2017年1月22日 主日朝礼拝説教 「転びのペトロ」
説教者 山本裕司 牧師
ルカによる福音書22:54~62
「主は振り向いてペトロを見つめられた。」(ルカ22:61)
受難週の夜、オリーブ山から連行されたイエス様の後を、ペトロは「遠く離れて」(ルカ22:54)とありますが、とにかく大祭司邸まで「従い」ました。早春とはいえ寒い晩だったのでしょう、中庭の火の周りに人々が座っている。ペトロも何気なくその中に混じって腰を下ろしました。その時一人の女中が、火に照らされたペトロの顔をじっと見つめて言いました。「この人も(イエスと)一緒にいました」(22:56)と。ペトロは「わたしあの人を知らない」と打ち消す。そんなことが繰り返されて、とうとうペトロは、3度、自分がイエス様の弟子であることを否認したと書いてあります。「3」とは、ユダヤの世界では完全数ですので、彼の裏切りと罪は完成したと言われているのかもしれません。その3度目の否認が言い終わらぬ内に、突然鶏が鳴き(22:60)、主イエスが振り向いてペトロを「見つめられ」(22:61)ました。
昨夕までは、ペトロはなお若く明るかった。自分は捕らえられても、死んでも、あなたとどこまでも一緒ですと、約束出来たのです。しかし主は、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(22:34)と預言なさった。その通りになってしまったことを思い出した時、ペトロは急に老いさらばえたようになり、「激しく泣いた」(22:62)のです。
大祭司邸で、ペトロを振り向かれた時の主の眼差しとはどのようなものだったのでしょうか。今、ペトロの罪は完成した、と言いました。そうであればそれは、ペトロよお前はどうしようもない弟子だと、睨み付けるような眼差しなのでしょうか。そうではないと思います。そういう目付きなら別にこの物語の中に登場しています。
ルカは今朝の物語の中で、4度、「見る」という言葉を置いています。それは先ず、「目にして、じっと見つめ」(22:56)、ここに2度です。3度目は「少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと」(22:58)、この中にある「見て」です。女中ともう一人の人が、ペトロはあの犯罪者の仲間だと刺すように見る。そして、4度目の「見つめる」(22:61)が、主イエスの眼差しですが、これは、前3つの「見る」という原文とは異なる「見つめる」というギリシャ語が用いられています。ルカはあえて区別したのではないかと想像しました。もしそうならば、ルカはペトロに向かう人間の3度の眼差しと、主のひとみ、その目の色ははっきり違うと暗示したのです。
人の眼差しは険しい。しかし、それにどんなに取り囲まれる夜でも、あなたの人生には、もう一つの「ひとみ」が向けられているではないか。実際ここで主イエスに用いられた「見つめる」というギリシャ語の言葉が、「富める青年」の物語の中で用いられています。先ほど「ああ主のひとみ」(讃美歌21-197)を賛美しました。その1節の歌詞「富める若人…」の典拠となった箇所が、「イエスは彼を見つめ、慈しんで…」(マルコ10:21)です。慈しみつつ「見つめる」、そのような時に用いられた言葉なのです。
あるいは、ペトロを見つめられた主は、それだけでなく「振り向いて」ともあります。顧みるということです。私たちも祈りの中でこの言葉を多く用いるのではないでしょうか。「主よ、顧みて下さい」と。完全に裏切ったペトロを見つめて下さる主、私を知らないと言ったお前なんか、もうこちらも知らないと、顔を背けるのではない、逆に、顧みて下さる。このペトロの否認の物語、その中にむしろ主の罪人に対する限りなき愛の眼差しを見る者は多い。そしてその人たちが思うのは、主と目が合った時、ペトロが思い出したのは、否認の預言だけではなかったであろう。この預言をする直前に主はこう言われました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ22:32a)、この素晴らしい御言葉は、既に何度もこの礼拝の中で引用してきました。またここに戻ってしまったかという思いがあります。しかし何度戻っても良い。私たちの人生の中で、罪を犯す度に立ち戻るところは、ここにしかない。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペトロの涙はそこで溢れた、そう思います。
今朝の説教題を「転びのペトロ」としました。これは、遠藤周作の作品『沈黙』の中に登場する、ポルトガル人宣教師フェレイラの棄教後のあだ名です。彼は希に見る神学的才能に恵まれた教父であった。迫害下の日本で、1609~1633年、約25年、潜伏宣教を続けた日本伝道の最高責任者・管区長でした。
