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2016年7月17日 主日朝礼拝説教 「陽はまた昇る、この東京砂漠」

2016年7月17日 主日朝礼拝説教 「陽はまた昇る」

説教者 山本裕司 牧師

ルカによる福音書19:1~10

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)

 徴税人ザアカイが暮らしたエリコは、ローマ様式の壮大な都市でした。彼の家もエリコ富裕層が皆そうであったように、ローマ風豪邸であったと思います。ユダヤ人がローマ式高級住宅に住んだのです。
 かつて福岡県八女市出身のHが若くして成功を極めた時、六本木ヒルズに住みました。その上階から都心を見下ろして、彼は「人の心は金で買える」と言った、そういう話があります。ザアカイもまたそのような人生観を、この繁栄の町エリコで得のではないでしょうか。しかしHが、人の心は金で買える、女の心も金で買える、と言った時、私たちが直感するのは、彼の根深い劣等感です。彼も貧しい時代がありました。その時Hは、人の心も女の心も得ることはなかった、そういうことになってしまうのです。無償の友情や愛を彼は得ることはなかった。彼は東京で孤独だった、そう想像しました。頭は滅法良くても足は短い、女にもてたという経験をそれまで知らなかったのではないでしょうか。それだけに巨万の富を得た時の、自分に対する女たち男たちの豹変振りに、若かった彼こそが最も驚愕したのではないでしょうか。それが本当の金持ちなら、腹の中では思っても、口が裂けても言わない、人の心も金で買える、という言葉がつい出てしまった理由ではないか、そう想像します。

 主イエスは都エルサレムに上る途中、エリコを通られました。丁度通り道だったからでしょうか。それだけではなかったような気がします。エリコは大変古いユダヤの町です。しかし今やローマに支配され、その中で奇妙な繁栄と文化を謳歌する町となりました。主はそのような歪んだ町にこそ、「失われたもの」がいると思われたのではないでしょうか。「人の子は、失われたものを捜して救うために」(ルカ19:10)、あえてエリコを通られたのではないでしょうか。そうであれば六本木ヒルズの立つ、2016年の東京を、主イエスは今朝もまた進んでおられるのではないでしょうか。人の心は金で買えると言うもの、言わなくても腹の中で思っているもの、その御前から失われたものを捜し出すために。その主の予想通り福音書は、「そこにザアカイという人がいた。」(19:2)と書いたのです。

 エリコは交通の要所として税関所が置かれていました。ザアカイの職・徴税人とはローマからの関税徴収を請け負うユダヤ人の委託業者のことです。つまり徴税人が集める税金は自分たちの国、ユダヤのためには使われません。全部、母国を力尽くで支配しているローマ帝国に貢がれるだけでした。t徴税人は通行人を騙して私腹を肥やすことが出来ました。彼らは暴力団のように忌み嫌われていたのです。まともなユダヤ人は売国奴同然の彼らの家に入って食卓を囲むこともありません。本来、ローマの権力者に向けられるはずの怒りは、いつの間にか徴税人に転嫁された。この分断工作こそ帝国のユダヤ支配の知恵でした。

 ではどうしてザアカイは、これ程嫌われる職に就いたのでしょうか。かつて私が教会学校礼拝のために作った物語をお聞き下さい。

 それはザアカイが未だ子どもの頃の話になる。ザアカイ君は背が低かった(19:3)。「ちびのザアカイ、ちびのザアカイ」と虐められた。それがトラウマとなって、青年になっても、いつも人から見下ろされているような気がした。好きな女の子が出来ました。でも自分がその子より小さいと思うと近付くことも出来ない。それですねた。そしたら益々友だちがいなくなった。皆が俺のことを馬鹿にしている。それなら何とかして見返してやりたい。しかし運動も苦手です。兵隊に志願したら体躯不十分と不合格になった。そしてとうとう見付けた仕事が徴税人でした。お金を幾ら取るか徴税人の思い一つでした。嫌いな奴には高い税金を課した。未払いにはローマ兵を呼んで脅した。やがて皆、徴税人ザアカイを怖がるようになりました。金がおもしろいようにたまる。面と向かってはもう誰も「ちびのザアカイ」と言わなくなりました。それどころか、卑屈にお辞儀をするようになった。ユダヤ人の友だちはいなくても、ローマ人の友だちは大勢出来た。彼らと一緒に毎晩ローマ風遊興所に出入りしては、金を湯水のように使った時、まさに友情も女の心も金で買える、そう思ったのです。彼は高くなりたかった。背伸びに背伸びを重ねて、「徴税人の頭」(19:2)になった。いつも人より下にあったザアカイの頭、しかしその頭がついに上に出たのです。しかし、ローマ高官たちを接待しネオン街を梯子し、真夜中ハイヤーまで呼んでやり、彼らと別れた。そうやって独りになると、目眩がする程深い疲労が彼を襲う。彼は街路灯につかまり、濁った目でエリコを浸す闇をじっと見詰めるのです。

 アルコール依存者リハビリセンター・AAの機関誌にこうありました。「いまから数年前、ゴミ溜めのような部屋で、僕はベランダに向かって一人で『東京砂漠』を歌っていました。ああ、あなたがいれば、ああ、あなたがいれば、陽はまた昇る、この東京砂漠と、…気付くと、疲れ果てて気を失うまで、歌っていました。」
 ザアカイもまた「エリコ砂漠」を歌っていたのではないか。有償の愛は、一時その渇きを癒すだけで酔いが覚めれば、もっと激しい渇きを彼にもたらせる悪魔の発明です。あのサマリアの井戸端の女が、6人の男を代えても、直ぐまた渇いたように。(ヨハネ福音書4:13~18)

