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2016年4月3日 主日朝礼拝説教 「放蕩息子の物語Ⅰ 弟の罪」

2016年4月3日 主日朝礼拝説教 「放蕩息子の物語Ⅰ 弟の罪」

説教者 山本裕司 牧師

ルカによる福音書15:11~24

イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。」(ルカ15:11~12)

 ルカ福音書に記される「放蕩息子の物語」、それは私たち人類が持つ多くの物語の原型、「原物語」と言いうる物語です。息子は小さかった頃は、父を慕っていたに違いありません。ところが成長した時、父の存在が煩わしくなる。もう自分は一人前だと、もはや「雇い人の一人」のように支配されるのでなく、自分の思いのまま生きたい、そう欲しました。青年の心は自由への憧れのためはち切れそうです。そして独立を願い出る。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(ルカ15:12a)と。
 父はここで何も言わない。弟の言うままに、財産を分けてあげるのです。父はこの息子の弱さをよく知っていたと思います。自分に与えられた自由を、未だコントロールする力は備わっていません。息子は、欲望の歯止めであった「父」なき異国で、自由の乱用という罪を犯し大失敗をする、その可能性があるということをよく承知しています。それでいて、父は黙って送り出します。どんなに不安であったことか。しかし父は、強い自制心をもって沈黙を守ります。「父親は財産を…分けてやった。」(15:12b)、そのような父の気持ちを何も知らないまま、青二才の息子は莫大な金を懐に意気揚々と旅立ちます。

 言うまでもなく、この父と子の物語は、父なる神と私たち人間の関係を譬えています。この物語を先ほど、人類の「原物語」と指摘しましたが、さらに遡れば、放蕩息子の譬えを生み出すことになる「原々物語」と言ってもよい物語があったことに気づくのではないでしょうか。それは創世記3章に記される、最初の人間、アダムとエバの堕落の物語です。この創世記3章に至ると不思議なことに、神は創世記の舞台から一時消えてしまう。そしてエデンの園の中央に禁断の木の実が風に揺らめいている。そして誘惑者・蛇がエバに食べることを促す。この時も神は沈黙しているのです。それは神が、人間がどうなろうと知ったことではないから、黙っていたのではありません。禁断の実に魅せられていくエバの姿を、どれほどはらはらしてご覧になっておられたかと思う。この時、すかさず出て行って止めることなど何でもなかったのに、神はじっと影に隠れます。どうしてでしょうか。それは神が人間の自由を重んじて下さるからです。人間をロボットのように御自分に従わせることを、神はお求めになりません。その人間の自由のシンボルこそ実は「禁断の木」なのです。

 統一協会(現・世界平和統一家庭連合)など、破壊的カルトはマインド・コントロールを使って人を「ロボット化」します。マインド・コントロールとは、様々な心理的テクニックを用いて、人が自由な選択を出来なくすることです。そうであれば、カルトの描くエデンの園には「禁断の木」は生えていません。人間が組織に逆らう自由を、カルトはマインド・コントロールによって奪います。また同様に、もしカルトが経典に「放蕩息子の物語」を描いたとしたら、そこでは、父は決して息子を家から旅立たせることはないでしょう。カルトの描く父親はこの場面でおそらく多弁を駆使して、息子から自発性を奪い、自分の所から一歩も出られないように縛り付けるはずです。「可愛い子には旅をさせろ」と言われます。それこそルカ福音書が描く父の心だと確信します。本当にその子を愛しているなら、親は子に自由を与えるのです。危険を承知で、禁断の木の生える場に出て行くことを許すのです。「選ぶ自由」を与えるのです。何故なら、それなしに人間は尊厳をもった大人に成長することが出来ないからです。しかしそれは危険を伴う自由です。その自由を用いて、父なる神は私たち人間が正しい選択をすることを願っています。しかし人はその御期待に背く。聖書は事実、人間はその自由を用いて、最悪の選択をした!と書くのです。
 弟は、異邦の都で放蕩に身を持ち崩し、エバは禁断の木の実を食べエデンを失う。それは父なる神を棄てたと同義です。その結果として、人間は滅びる寸前まで行く。
 人が大人になるとは、何と厳しいことでしょうか。そして父が父となることも何と厳しいことでしょうか。父は生きるか死ぬかの危機の中に、子を行かせなくてはならないのです。父が子を真実に愛するなら、尊厳をもった一人の人間として扱うなら、父は子を「自由の大海」に出さなくてはならないのです。