しかし彼は「穴吊り」の拷問によって棄教したのです。この恐るべき報告を受け、1635年、リスボンで数人の司祭たちが集まる。そしてフェレイラの棄教という教会の不名誉を雪辱するため迫害下の日本に密航し、飼う者なき羊の如き切支丹への布教を行う、その計画がたてられました。フェレイラの仏教への転宗は単なる一個人の挫折ではなく、ヨーロッパ文明と信仰の敗北となると彼らは感じた。それを許すことは出来ません。波濤萬里、命懸けの航海の末、真っ暗闇の長崎の浜辺に上陸した青年司祭ロドリゴらは、リスボン神学大学でのフェレイラの教え子でした。
隠れ切支丹の農民たちとの出会い、そしてミサや秘蹟の挙行、しかしその感動の季節は短く、転び切支丹・キチジローの裏切りによってロドリゴは捕らえられる。彼は、日本人信徒たちが「穴吊り」に合い呻き声をあげている、その声を牢の中で聞かされる。それこそが、「隣人愛」を「神を愛すること」と共に、究極の価値と覚える司祭にとっての最大の拷問であった。その瞬間、夜明け前の闇の中にかつての師フェレイラが現れる。そしてサタンの如き誘惑をするのです。「お前が転べば、百姓たちを穴から引き揚げることになっている」と。どちらの掟を取るのか、選ばなくてはならない。ついに屈して司祭は足を上げる。そして遠藤は書くのです。「踏絵の中のあの人は多くの人間に踏まれたために摩滅し、凹んだまま司祭を悲しげな眼差しで見つめている。」司祭が踏絵に足をかけた時、鶏が鳴くのです。
作家は、やがてロドリゴがこう述懐することを書き漏らしません。「でもひょっとすると、あの可哀想な百姓たちを助ける、その愛の行為を口実にして自分の弱さを正当化したのかもしれない。」
昨日(2017年1月21日)、マーティン・スコセッシ監督によって映画化された「沈黙」が日本で封切られました。私は十代からの遠藤ファンとして、半世紀前、1966年3月30日発行の初版本を携え、その初日の一回目、朝9時30分からの上映のために、土曜、しかも午後、「ひとみ」*の公演が教会で待っているにも関わらず出掛けました。そして私は、新宿で、この映画「サイレンス」を観るために、私の40数年に及ぶキリスト者としての人生があった、そう直感するのです。
この映画についてスコセッシ自身が語るNHKの特集番組でも言われましたが、この『沈黙』の英訳本には幾つかの誤訳があるということです。その一つに、英訳では「棄教、背教」を意味する、apostatize(アパスタタイズ)と訳された箇所は、誤訳だとはっきり言うのです。「棄教」とはキリストと教会を完全に棄てる、不可逆的な行為を意味しました。従ってフェレイラなど転び司祭を、教会は徹底的に唾棄し、顧みようとはしなかった。しかし原作のここは「転ぶ」です。「転ぶ、あるいは躓くという日本語は、転んでも、やがて立ち上がるであろう、というニュアンスがある。躓いてもやり直すことが出来る」、そう伝道者のようになって監督は言って、続ける。「それを体現するのが、多くの同胞たちが殉教する中で、彼だけは踏絵を踏む、キチジローである。この最も弱いキチジローこそが、逆説的にロドリゴの魂の指導者となっていく、そう作品は暗示している」と。
ヨーロッパのこの上なき高度な信仰を、極東の未開人に与えること、それが宣教だと考えるイエズス会司祭です。彼らは確かに真摯に日本人農民のために仕えますが、その目線はどこか上から見下ろしている。日本への最後の航海途上、ロドリゴは、醜く弱いキチジローを指して「信仰は決して一人の人間をこのように弱虫で卑怯な者にする筈はない」と軽蔑します。案の定キチジローは何度も踏絵を踏む、しかしそれでいて彼は何故か、ペトロに似て、司祭ロドリゴに「遠く離れて従」(22:54)って行きます。罪の赦しの告解を最後まで求める。ペトロは「わたしはあの人を知らない」と、まさに踏絵を踏むのに、それでも御許から去らなかった、そのために結局、3度も、主を裏切らねばならなくなる。潔くいっぺんに棄教(アパスタタイズ)してしまえば、否認も一度だけで済んだものを。しかしスコッセシに言わせれば、つまり、それは棄教ではないのです。転んだのであって、また立ち直ることが出来る。教会とヨーロッパ人全員が背教司祭から目を背けても、主イエスだけは振り向いて下さる、慈しみをもって。もう一度引用せずにおれない。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:31~32)
キチジローのような弱者を認めず「自分こそは」と胸を張っていたロドリゴは、やがて沼地のような日本で、自信も傲慢も崩される。司祭として身分も名誉も全てを失う、そしてあれ程忌み嫌った、かつての師フェレイラのあだ名「転びのペトロ」同様に、「転びのパウロ」と呼ばれるようになった、その時、彼は独白します。「あのキチジローと私とにどれだけの違いがあると言うのでしょう。…私は聖職者たちが教会で教えている神と、今の私の神は別なものだと知っている…」
