2016年4月10日 主日朝礼拝説教 「放蕩息子の物語Ⅱ 兄の罪」
説教者 山本裕司 牧師
創世記3:1~7
ルカによる福音書15:25~32
「…ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」(ルカ15:30 )
今日も引き続き、ルカ福音書15章に記される「放蕩息子の物語」を読みます。今「放蕩息子の物語」と言いました。しかし、この譬えは、ルカ15:24で放蕩息子が帰郷し祝宴が始まった、そこで終わっていると思うのではないでしょうか。そして本日の25節からは、弟である放蕩息子の話ではなく、今度は兄の話、「模範生の物語」が始まると言い直した方が正確だと思われるかもしれません。しかしここを読む多くの人が指摘しています。そのように弟と兄を対極的存在として、つまり一人は落第生一人は模範生と二分することが出来るのかと問うのです。新共同訳聖書もまた小見出しを付ける時、その兄の話も含んで、「放蕩息子」のたとえ、としました。そこでも暗示されるのは、この主イエスのお作りになられたのは、2人の放蕩息子の物語だということです。どちらも父(神)の心を理解しない不肖の息子(人間)なのだ、そう言うのです。
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。…善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10~12)
確かに兄は模範生です。「兄の方は畑にいた」(ルカ15:25)とあるように、今日も畑で汗水流して働き、ようやく一日の労働を終えて帰って来たところです。兄自身が主張します。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。」(15:29a)、勤勉実直に父に仕えてきました。小さい頃からそうだったのでしょう。直ぐ遠い所へ行ってしまう弟とは違います。このイエス様のお作りになられた物語こそ、ジェームズ・ディーンが弟を演じた「エデンの東」に代表されるような、真面目な兄と反抗的な弟との葛藤の物語、その「原物語」です。シナリオライター野島伸司のドラマ「未成年」にも、この構造は受け継がれました。それらのドラマで共通するのは、弟の弱さ罪にはどこか同情的だということです。自分は駄目だと知っている弟と対照的に、あくまで模範生を気取る兄の嫌らしき罪が、そこから浮かび上がります。その原物語、この主の譬えにおいてこそ兄の罪は度し難い、そう描かれていると思います。
弟の歓待を知って怒り、家にも入ろうとしない兄、その彼を宥めるために出てきた父に対して、兄が言った言葉はこうです。「わたしは何年もお父さんに仕えています。」(ルカ15:29a)、この「~仕えています」、これは愛をもって仕える、という意味の言葉が避けられていると注解は指摘します。同じ「仕える」でも、ここは「奴隷として仕える」という言葉が用いられている、と。つまりこの時、兄が思わず父に言い放ったのは、(これが口からほとばしり出て、自分でも驚いたかもしれない)、「よくも俺を、長年、お前の奴隷としたな!」という意味でした。
父はどう思ったでしょうか。冷水を浴びせかけられたのではないでしょうか。それとも、既にその兄の心に感づいていて、ついに本心を明らかにしたのかと思ったのでしょうか。兄は、その表面的な実直さとは裏腹に、父のために喜んで働いてきたのではない。むしろその潜在意識下では、父を殺してでも、自分が家の主となりたいという欲望(自己神格化)を抱いていたのです。しかし弟のようには正直になれません。自分でも気づいていませんが、心の深層では、さっさと父のもとを去って自由になった弟が羨ましくて仕方がない。その屈折した思いが、ここで激しい怒りの言葉の噴出となったのです。
「ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(15:30)と。これは実は興味深いのです。それはここに「娼婦」という言葉があるからです。いったい兄はどこからこの遊蕩の情報を得たのでしょうか。この弟の帰郷を報告した僕は、そのことについて何も報告していません(15:27)。「放蕩」と言ってもいろいろです。弟は町で酒とギャンブルしかしなかったのかもしれません。何故誰も言ってもいない、娼婦の話が兄の口から突然出たのでしょうか。宮田光雄先生はここで思いがけず「深層心理学的解釈」を用います。兄がそう言ったのは、弟が遠い国に行ったら必ず娼婦と遊蕩にふけるはずだと、確信をもったからだと言われる。どうしてそんな確信をもったのか。それはそこにこそ、兄が自分でも知らない内に、最も激しく求めていた無意識的願望があったからです。父さえ死んでくれればそれが出来る。それは明らかに「性的欲望」でありました。
そして私はここを読む度に、フランスの作家、ジュリアン・グリーンの作品『モイラ』を思い出すのです。主人公は一人の神学生、牧師になることを願っている青年ジョゼフです。彼は厳格なピューリタンでした。何に対しても真面目でしたが、特に著しかったのが、性に対してです。彼は極めて禁欲的であり、女性を退けて生活しています。それでいて自分でも理解していないのですが、心の深みで誰よりも強く女に憧れている。そのようなジョゼフの前にモイラという美しい少女が現れます。彼女はこの赤毛の生真面目は青年に興味をもち、少女らしい残酷さをもって笑い者にする。ところが実は、モイラは自分と異質なこの男に恋心を抱いている。しかしそれを表現出来ないままです。ある夜、友人と約束した遊び半分の挑発ごっこのため、彼女はジョゼフの下宿にやって来る。そして彼をからかいますが、どうしても挑発に乗ってこない。それで手持ち無沙汰のまま友人へ手紙を書きました。そして帰ろうとする。彼に借りていたドアの鍵を返します。その時ジョゼフの手に伝わってきます。その鍵に残る彼女の体温が。その時、彼は自分の髪をまさぐるモイラの指を感じる。その瞬間、ジョゼフは叫ぶのです。「どうして僕に触ったのだ!」と。
