2016年9月4日 主日朝礼拝説教 「主は助け、主は盾」

説教者 山本裕司 牧師

申命記31:1~8  ルカによる福音書19:28~40 

「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。」(申命記31:8a)

「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。」(ルカ19:28)

 かつて教会は、9月初めの主日を「振起日」と呼んできました。8月中は、時に暑さに負けてたるんでしまった心があったかもしれない。しかしこの秋、振起して、宣教の戦いのために前進しようという思いです。この9月の第一主日に朗読頂きました申命記の言葉は、大変相応しかったと思います。
 「恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記31:8b)
 こう励ました時、モーセは120歳でした。彼の寿命も尽きようとしていた。出エジプトの民・イスラエルがどのような難局の中にあっても、それを乗り越えることが出来たのは、御力を計算に入れなければ、それは全てモーセの偉大な力によったのです。イスラエルは今そのモーセを失うという危機を迎える。その中でヨルダンを渡って聖戦に打って出なければならない。それはイスラエルの民に大きな恐怖心を与えました。その弱くなってしまった心に向かってモーセは言います。
 「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(31:6)
 さらに後継者ヨシュアに向かって、見放さない、見捨てられない、だから恐れてはならないと、畳み掛けるように励ましが連発されます。しかしこの繰り返しは、この時のイスラエルの動揺がどれ程大きかったかを、裏側から示しているのではないでしょうか。
 「強く、雄々しくあれ」、これは旧約聖書に合計11回出てくるそうです。その内の8回が「神が共にいる」という意味とワンセットで登場する言葉です。それだけが、イスラエルが強く雄々しくあることが出来る、その理由です。
 「神が共にいる」、その意味は、ただ遙か後方の安全地帯で兵士に号令を送る、そのような王の姿を意味するのではありません。申命記で描かれる神とは「主御自身があなたに先立って渡る」(31:3、8)、そのような王が共にいると言われています。神が先陣を切る。だから私たちは「振起」することが出来るのです。
 この申命記の言葉と、今朝巡ってきたルカ福音書は深く結びつくと確信します。
 「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。」(ルカ19:28)
 「先立って進み」とあります。旧約・申命記「主御自身があなたに先立って行く。」その約束は、真の意味で、この新約・福音書で現実となりました。主イエスは受難週「棕櫚の主日」に、王として都エルサレムに入城される。エルサレムを支配しているサタンと罪と死の砦を打ち破るために。
 あるいは先ほど交唱しました詩編はこう繰り返し歌います。

「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
アロンの家よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。
主を畏れる人よ、主に依り頼め。主は助け、主は盾。」(115:9~11)

 ここでも数えると、「詩編」全体の中では「盾」という言葉は22回出て来ます。その内の18回、つまり殆どは「主は盾」という形で登場するのです。盾とは常に戦士の前に差し出されるもの、先を行く武具です。この世の軍隊において、最前線を行く者は、古今東西、差別されている者です。身分高き者ほど奥に退く。あの戦争中、「天皇は私の盾」と賛美出来た日本人が一人でもいたでしょうか。71年前の8月に起こったことは、国体護持、つまり天皇を守るために、沖縄、そして広島と長崎が、国体の「盾」となった、それが歴史的事実です。
 そうではなく、王なる主は盾、そう賛美することが出来たイスラエルは、何と幸いな民かと改めて思います。そして、私たちはこういう王を、この日本において、その歴史において、一度でも持ったことがあったであろうかと思う。そうであれば、私たちがこの9月、振起して聖書の言葉を、この日本で宣べ伝える値打ちは計り知れない、そう改めて思います。

 私たちは教会学校の子どもたちに、あなたは大きなものに、いつも守られていますよと教育しています。その時子どもの心は安定し、攻撃的な言動は減るのではないでしょうか。自分をたった一人で守らねばならないと思う時、子どもは防衛的先制攻撃に走るようになります。大人も同じです。国も同じです。私たちが平和の心を保つためにも、主は私たちの盾となって下さるのです。
 しかしこの王は、盾であられるために、予想通り敵の攻撃に合い、蜂の巣のようにされる。しかしその敗北の出来事の中に真の勝利は隠されている、そう私たちは十字架の御言葉から示されてきました。私たちが浴びなければならない、サタンの襲撃、いえそれだけではありません。私たちの信仰によれば、私たち人間の犯した罪に対する、神の激しい怒り、それを全て御子イエスが、私たちに代わって受け止めて下さったのです。私たちの王となって下さるお方は、そのように私たちのために死んで下さるお方であられました。

 弟子たちは、「先に立って」(ルカ19:28)入城する王を得た喜びの中で歌いました。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」(19:38)、その讃美歌に対して、ファリサイ派の人々が、「先生、お弟子たちを叱ってください」(19:39)と注意しました。実際ユダヤの王(領主)はヘロデ・アンティパスでした。さらにヘロデの上にローマ皇帝が控えている。彼らは常に自分以外に王が現れないか警戒していた。そのような中で、弟子たちは「都に王が入るぞ」と歌った。ファリサイ派は、イエスよ、あなたは何であんな無神経な歌を弟子に歌わせるのか、大変なことになりますよ、そう忠告しました。あなたはどこも王らしくないではないかと、言いたいのです。

