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2017年11月26日 主日朝礼拝説教 「新しいぶどう酒は、新しい革袋へ」

2017年11月26日主日礼拝「新しい葡萄酒は、新しい革袋へ」

説教者 山本裕司 牧師

使徒言行録6:8~7:8

そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、/『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。」(使徒言行録7:2~3)

 私たちは誰もイエス様の御顔を知りません。お声もどのような肉声なのか知りません。十字架の死も復活なさったお姿も目撃したことはありません。それでは自分の信仰に何かが足りないのではないだろうか。そう心許ない思いをする。そんな時もしタイムマシンがあったらと空想にふけるかもしれません。2000年前のパレスチナに飛んで行って、イエス様と一緒に旅をさせて頂ければ、もう少し自分の信仰もましになるのではないか、と。しかしそうではありません。タイムマシン以上のものが私たちには与えられています。聖霊様です。ある牧師はペンテコステの黙想においてこういう意味のことを書いています。
 主イエスが御復活の40日後昇天される。もう肉眼で主を見ることは出来ません。しかし入れ替わるようにして10日後、聖霊様が降ってこられる。その聖霊を魂に迎い入れることが出来さえすれば、私たちは主イエスを見ることが出来る、そうはっきり書いています。肉眼ではありません。霊の眼差しを開いてです。「聖霊によって、私たちはある意味では、イエス様と寝食を共にした弟子たちよりもいっそう深く、イエス様の真実を知ることが出来るようになります。見たことはないけれど、それだけに、見るよりもいっそう深くイエス様を、その御心を、「見る」ことが出来るようになるのです。」そう言うのです。本当にそうだと思いました。

 主イエスが御昇天されてから約2年、初代教会を指導してきたのは12使徒でした。彼らは、イエス様と寝食を共にした弟子であり復活の目撃者でした。だから教会で特別な権威を持ちました。ところがこの時、ヘレニスト(ギリシア語を話すユダヤ人)のやもめに対する分配問題から、新しく指導者が必要となりました。ヘレニストとはユダヤが戦争に負けた時など、外国に逃れたり異国の奴隷にされたりして、散り散りになった人のことです。その足場なき浮き草のような人生の中で、固く立つ場に、人一倍憧れたに違いない。だからこそ、世界の土台石となるべく選ばれた初代教会が現れた時、彼らは「私はここに立つ」と喜び勇んで馳せ参じたのです。彼らはイエス様を肉眼で見たことはありません。しかしヘレニスト新役員7人筆頭・ステファノの力は12使徒のペトロ、ヨハネをも凌ぎました。「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。」(使徒言行録6:8)とある通りです。そして次章には使徒言行録の中で最も長い彼の大説教が引用されます。それはこの書を書いたルカがどれ程、この偉大な指導者、最初の殉教者ステファノを重要視していたかの表れです。ヘレニスト・ステファノは、イエス様の顔もお声も知らないのに、力強く宣べ伝えることが出来たその理由こそ、彼が「知恵と“霊”とによって語る」(6:10)からです。「知恵」もまた霊の賜物です。

 ワンゲリンという作家がその豊かな想像力で初代教会の伝道の様子を描いた物語があります。そこでの語り部は、主イエスの兄弟ヤコブです。主イエスと彼は血が繋がっていました。ヤコブの顔や体つきは、イエス様と似ていたのではないでしょうか。勿論ヤコブには指導者としての実力があったと思います。しかしそれだけでなく、教祖に連なる血は他を圧倒したのではないでしょうか。彼は使徒ではなかったにもかかわらず、途中で使徒ペトロを追い越し、数万の会員を擁するエルサレム教会主教の座に就く。作家はそのヤコブにこう語らせるのです。

 「ギリシア語を話すユダヤ人たち・ヘレニストたちに、我々のような教会役員の権威を与えるべきだと使徒たちは言う。反対だ。ヘレニストたちが生きているイエスを見なかったためではない。彼らは実際見なかったが。また彼らはこのエルサレムで、ヘブライ語を使わず、ギリシア語ばかりで会話するからでもない。私が反対だったのは、律法も神殿も、彼らにとっては空しいものだったからだ。とうとう12使徒は7人に按手を与えた。私は反対したが無駄だった。その時、私は、危険な毒蛇を、自分のふところに入れたような気がした。」そういう物語です。

