2017年10月1日 主日朝礼拝説教 「教会は影を作る」
説教者 山本裕司 牧師
イザヤ35:1~72 使徒言行録5:12~16
「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」(イザヤ35:5~6)
「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。」(使徒言行録5:15)
旧約・イザヤ書35章の詩は、祖国が大国によって滅ぼされ、民は「捕囚」となり荒れ野を連行される破局の時代を経験した預言者によるものと言われます。異国へ連行される民の上に、灼熱の太陽が照りつけ身を隠す影もない。その生命なき不毛世界を直視しながら、しかし預言者は荒れ野の回復を約束します。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる、「山犬がうずくまるところは/葦やパピルスのしげるところとなる。」(35:7)、そこに木陰が生まれる。それはイスラエル再建の預言です。光が見えない目が開き、福音が聞こえない耳が開く。立ち上がる気力をなくした人が躍り上がる。祝いの歌詞を思い出せない人が、歓喜の歌を歌い始める。そのような時代が到来するであろう、そうイザヤは預言しました。
それから約500年後、主イエスの御前にバプテスマのヨハネは使いの者を送って、イエスが「来るべき方、救い主」なのかと質問した(ルカ7:20)。それに対して主イエスはこう答えられたのです。
「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(7:22~23)
イザヤの旧約預言がここに現実となっているではないか、約束はイエスの来臨によって成就したのだと言われた。この新約の時代、荒れ地を水が浸しパピルスが茂る時が来た、そう暗示されるのです。
「カノン」というギリシャ語に由来する言葉があります。カノンとは、元々「パピルスの茎」を意味しました。それが後に「正典」という意味となる。聖書のことです。どうしてかと言うと、パピルスとは真っ直ぐな茎を持ちます。昔それに印を付け定規とした。そこからこれは規範という言葉になる。私たちの生き方の規範(物差し)、それが聖書ですので、聖書はカノン・正典であるとなりました。そこから連想するならイザヤが見た幻、山犬のふすところにパピルスが茂るとは、「聖書正典」の出現であります。主イエスのもたらす潤いによって、荒れ地であってもそこにカノン・神の言葉が甦るであろう。この聖書を読む時、それぞれの心の荒れ地にも慰めの水が浸みてくる、灼熱の日差しに影が落ちる、そこで「御翼の陰」(詩編17:8)に隠れることが出来るであろう、そう言われるのです。
この私たちの「信仰と生活との誤りなき規範」である聖書は、私たちを一つにします。バビロン捕囚の時、日照りの荒れ野で民の心はバラバラとなった。しかし今や民は心を一つにする、共通の規範・聖書を持ったからだ。だからヨハネの使者であろうと誰であろうと、問われたら皆同じ答えをする。「救い主は誰ですか」、「それはイエス・キリストです」と。そこで一つ心になる。山犬のふすところについに茂る「パピルスの茎」(カノン)、それが甦った時起こった喜びを新約聖書はこう書きました。「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」(使徒言行録5:12)と。
「心を一つにする場」、そこは「ソロモンの回廊」とあります。この回廊は多くの人が行き交いつつ、神殿の奥に達すると注解者は書きます。そこを一つ心の交わりと癒やしの場とした、それは使徒たちの確信の表れです。使徒ペトロ、ヨハネは神殿不敬罪で逮捕されたことがありました(4:1~3)。それでも使徒たちは逃げ隠れするような伝道はしない。自分たちこそ、神殿の主(あるじ)である神と聖書正典に恥じることなき、御言葉を取り次いでいるのだとの思い、旧約正典・イザヤ書が預言した救いが、今ここで主イエスを信じる使徒たちの手を介して実現しているのだとの確信があるのです。「また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。」(5:16)、荒れ野に花咲く出来事が起きている。聖書正典がパピルスのように真っ直ぐに立ち上がったのだ。この使徒の教会こそ旧約預言を継承するものなのだ。だからこの神殿の奥・ソロモンの回廊こそ伝道に最も相応しい場所であるとの理解がある、そういう意味です。
この時、回廊に集まった民衆の反応について、不思議なことが書かれてあります。「多くの男女が主を信じて、その数はますます増えていった」(5:14)という伝道の成功が記されている。しかしその直前には「ほかのものは誰一人あえて仲間に加わろうとはしなかった」(5:13)という矛盾する指摘があります。
これは、多くの男女は主を信じたが、教会と対立している権力者たちは仲間に加わろうとはしなかったということを意味する、そう説明する注解者もいます。しかしまた別の解釈をする人もいます。ソロモン回廊の使徒たちの救いの業は、多くの人の知るところとなりました。人々は使徒たちに注目する。しかしそれが直ちに「仲間」になるところまではいかないと読むのです。この「仲間に加わる」(5:13)との単語は、興味深い言葉が使われています。元々「膠(にかわ)づけにする」という言葉です。膠とは強力な接着剤として用いられました。確かに使徒たちは民衆に称賛された(5:13b)。しかしその人々は、糊付けされてしまうほど、しっかりと自分と教会、あるいは聖書とくっつけてしまう、それには躊躇がある。これは時に求道者の心ではないでしょうか。使徒の働きに魅力を感じながら、しかし魂を明け渡すまでにはいかない。恐れがあるのです。強く接着しようとせず何かあったら直ぐそこを離れられるようしておく、ソロモン回廊のように教会の奥には入らない、避難口付近に身を置く及び腰、そういう心理がここにあると解することが出来ます。
