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2016年4月24日 主日朝礼拝説教 「イエスを笑う」

2016年4月24日 主日朝礼拝説教 「イエスを笑う」

説教者 山本裕司 牧師

創世記18:9~15

ルカによる福音書16:13~18

「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」(ルカ16:16)

 ルカによる福音書16章には、金に対する主イエスの御言葉が集められています。今朝の御言葉の直前に、「金に仕えた管理人の譬え」(16:1~12)があり、直後に「金持ちとラザロの物語」(16:19~31)が置かれています。今朝、私たちはこの両者・富にまつわる両翼の物語に挟まれ、いわば扇の要となる「金に執着する」(16:14)との言葉に差し掛かりました。誰が執着したのでしょうか。それは、ファリサイ派の人々と書かれてあります。この指摘は不思議な感じを受けます。ファリサイ派は律法を遵守する極めて真面目な教派でした。そうであるなら、ファリサイ派は最も金に執着しない人たちなのではないかと思うのですが、福音書は、そうではない、逆だと言う。主はそれを見抜いたと言うのです。
 この直前に何度も繰り返される「富」、その原文は「マンモン」です。元の意味は「信頼出来る」と辞書にありました。人が生きる時に頼るもの、それは多くの場合、金です。金さえあれば枕を高くして眠れる、そう思いますが、しかし本当はそうでもない。どんなに金があっても、夜眠れない人は多い。しかしそれでいて、富ほど頼りなるものはないと私たちは錯覚しているのです。そういう私たち人間の気持ちが「マンモニズム」という言葉を生みました。「拝金主義」です。金がとうとう神となり、救い主となって、拝まれるほどになったと言うのです。

 主イエスは言われました。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(16:13b)、これは聖書を貫く偶像礼拝の禁止と深く結び付く言葉です。人は神か、富か、どちらかの僕となる生き方しかない、中途半端はない、そう言われたのです。直前の主の譬え「不正な管理人」こそ、一貫した揺るぎなき富の偶像崇拝者なのです。そういう話を主がされた直後、この一部始終を聞いて、ファリサイ派の人々が、イエスをあざ笑いました(16:14)。律法遵守のファリサイ派です。彼らこそ、「神と富とに仕えることはできない」(16:13b)と説教してきたのではないでしょうか。しかし、それをイエスが言った時、思わず「あざ笑った」のです。実際は人に分からない程度のことであったかもしれません。しかし主はその失笑を聞き漏らしません。金を愛するのではく、「神と隣人を愛す」、それが律法です。主イエスは「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」(16:17)と、ここではっきり言われました。律法遵守の正しさを、ファリサイ派は「見せびらか」(16:15)しながら、心の中ではベロを出している、それを主は霊的視力を開いてじっと見ておられる。
 もう一つが、愛さねばならない隣人の代表である妻との関係です。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。」(16:18a)、これはファリサイ派が合法的としていた離婚に対する御批判です。これはこの時代の男たちの身勝手さを背景とした主の批判だと注解されます。もとより妻の方から離婚を求めることは許されない、男尊女卑の差別的社会での話です。注解書には、あるラビ(ユダヤ教教師)は、女の容姿が美しくないことも、男が妻を追い出す理由として合法化した、とありました。主イエスは、そのような男の御都合主義の律法解釈を否定します。男が易々と離婚し、勝手気儘に再婚する、それは姦通の罪だとはっきり言われた。ファリサイ派もまた男たちです。彼らが律法を本当に守るというのなら、唯一の神を愛するのと同様、唯一の妻を愛し抜くことが求められている、と主は言われるのです。妻を男の持ち物くらいに思っていたファリサイ派は、この時も失笑したかもしれません。

 私たちも、腹の中で笑うことがある。礼拝中でもそういうことは起こるのではないでしょうか。それこそ金の話であるならば、献金感謝祈祷がこの後献げられます。「一切はあなた御自身のもの、御手から受けて御前にお返しします」と祈られます。その祈りを聞きながら、顔には出しません。しかし心の中で笑う、そういうことがあるのではないか。恐ろしいことです。牧師が、富ではなく神をこそ信頼しなさい、そう説教する。でもその神はどこにおられるのですか、おられるにしても遠い「天」におられるのではないですか。私たちは「地」にいる。霞を食って生きることは出来ない。「地」では目に見える金がどれ程頼りになるのか。「地」では、相手が嫌になれば、さっさと取り替えた方がどれだけ楽しいか、それを説教者よ、お前も知らないわけがない。それなのに、ここではそんな生活を知らないかのように、神と隣人を第一にしろと垂れる。そう、大笑いはしなかったでしょう。誰も気づかなかったかもしれない。いえ、自分でさえも、この深層心理に潜む、いわば「本音」としての「あざ笑い」(16:14)に気づかない、そして礼拝を今朝も無事に終えるかもしれない。しかし主イエスは見抜くのです。「いや、あなたは確かに笑った」と。