 ヘブライ語を話すユダヤ人たちは、12使徒も含めて皆エルサレム神殿を重んじました。彼らは「まともな」ユダヤ人として神殿に詣でることを日課にしていました。だからこそ彼らは主イエスを伝道したのに、民衆から「好意をもたれていた」(4:33)のです。そのいわば世論が教会を潰そうと狙っているユダヤ権力者の迫害に歯止めをかけていました。
 ところがヘレニスト・ステファノにとって、神殿より確かな土台岩があった。主イエスの福音です。ヘブライ人・ヤコブたちは、新約の福音と、旧約の律法、神殿、ユダヤ民族主義は矛盾しないと考えていた。しかしステファノは「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうしなければ、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる」(マルコ9:17)、その主イエスのお言葉をいつも思い出したと思います。そのヘレニストの革新的な信仰が、ヤコブが恐れた通り露骨な弾圧を呼び起こしました。ステファノは「解放された奴隷の会堂」(使徒言行録6:9)、つまり同じヘレニストのための会堂で説教していた時逮捕される。彼は「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう」(6:14)、そう説教したと糾弾されてユダヤ最高法院で不敬罪に問われるのです。
 このヘレニストを人々は許すことがありませんでした。神殿を軽視したからです。ユダヤ民族の血の団結が傷つけられたからです。ステファノが知った「土台岩」とは、もはやエルサレム神殿に捕らわれない信仰です。外国に移住し、過越祭にもエルサレムに巡礼することの出来ない父祖を持ったヘレニストたちです。その浮遊に苦しんだからこそ、彼らはやがて神殿なしで神と出会える、もはや誰にも奪えない、不動の「場」を見付けたのです。

 その信仰の先取りが旧約・エゼキエル書に強く表れています。まさにヘレニストたちを生み出すことになった最大の事件は、紀元前6世紀の対バビロニア戦争でした。そこでユダは、国家滅亡と神殿崩壊、それに続くバビロン捕囚という破局を経験しました。民は祖国から切り離され、異国の都へ連行されたのです。彼らはその足が「地」に着かない放浪の中で、エルサレム神殿なしでどう信仰を保つのかとの問いと苦闘することとなりました。連行された異邦の地は律法によって全体が汚れた地と考えられた。そのため神への犠牲奉献の祭儀も行えません。その状況の中で主なる神をどうやったら礼拝出来るのか、それは彼らにとって命懸けの問いとなりました。そこで離散のユダヤ人は神殿での犠牲奉献ではなく、ただ集まることをもって礼拝とする道を模索していくのです。その時、彼らはたとえ地の果てに散らされたとしても、共に聖書を読む時、そこに聖霊が降り神と出会う「場」が出現する。神殿はなくても聖霊によって神を見ることが可能なのです。その事実を経験した。それこそ「解放された奴隷の会堂」(6:9)とありましたが、会堂礼拝の始まりです。この形式が私たちプロテスタント教会の礼拝の原型となりました。
 「バビロンの流れのほとりに座り」(詩編137:1)捕囚の人々はシオンを思って涙しながら、しかしなお御言葉を朗読し琴を奏でて賛美する、そこにエルサレム神殿のような豪華絢爛な舞台装置も犠牲の動物もないけれども、聖霊が降る時、主なる神と私たちは再会出来る、その霊的発見をエゼキエルもする。それは旧約ですが、今は新約の使徒言行録の時代、既にヘロデ大王による大神殿がエルサレムに再建されていました。しかしその神殿がなくても、聖霊の下に集まる時、主イエスへの信仰に固く立つことが出来る。今の私たちにとって当たり前のことですが、それを真っ先に知ったのが離散のユダヤ人の末裔ヘレニストでした。

 しかしそのステファノの信仰のあり方は不敬罪であると裁かれ、最高法院へ連行されました。その時の罪状はこうです。「あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」(使徒言行録6:11、モーセ=律法、神=神殿、)、「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。」(6:13)、しかしその時、彼は最高法院において、霊に充たされたからに違いない、「天使」(6:15)さながらの顔を上げて、裁きの座で大説教を始める。それはこう語り出されました。

 その昔、アブラハムの前に現れた栄光の神は、何を彼に命じられたか。それは「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」(7:3)、であった。ステファノはこの旅人アブラハムを説教することによって、新しい葡萄酒たる信仰者も同じだと暗示しているのです。私たちも「土地と親族」(7:3)に象徴される、エルサレムと民族主義から旅立とうではないか。「一歩の幅の土地さえも…財産は何も与えられない」(7:5)、「外国に移住し」(7:6)ともある、しかしそこでこそ信仰を象徴する割礼による契約が、アブラハムに与えられたではないか。主イエスへの信仰とは、神殿の建つエルサレム、そしてユダヤ民族主義、その「がんじがらめの枠を越える」と喝破した。ルター以上の宗教改革がここで起ころうとしている。聖霊と御言葉さえあれば良い。それがあって初めて信仰はユダヤの境界を越えて異邦人の前に開かれるだろう。やがて最初からの神の目的である、アブラハムの信仰によって、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)という普遍的救済が実現する。神は全人類の神であられる、聖書は全ての言語に翻訳される、地球の裏側に旅しても教会が建っている、その将来が明らかになる、その信仰の大きな広がりを、無限の可能性をステファノは既に見ているのです。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1:8)、これを西片町教会への宣教命令として改めて受け取り直したい、そう願う。

祈りましょう。 主なる神様、私たちを新しい酒である福音を入れるに相応しい新しい革袋として下さい。直ぐ古い革袋となる私たちに聖霊を注ぎ、その御力によって教会を新たにして下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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