でサンヒドリンも含めて古今東西の全人類が跪いて、「この方は何も悪いことをしていない」(23:41、やはりサンヒドリンに裁かれた一人の死刑囚だけが告白出来た真実)と証言をする、その御子イエスの名誉回復の時を、この墓を備えて待とうとしたのです。
 
 実は先にあげたバーバラ・リー議員も、ヨセフと全く異なる英雄であったわけではありません。議員はやはり反対を表明するのを思い悩んでいたそうです。彼女はこの日激しい政治的圧力と憎悪の感情論に曝されていました。実際、彼女は「殺してやる」と脅迫も受けたのです。しかし彼女は議会の始まる朝、ナショナル・カテドラルで牧師の言葉を聞きました。「私たちが行動する際、後で、自らが深く悔いることにならないようにしましょう」と。この言葉によって彼女は立ち向かう力を回復したのです。神の国が来たとき、悔いることがないようにしましょう、そういう意味だと思います。リー議員もまた、その神の国の希望の故に、420人に一人で立ち向かうことが出来たのだと思います。その同じ希望から来るエネルギーこそ、エルサレムの町を老いたヨセフが走る力の源泉でありました。

 しかし最後に申し上げたい。ヨセフにとって、なおこの「神の国の希望」とは、どこか抽象的だったのではないでしょうか。おぼろげなものだったのではないでしょうか。それが、彼に議会ではっきりと反対票を投ずることが出来なかった原因だったのではないでしょうか。その3日後、まさに神の国の出来事が墓で起こる。主イエスが復活されます。そして御子がまさに無罪であったことを、父御自らが宣言し高く引き上げられたことが明らかになる。復活というまさにこの上なき御子の名誉回復が、朝の光と共に出現するのです。

 もしサンヒドリンの裁判の時、この復活の希望のリアリティーにヨセフが少しでも触れていたならと思う。彼は村八分を恐れることはなかったでありましょう。あの弱虫だった12弟子が復活を見た後は皆、殉教の死を恐れなくなったように。堂々と議会でイエスは無罪である。イエスこそ神の子であると、発言したでありましょう。そのために殺され墓に横たわる自らの肉体をイメージしても、そこで恐れなかったと思う。何故なら、その同じ墓からイエス・キリストが復活して見せて下さったからです。一度傷だらけにされた主のお体が、朝日のように光り輝いて立ち上がるのを見る。だから死を恐れる必要はない。墓に入ることも実は恐れる必要はないのです。復活の主は暗に言われる。私はあなたの墓で見せてあげたではないか。神の子は復活する。それを信じる者も同様に墓から復活する。この希望を知った者は恐れない。自らの弱さを超えて勇気を得る。そう確信します。

祈りましょう。 主なる神様、御子をアリマタヤのヨセフの墓から甦らせて下さり、それ故に、続いて墓に入る私たち全ての者に、復活の希望を与えてくださった恵みに心から感謝を致します。その希望の故に私たちもまた、陽が沈まぬ前に、神の国を目指して走ることが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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