実際、改革者カルヴァンは、これを神の聖なる力を目の当たりにした人々の畏れと解釈しています。私たちもまた怖い人がいると思います。凄い人だと良く分かる。しかし分かれば分かるほど、自分みたいな凡人は近寄りがたい相手に思える。その人に深い興味を抱きながら、その前で気楽に出来ない。私も神学校に入学した時、それまで書籍でしか知らなかった先生の前に出るのが怖かったのを覚えています。しかしある時その先生が、確かに大変な知識の持ち主だけれども、普通の人だと気づいて自由に話が出来るようになった、そういう経験があります。使徒たちの権威、それは確かに畏れを呼び起こすようなものでした。
すっかり宗教的生命が乾燥してしまった神殿に再び今、使徒を通して命の潤いが戻る。新約聖書・新しきカノンの時代がここに幕を開ける。その福音を全人類の中で真っ先に知って説教をした使徒たちの権威とはいかばかりであったかと思います。その救済の力が、畏れを呼び起こすことは当然であったと思う。その使徒に自らを膠づけするには、余りにも自分が貧しく見える。遠巻きが関の山だと思う。しかしその畏れを突き抜けて「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」(5:14)ということが教会では起きました。
それは使徒の権威と奇跡の力は、彼ら自身のものではなかったということを求道者が気付いたからに違いない。使徒たちの飛び抜けた洞察や信心によるものでもなかった。それは既に読みましたが、同じソロモン回廊でペトロが足の不自由な男を立たせた時、驚愕して走り寄る民衆に、彼は「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。」(3:12)と語る。全てはイエスの名によると説教をしました。その通りであります。
もしペトロが自力によって、砂漠に花を咲かせる(イザヤ35:1)如き救済を行ったとしたら、そこには福音の新しさは生じません。何故なら福音とは私たちの正しさや強い信心によって救われるのではないとの教えだからです。ただ主イエスの御名によって救われるからです。私たちは罪人ですが主が私たちの罪を贖って下さったから救われたのです。使徒たちも例外ではありません。福音書に表れるペトロも弱い人間です。しかし彼は主の復活を目撃し、聖霊の注ぎを受けた時強くなった。そうであればこのペトロを必要以上に恐れる必要はありません。私たちは皆「仲間」(膠づけ)なのです。皆等しく罪人であり、皆等しく主イエスの十字架の贖いによって、干からびた人生から救われた者です。だからキリストの御体である教会にぴったりと糊づけされるのを恐れる必要はない。「エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。」(5:16)、一人残らず、とはまさにこの福音の故です。皆救われる。皆仲間です。例外はない。
「人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。」(5:15)
これは古代民衆の迷信から生じた行動かもしれません。しかし暗示も与えられます。先程もイザヤの預言の時、砂漠の太陽、その日射を遮るパピルスの木陰が生じたではないかと言いました。そのカノン(正典)・神の言葉がパラソルとなって私たちを悪魔の視線から守る。あるいはここをこう理解することが出来るかもしれません。ペトロは影の薄い人でなかった。影の濃い人だった。それは神の恵みの強い光が彼に当たっていたからに違いありません。影はペトロの力によって生まれるのではありません。日がペトロに射していたからです。福音の光に照らされる時、私たち小さな者であっても、お陰様でと人から感謝されるような、何か神と隣人のお役にたつ者となることが出来る、そんな連想も生まれてきます。「一人残らず」癒やされる、「一人残らず」救われる。そこで私たちは心を「一つ」にすることが出来る。仲間になる。誰が偉いとか、誰は駄目だということはない。私たちが駄目でも、主イエスの強い光に照らされれば、私たちも隣人を包む安らぎの影となることが出来るかもしれません。
教会は影を作り出す。この世に対して長い影を及ぼす。西片町教会の会堂は西日に照らされると中山道の向こう側のマンション・メゾン文京にくっきり三角形の大屋根と十字架を映し出します。私はその夕日の作る教会の影に感動して写真を撮ったことがあります。あのマンションの中にも悲しむ人がいることでしょう。多くの人たちが、この東京砂漠の喉の渇きに苦しんでいます。教会はそこに影を投げかけている。私たちもその影の一部にならせて頂くことが出来る、それは何と光栄なことでしょう。
祈りましょう。 主なる神様、お陰様でこのように御子とその御体である教会と、膠でつけられたように、一つになることが出来た恵みに心から感謝します。上よりのあなたの光に照らされ、その光によって縁取られた長い影の如き救いの恵みを、さらに宣べ伝える西片町教会とさせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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