そしてさらに私は、彼の発したこの言葉を読む度に「創世記」に記されるエバの堕落の物語を思い出さざるを得ません。禁断の木の実を指して誘惑する蛇に対して、エバは言います。「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(創世記3:3)、しかし、実は神様の禁止命令は「食べてはならない」(2:17)ということだけだったのです。神は「触れてはならない」とは少しも言っておられないのです。そこまで神は厳しくないのです。ということは、禁断の木の実とは、食べてはいけないけれども、触れることは許されていたのです。そこでは人は自由であり、おおらかに解放されているのです。創世記2:16でも、神様は「園のすべての木から取って食べなさい」と先ず言っておられる。そうであれば、このエデンの園における神の言葉を「禁止命令」と取るのは誤解です。そうではなく、これは先ず人間に大いなる「許可」を与える神の祝福の宣言です。父なる神はそれほど厳格ではない。神は人間を愛し、大いなる自由を元々与えて下さっておられる。私たち人間は、禁断の木の実を食べること以外は、全て許されていたのです。触れる自由すら。つまり私たち人間は、決して神の奴隷としてではなく、神の子として創造されたのです。
ではどうしてエバは、「触れる」ことも出来ないと、自分で神の命令を厳しくしてしまったのでしょうか。ジョゼフもどうして、少女が自分の髪に「触れる」ことも恐れるほど禁欲的になったのでしょうか。それは宮田先生によると、逆説的ですが、彼らは無意識下で禁断の木の実を食べてしまいたいという激しい欲望をもっていたからです。その欲望を恐れ抑圧している。それで「触れてもいけない」と神の戒めを自分自身の中で拡大解釈しました。しかしそれは、自分がその禁断の戒めを、いつ踏み越えてしまうか分からない、その不安から生じた心理状態なのです。度外れた禁欲とは、実は最も恐ろしい罪、つまり禁断の木の実を食べる寸前の人間の病的な精神状態のことなのです。
「どうして僕に触った!」と叫んだ時、ジョゼフは抑えに抑えてきたモイラへの憧れと肉欲を爆発させてしまう。朝を迎えた時、ジョゼフは自分を堕落させたモイラに対する激しい憎悪の発作を起こす。毛布を覆い被せて窒息死させてしまうのです。彼はその冬の一日、夢遊病者のように大学周辺をさまよう。モイラが彼の下宿で書いた友人セリナへの手紙を胸に。その最後にはこう書いてある。「あたしはもう駄目、セリナ。恋をしたのはあたしの方なの…」そういう物語であります。
何と言うことかと思う。自分に恋をしてくれた美しい少女を犯し殺す。愛し合い、受け入れ合うことが出来るはずの掛け替えのない隣人を、自分の義のために裁き、窒息させる。私は時に真面目な宗教者が、同性愛者などセクシャルマイノリティーを受け入れようとしない、その姿がジョゼフや兄と重なってくるのです。彼らは自分の潜在意識の内に隠されている同性愛的な思いを恐れ、糾弾しているのではないかと。
また、この兄のイメージは、これまで主が戦い続けてこられた、ファリサイ派、律法学者のあり方です。彼らの神とは、掟を守り義に生きた模範生だけに褒美を取らせる神です。兄が激怒したのは、父が、義なる自分には未だ「子山羊一匹すらくれない」(ルカ15:29)のに、何も良いことをしなかった罪人の弟には、「肥えた子牛を」与えたと知った時です。それでは律法主義の公式は崩れてしまうのです。ところが父は、そんな人間の決めた掟などおかまいなく、何の功績もない弟に、ただ一方的な恵みとして救いを与えられる。兄にとって、それでは自分のこれまでの努力は何だったのかということになってしまうのです。父が裁かないのなら、自分が裁く他はない。その心こそ、弟が、どんなに遠い国で身を持ち崩しても、決して犯すことはなかった、隣人を窒息させる、最悪の罪を犯させるのです。それこそが、主が問い続けているファリサイ派の罪・偽善でした。
しかしその兄のためにも、父は家を出て来る(15:28)。その兄の手を取って祝宴に招くために。その姿を多くの人は、これは弟が帰って来た時、走り寄る父の姿(15:20)と同じだと気付きました。弟より実はもっと恐ろしい罪を犯している兄を、恵みの中にもう一度招こうとする姿が描かれています。父なる神とは、そういう、何としても罪人を腕に抱こうとする憐れみのお方なのだよ、と御子は語って下さるのです。
ジュリアン・グリーンの「モイラ」に戻ると、殺人を犯した後早朝、モイラの体をジョゼフは林の中に埋める。それは雪の場面です。「頭上の、木々の梢の間から、数限りない雪片が彼の方に舞い落ちて来た。彼は考えた『もしこのまま雪が降り続くなら、僕は助かる。』」。「このまま雪が降り続くなら、僕は助かる」、それは単に雪がモイラの死体を隠してくれるという意味だけではありません。雪は、神の恩寵を意味している、と解説者は書いています。地上の汚れを何もかも覆い隠し、純白にする雪。それは人々の涙、罪を犯さざるを得ない人間の苦しみ、黒い染みの一切を浄めるイエス・キリストの憐れみを象徴するのです。
模範生こそが犯す大きな罪を、雪が覆うように、神の愛と赦しが覆い隠してくれる。そしてやはり、こんな自分をも父は、「子よ」(15:31)と呼んで下さる。その神の愛を知る時が来た時、兄も「死んでいたのに、生き返る」(15:32)のです。そして弟と共に「音楽」(15:25)の中に招き入れられる。模範生も劣等生もなく、兄も弟もなく、等しく主の十字架によって赦された歓喜の中で歌う賛美の礼拝音楽に包まれるのです。
祈りましょう。 父なる神様、自分の力で義をうち立てようとして、返ってもっと深い穴の中に落ち込んでいく私たちの罪と汚れを、雪のような恵みによって覆って下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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