 主イエスは実際、軍馬に跨って入城されたわけではありません。王とはとても呼べない、小さな貧しい姿をとってお入りになられました。ろばの子に乗って来られた。この世の王は後陣にいます。でも主イエスは先頭にいた。それこそがまさにイエスが王でない証拠ではないかと、ファリサイ派は、王だ、王だと喜ぶ、弟子たちを黙らせなさいと求めましたが、実はそんな心配をする必要はなかったというのが本当のところです。
 弟子たちは数日後に、このイエスを、やはり王ではなかったと、こぞって見棄てる。讃美歌を歌うのを、あっという間に止めた。
 私たちも子どもの頃は喜んで歌った。しかし中学生くらいになるともう歌わない。それは自分の背が伸びる中で、イエスが小さく見えてきたからです。そういう受難物語がここから始まる。地上の王が立ち上がった時、その力の前に、主イエスと弟子たちはあっという間に押し潰される。弟子たちは揃いもそろって、主イエスが自分たちの王であることを自ら否定する一週を始めてしまうのです。

 私たちも讃美歌の扱いにおいて、その弟子たちと似ている。そうであれば、私たちがこの礼拝堂で歌う賛美の歌というのは、本当に頼りないものです。そんな讃美歌、偽物だ、そんな賛美はいらない、そう主イエスは言ってよかったはずです。
 ところが、主イエスは、注意するファリサイ派の人々に言いました。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」(19:40)、この意味は、この弟子たちの歌が消えた時、口をきくはずがないと思う石が代わりに、この歌を歌うであろう。それ程に讃美歌はなくてはなくらないのだ。そうおっしゃっていると思います。頼りない弟子たちの讃美歌、イエスは王なりという賛美歌、それを朝には信じて、夕べには動揺する、私たちの信仰、直ぐ目に見えるこの世の力に圧倒され、主の力を信じることが出来なくなる私たちです。
 そういう私たちの歌う讃美歌を、主イエスは、何故か否定されない。この歌が大切です、と、これが歌われなくてはならない、そうおっしゃられているのです。

 ある礼拝音楽の専門家は、こう言うことを書いています。私たちの賛美はどうして成り立つか。私たち人間の側の賛美の美しさによって、賛美が賛美となるわけではない。そうではなくて、それを聞いて下さる方の愛によってのみ、私たちの賛美は賛美となる、と書いています。私たちがどれ程歌手のように美しく讃美歌を歌うことが出来たとしても、実は、私たちの罪の心、イエスの大きさを疑う心が、どうしても賛美を汚す。イエス様がこれ程大切な歌だと言われた弟子たちの歌を、弟子たち自身が、この受難週に、全て自ら汚し、否定してしまう。それにもかかわらず、その歌を執り成して下さるお方がおられる。私たちの賛美をそのまま受け取るのではなくて、赦しをもって清めて下さり、その上で受け入れて下さる。だから私たちはこの礼拝の中で、賛美を歌うことが可能になるのです。讃美することが許されるのです。そうその人は書きました。

 主は、そのように兵士の貧しさをかばって下さる王です。今朝の讃美を裏切る一週間を私たちは過ごしてしまうかもしれません。地上の力の前で、イエスって、教会で歌われるような王としての力が本当にあるのだろうか、そう直ぐ疑い始める私たちです。しかしその私たちの弱さにつけ込んでくるサタンの誘惑、そして同時に、義なる神の怒りの裁きも来る。ところが、その瞬間、サタンと神様の前に立ちはだかるようにして、その攻撃を一身に引き受けて下さるお方、そして私たちに代わって十字架について下さるお方、そうやって、真の賛美も自力では歌えない私たちのために、死んで下さる王、だから、弱い者を踏みつけて進む軍馬ではなく、赦しを象徴する柔和な子ろばに乗って、そうやって、私たちの前に「盾」となって進まれる、このお方こそ、私たちの王です。
 その事実を本当に知った時、お弟子たちは恐れなくなりました。彼らは主の復活後始めて力強く賛美する者に変えられました。イエス様の言葉で言えば、まさに石が叫ぶように、次々に夥しく讃美歌が教会の中で生まれていきました。現在も、ヒム・エクスプロージョン(讃美歌爆発)と呼ばれる時代が続いています。その歌声をもう誰も止めることは出来ない、それは何と嬉しいことでしょう。

 「 主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。琴を奏でて主に感謝をささげ/十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。(詩編33::1~2)

祈りましょう。 主よ、王なる御子が盾となって、私たちの前を進んで下さる、その感謝の中で、今、石の心打ち砕かれ、この後、パリに旅立つ原田真侑オルガニストの伴奏に合わせ、振起し、賛美する私たちとして下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



a:1550 t:2 y:0