 この譬えの父の財産とは、私たちにとって、福音書の言葉で言えば「タラントン」です。その意味は、神から与えられている「賜物」のことです。それは献金感謝祈祷にあるように、時間、能力、体、財産など一切です。しかしそれを息子は全て無駄に使い果たしてしまいました。そうやって無一文になった瞬間から、都は冷たい異郷でしかなくなる。金の切れ目が縁の切れ目、これが神なき異邦の国の実態です。爾来、息子はそこで見知らぬ誰かに頼り、支配される外、生きるすべを失います。
 春、田舎から出てきて寂しくて仕方がない青年が、東京の孤独に苦しむ、そこでカルトに身を寄せるように。「それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。」(ルカ15:15)とあります。そうやって、彼は自由どころか再び主人を持つ。そしてこの主人とは、故郷の父とは全く異なる「ブラック」な存在です。「豚を飼う」とは、日本での養豚とは意味が異なります。ユダヤ人にとって豚は汚れそのものであり、手を触れることも出来ないのです。つまり彼は自由どころか、故郷にいれば決してするはずもない「最も汚れた仕事」に手を染めねばならなくなる。それは、カルトに入信したために、数年前ならあり得ない、詐欺的霊感商法やサリン散布を犯さねばならなくなる青年の姿と重なるのです。
 自由を求め、最も不自由となる経験をした時、彼は「我に返った」(15:17)と記されている。塚本虎二は「正気に戻った」とここを訳しました。そして塚本先生は「だいたい人間というのは、何事も自分の思い通りになる、得意絶頂の時は、大抵は頭がおかしくなっている」そう書いています。そして「どん底まで落ちて石垣に頭をぶつけた時、人は目を覚ますものだ」と続ける。いえ一方、どん底まで落ちて破滅する、自殺してしまう者も多いと思います。実際、カルトに行ったために、気がおかしくなり、自殺した青年は余りにも多い。この時、事実、放蕩息子は自殺の誘惑を受けていたのではないでしょうか。しかし息子は、何故か、それを思い止まることが出来たのです。ここが大切です。それは、ずっと忘れていた父の記憶、故郷の記憶、それが甦ってきて、そこに自分の救いがあるということを思い出すのです。

 何故、幼い時から教会学校に行かなければならないのか。何故私たちは今礼拝を毎週守らねばならないのか。それはそのような人生の危機の時、思い出すためです。何を思い出すのか。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(15:17)、今朝もここに、おそらく余ってしまうであろう、パンが供えられています。私たちもまた、父のもと、つまり教会を去り、やがて霊的に飢え死にしそうになった時、この聖餐卓の上に「有り余る」パンがあるのを思い出すのではないでしょうか。だから息子は恥を忍んで故郷に向かう。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」(15:18~19)、罪を犯した自分だが、こう言えば父に迎えてもらえるかもしれない、何度も何度も唱えるのです。長い帰路です。ついに暗記してしまったかもしれない。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

 その頃、父は今日も一日、地平線を見つめていました。いつも異邦人の都の方向を凝視している。そして地平線の上に小さなけし粒のような影が見える。その瞬間父は、「走り寄って」(15:20)、とはっきり書いてある。塚本虎二は、父の目は遠視だと、望遠鏡のようだと言う。もう父の目は遠くしか見えない、案の定、自由の賜物を生かせず、遠く離れてしまった息子です。しかし父は、遠くにいる息子だけにピントを合わせてしまった。神の眼差しとはそういうものだと言うのです。その異常な視力によって、なお遠く離れた息子を発見した時、父は走った。そして息子の首に抱きついて接吻した時、息子は、帰路、暗記した言葉を言い始める。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。…」(15:21)、しかし、父は最後まで言わせません。「雇い人の一人にしてください」と、そこは言わせない、さえぎるようにして、「違う!、君は息子だ」と、「君は雇い人ではなく、自由な人間なのだ。」と暗に言ったのです。そして父は、「いちばん良い服」、「指輪」、「履物」(15:22)で彼の裸を覆う。注解者はこれが全て「子のしるし」と書いてある。こういう父であることを、息子は旅に出る前は何も知らなかったのです。そして私たちもこうして教会に来ていながら、この父なる神の巨大な愛を、どこまで知っているでしょうか。

 最後に、では帰ってきた息子はもう一歩も旅することはなくなるのでしょうか。ただ故郷で生涯働くだけなのでしょうか。そうではなく、息子はやはり、もう一度、故郷を離れ旅に出る、その冒険に出る時が来るのではないでしょうか。それは自らに与えられた自由を、勝手気ままに用いるのではなくて、自由を制御しながら、あの使徒パウロのように、神と隣人に仕えるために異国へと進む旅、神の国建設の旅なのではないでしょうか。
 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)
 神の子イエスもまた、この物語の息子のように旅立ったということを私たちは知っています。そして天の故郷から遠く離れた異郷、まさに「ブラック」なこの世に来られました。しかしその「遠い国」で御子がしたことは、放蕩息子の逆です。御子は父の御心の実現のために、しかし自発的に、人を救う歩みをなしていかれるのです。自分の喜びのために旅をされたのではありません。離反の旅でもありません。逆です。父を愛し、父に仕えるために、あえて故郷を去って、使命を果たすのです。父なる神が私たちを新しい世界への冒険に送り出される時、期待されているのは、その御子の旅に近い旅でありましょう。この放蕩息子の譬えは、私たちに勇気をもって新しい世界に出て行くことを求めているのです。しかしどんなに遠くに旅立とうとも、父の遠視のごとき眼差しは注がれている。それを知る平安の中で、異郷の孤独に耐え、悪魔と罪と死と、子は戦う。そこでかつての放蕩息子は、ついに自立的大人、本当の人間、真の神の子に成長する。私たちもまたその信仰的大人になるための成長途上にあるのです。
 
 祈りましょう。 父なる神様、教会から遠く離れ、飢え渇く時、どうかこの主の食卓の上に、有り余るパンがあることを思い出させて下さい。

(この後、皆で「あるがままわれを」(讃美歌21-433)を歓喜の中で歌いつつ、聖餐にあずかった)


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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