彼は、爛熟のヨーロッパ教会が教えた「栄光の神」とは別の、イザヤが預言した「苦難の僕」として死なれたイエスと出会う。それは、輝ける天の上から、自分は一歩も動かず、綱でも投げるようにして、百姓を救ってやる神ではない。そうではなくて、この世の最も低い所、摩滅した踏絵の中から、「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている」と言って下さる「銅板のあの人」、どうしても罪を犯してしまう、罪を一生の中で完成させてしまう私たちを、大教会尖塔の上から、ああ憐れなものよと蔑み裁くのではない。沼地のような人生に足をすくわれ、転ぶ私たちの足を、下から支えて下さる、顧みて下さる、「母なる神」に、長い、長い、旅の末に、ロドリゴは、キチジローの手引きによって出会う、そのような物語です。
本日の聖書日課「ローズンゲン」は選びました。「 母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。」(イザヤ66:13)
この後「心をはずませ」(讃美歌21-215)を歌います。これは夕礼拝で本来用いるべき歌ですが、今朝はあえて選びました。それはバッハがあの『マタイ受難曲』において、ペトロの否認の直後にこのコラールを用いたからです。勿論その前に「憐れんでください、神よ」と泣くように歌うアルトのアリアがあります。それは司祭ロドリゴの慟哭と一つとなって聞こえてくる。「自分は、この世で最も美しいもの、最も聖(きよ)らかなもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む」、しかしこの嘆きの歌が終わった瞬間、地の底から浮かび上がるような明るさを伴って、コラールが登場するのです。「たとえ、あなたから離れても、きっとまた戻ってゆきます。…私は咎を否みません。しかしあなたの恵みと愛は、罪よりもはるかに大きなものなのです。たえずこの身に宿る罪よりも。」
涙のアリアの後に「夕べの祈り」のコラールが挿入された理由について、バッハ研究者杉山好先生は、こうコメントします。「罪と背きの人の心の夜、その暗闇のただ中に、既に神の赦しと恵みの曙(あけぼの)の光が射し込んできているのだ…。」
一日を過ごし夕暮れに至った時、私たちは、ああ、またこの一日の中で罪を犯した、そういう懺悔の思いに苛まされます。この夕を人生の終わりと覚えることも出来る。未だ泥沼にはまる前の青年司祭ロドリゴに似て、明るく一筋の信仰に生きた自分が、今、人生の夕べを迎えて…、暗い。半世紀の間に犯した罪を思い出さないわけにいかないからです。主を否認すること、それと少しも違わない罪を思わず犯した一日、一生であった。しかしその夕べ、私たちがなお絶望しないとしたら、それは「あなたの恵みと愛は、罪よりもはるかに大きなものなのです。たえずこの身に宿る罪よりも」という、事実による。夜の闇の中に沈みゆく私に、主が御顔を向けて下さり、御顔の光をもって照らして下さる。その光のもとに私も戻ることが出来るであろう。使徒ペトロのように、主の御復活後、兄弟を力付け、次は踏絵を踏まない人間になれるかもしれない。ペトロも次は、ローマで、穴吊りの如き、逆さ十字架につけられることを自ら求めた。私たちも、もしかしたら、次は恐れを知らないキリスト者になれるかもしれない。御顔の光はそれほどに強い。私たちは駄目でも、恵みは強い。主は私たちを諦めないで、顧みて下さる。何と感謝なことでしょう。
祈りましょう。 主なる御神、何も見えない夜であっても、御子が顧み、救いの眼差しを向けて下さる、その事実だけは、見ることが出来ますように。その御光の故に、自らにも、隣人にも、転んでもやり直せると、福音を弛まず告げる私たち西片町教会とならせて下さい。
* 日本軍「慰安婦」問題を告発する、朗読と一人芝居 「ひとみ-真実はひとみの中にある」(作・構成・出演 横井量子、イマジン21)のこと。奇しくも、2017年1月21日、朝、「沈黙-サイレンス-」を、午後「ひとみ…」を観ることになった。この二つは、日本の男たちが極限の暴力をもって、最もきよらかなものを犯す点で共通している。それにもかかわらず両者は描く。いかなる力をもってしても、決して奪うことの出来ない「魂」の存在を。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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