 旧約のアブラハム物語を思い出します。アブラハムも妻サラも老人であった。そこに3人の御使いが現れて、来年の今頃あなたに男の子が生まれる、と約束した。その時、サラはひそかに笑いました。神はサラに言われた。「なぜサラは笑ったのか。私に不可能なことがあろうか。」サラは恐ろしくなって弁解した。「わたしは笑いませんでした。」しかし神は断ずる。「いや、あなたは確かに笑った。」(創世記18:15)、人間が神の言葉を笑う。今この時も、人のあげる失笑の中で、主が不可能と言われた、神と富とに同時に仕える礼拝となってしまう。繰り返し申します。恐ろしいことです。しかし、私たちの心の奥底に隠されている、礼拝の中でさえ、いえ、礼拝の中でこそ、皮肉の笑みを浮かべる暗い部分が。主は言われました。「神はあなたたちの心をご存じである。」(ルカ16:15)

 金を巡る思惑から私たちは不自由です。金はなるべく出したくない。一方けちだと言われることも恐れます。そのために返って気前よく払ったりする。人の目を気にする。ファリサイ派も1/10献金を重んじました。しかし、主は、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかす」(16:15)と洞察される。教会でも心からの神への献げ物でなく、人がどう思うだろうかと、そのことを気にして献金するようなことも起こる。献げる時も、献げない時も、多く献げる時も、少なく献げる時も、主のご覧になられるところ、本当には神に献げたことになっていない。富を巡る複雑怪奇な思惑の中で教会会計が回っていく。そうであれば、私たちもまたいつの間にか、金という第2の神、人の目という第3の神に支配され、操られているのです。

 いったいどうしたら、この罪から救われるのでしょうか。この呻きのような私たちに問いに、主はこう応えて下さいます。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」(16:16)
 もはや古い時代は終わり、神の国の福音、その新時代が始まったと言われます。その意味を、「天地の消え失せる方が易しい」(16:17)という主の言葉から連想して、例えば、もし天体が地球に大接近したとしたらと想像しました。その時私たちの生き方は、大転換を迫られることでしょう。そこで私たちは初めて、金が自分を救わないことを骨身に徹して知る。そして、最後に自分を支えてくれると思われる、ただ一人の妻を愛してこなかったことを深く後悔するに違いない。
 ある男は、この地上の命が終わろうとする今、思い出すのは、隣人への罪だと、言われました。隣人だけでない、子どもの頃は動物にひどいことをした。あの時の動物の哀しそうな目が思い出される。学校では友だちを虐めた、大人になれば女に対してどれ程冷たい仕打ちをしたか、あの時も女は、あの子どもの頃見た動物の目をしていた。やがて夫婦の生活の中で起こる修羅場、その時の子どもの泣き声、何もかも、自分中心に生きたせいだ。神も隣人も一筋に愛さなかったせいだ。死ぬ前になって、自分は神と隣人にもひれ伏して謝りたいと、言いました。しかし私はその話を聞きながら、この人は救われた、今この人の真の人生が始まる、そう確信しました。

 「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(コリント二7:10)

 私たちの死が迫る、あるいは巨大な天体が接近してくる時、私たちはついに潜在意識下から、変わるのではないでしょうか。今、惑星以上の「神の国の福音の大接近」が始まったと主は言われているのです。それは破滅ではなく救いの到来です。「神の国」(16:16)とは、神の支配を意味します。「福音」(16:16)とは、喜びのおとずれです。金に支配されてきた自分が、そこから解き放たれ、神の支配と喜びのただ中に突入して行く。その「神の国の福音」の中に「だれもが力ずくで入ろうとしている」(「雪崩を打って押し寄せて来ている」山浦玄嗣訳 16:16)、しかしそれは、自分の信仰の強さによって入るのでもありません。惑星が接近したとしたら、人は自分に何の力がなくても、まさに「雪崩を打つ」ように、その巨大重力に引きつけられ、宙に浮くかもしれない。天体以上のキリストの引力、その力ずくとも言える、激しい愛の吸引力によって、私たちは神の国に引き上げられてしまう。そういう十字架による罪の赦しと、復活による新しい命の時代が、あなたがたの「地」に、今「天」から到来しているではないかと、主は喜びの声を挙げておられるのです。
 この巨大福音引力によって、私たちの歌、「いま富とか名誉ならばいらないけど、翼がほしい…」(「翼をください」より)、この祈り心が叶う時が来る。キリストの凄まじい、上から臨む救済の力が、一方的な恩寵として、今働き始める。そこで私たちは初めて、「地」を支配する富と名誉の重力から解き放たれ、「悲しみのない自由な空へ、翼はためかせ」ることが出来る。私たちの罪に勝る、主の十字架と復活の「天」から来る圧倒的力によって、私たち死ぬべき罪人が復活する。それを本当に知った時、私たちは変わる。もはや「金に執着」(16:14)しません。もっと大切なことがある、それは神の国だということ、もっと大きな喜びがある、それは福音だということ、そこに執着する。私たちもまた、今、その神の支配の中に、「翼をひろげ」、引き上げられようとしている。そこで私たちは、あざ笑いでなく、真に笑い始める。約束通り子イサクが生まれた時、サラが歓喜の中で言ったように。

 「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」(創世記21:6)

祈りましょう。 主なる神様、あなたは、私たちの「失笑」の罪に勝る、神の国の引力によって、私たちを真の「笑い」(イサク)へと招いて下さった、その恵みに心から感謝します。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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