 そんな時「イエス様がエリコに来られる」との噂を聞きました。ザアカイは何故かその人を一目でも見たかった。その人は罪人を差別しないで優しくして下さったと、誰かが言っていた。その時ザアカイの心の中に、ずっと忘れていた、光のようなものが射し込んだ気がしました。それで、街道に出たのですが、もうイエス様を迎える群衆が溢れている。ザアカイは後ろからでも何とかイエス様を見ようと飛び上がったりしましたが、見えない。人をかきわけて前に出ようとしました。ところがこの時とばかりに、人々は壁のようにスクラムを組み、ザアカイを前に出させない。その時、ザアカイはこれまで通りのことをした。彼は打たれ強かった。子どもの頃から虐めには慣れていた。それを頑張りと才覚で弾き飛ばしてきた。ここでも同じやり方をした。彼は先回りをしいちじく桑の木に登りました。先見の明によって、人生に勝つことが出来る。高く上れば、見えなかった世界が開ける。
 イエス様はそのザアカイに気付かれた。いえ、実は気付いたのではありません。「捜し」(19:10)出したのです。主は上を指差したに違いない、そして命じた言葉こそこれです!

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」(19:5)

 これまで背伸びに背伸びを重ねる人生でした。そうしなければ、人の心は買えない、そうしなければ、生き馬の目を抜く大都市エリコでは生きられない、そう思ってきた。しかしイエス様の見上げる眼差しは、失われたものを発見した喜びに溢れていた。瞳はエリコの太陽を反射して、きらきら輝き、ザアカイの暗い目を見詰める。そして主は名を呼んで下さった。その瞬間、ザアカイは自分の心にも始めて陽が昇ったような気がした。「ザアカイ」と呼ぶその御声には、これまでの人生で名を呼ばれる度に感じてきた、蔑みも、慇懃無礼もなかった。その呼び声には友情が溢れていた。

 ザアカイ、その名は、親が付けてくれた名です。しかし彼はその名が嫌いでした。しかしイエス様が「ザアカイ」と呼んで下さった時、生まれて始めて、彼は自分の名が美しいと感じた。その意味はユダヤの言葉で「純」です。「ザアカイ、急いで降りて来なさい」、それは「ザアカイ、もう高く上がらなくていいんだよ、背が低くてもいいではないか、その純粋のザアカイのままで、あなたは人の心を得ることが出来る。私の心をあなたは得る。神の子の愛をあなたは得る、ただで」、そう言われているのです。金で買えないものこそ、私たちを本当に生かす宝です。主イエスはその無償の愛を、失われたものに与えるために、今十字架の立つエルサレムに向かって進んでおられるのです。

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23~24)

 この恵みによって、ザアカイの心には永久に渇かない水が流れ込んできたのです。その命の水で潤わされた彼の魂に、もはや金は何の魅力もなかった。「ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」(19:8)、ザアカイは名の通り「純」な人として甦った。これまで誰も訪ねて来なかった孤独の家に、ただで「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)と言ってくれる友が得られたからです。無償で「今日、救いがこの家を訪れた」(19:9)からです。

 『キリスト教名画の楽しみ方 イエスの生涯』(高久眞一著)の中に「マタイの召命」と題される作品が紹介されています。マタイとはザアカイと同じ徴税人でしたが12使徒の一人となり、後に「マタイ福音書」を書いたと言われる弟子です。この舞台はカファルナウムです。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9)、16世紀を生きた作者カルヴァッジョは、この場面を自らの想像力を駆使して描き直しています。その収税所は暗い、しかし主イエスが入ってこられた右端の方向から強い光が射し込んでいます。その対極にマタイは座わり、一人「うつむいて」金を数えている。「わたしに従いなさい」との主の突然の召命に戸惑い、聞こえなかった振りをしているのかもしれません。その姿には主の招きに対する頑なな拒絶の姿勢があります。ところがそれでいて何故か、やがてマタイは顔を挙げ、立ち上がり、光の側に進み出る、その希望が感じられるのです。どうしてでしょうか。高久先生によると、主イエスがマタイを指差している。その指の動きは、ミケランジェロの描くあの『アダムの創造』(システィナ礼拝堂天上画)の神の指とそっくりなのです。カルヴァッジョは明らかにそれを意識してこの場面を描いたのだ。つまりこれは「マタイの創造」に他ならない。マタイはパウロの言葉をここで思い出しているのではないか。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(コリント二5:17)

 かくして今、徴税人は生まれ変わる。キリストの指差す、その「指」には再創造の力がある。だから私たちは「うつむき」続ける必要はない。この指にあって、顔は挙がる、新しくなるのです。
 徴税人マタイ同様の新しい創造にザアカイも与った。さらにエリコで向けられた主の指は、次に私たちに向けられる。この東京砂漠で「うつむく」私たちに向けられる。かくしてこの歌がついに現実のこととなる。

 「あなたがいれば ああ うつむかないで 歩いて行ける この東京砂漠… あなたがいれば ああ あなたがいれば 陽はまた昇る この東京砂漠」

祈りましょう。 主なる神様、物と飽食に溺れる東京で、だからこそ益々渇きを増す東京砂漠で、21世紀のザアカイたちが彷徨っています。主よ、どうかそのような私たちを憐れんで下さい。御手を伸べ新しく造り直して下さり、誰に対しても、陽をまた昇ると、弛まず伝道する西片町教会とならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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