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2016年2月7日 主日朝礼拝説教 「戸口は狭いのですか、広いのですか」

2016年2月7日 主日朝礼拝説教 「戸口は狭いのですか、広いのですか」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 13:22~30

「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」(ルカ13:29)


 今年はオリンピック・イヤーです。日頃敵対的な国々もリオデジャネイロに選手を送り、互いに手を結び合うようにして入場するという感動的な場面を、全世界の人は目の当たりにすることでしょう。実際リオ五輪には、かつて激しい民族紛争があった旧ユーゴのコソボが初参加するそうです。上記の御言葉はその五輪の情景を思い起こす時、あるイメージが湧いてくるかもしれません。いえ、それは言い方が逆であったと言わなくてはなりません。主イエスがここで思い描いているのは、散らされていた、そして時に争っていた全世界の人々に召集がかかる。すると彼らは吸い寄せられるように神の国の宴席を目指して集合し、一つになってしまう。肩を抱き合って平和の挨拶を交わす。その主のイメージ・神の国の交わりに、五輪の方がかろうじて似ている、と言い直すべきだと思います。
 事実、昨夕の新聞にありましたが、国連は今期五輪の間も、武力紛争の自粛を求める休戦決議を、加盟193カ国の総意をもって採択しました。しかし1994年以来、常にこの決議がなされたにも関わらず、2008年の北京では、開会式と同時に戦争(南オセチア紛争・ロシアとジョージア)が始まるなど、この平和決議は無視されてきました。やはり、福音書に示される、主イエスが作り出そうとされる神の国と、五輪を並べることは出来ないと改めて思いました。まして連日報道される4年後の東京五輪です。これに関わる巨額な金の問題、その疑惑、商業主義と国力の誇示、それと連動する福島の忘却を思えば、東京五輪の掲げる平和と絆など最初から幻想でしかないことは明らかです。
 「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」、むしろこの御言葉に適うのは、神の国の宴会の先取りとして、本日、私たちが与かる交わりの食卓・聖餐であります。朝の聖餐は、会衆が恵みの座の前に進み出ますが、この伝統はプロテスタントにおいて、聖公会や私たちの旧教派・メソジストに受け継がれてきました。この振る舞いこそ、終わりの日に、全人類が、東西南北から一つの平和の場を目指して集合する、その壮大な巡礼をイメージしていると思います。

 ところが、そこでふと考え込んでしまうのは、その究極の大集合の話が、この有名な主の御言葉から始まっている点です。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(13:24)、これは「救われる人は少ないのでしょうか」(13:23)とのある人の問いにお答え下さった言葉です。「そうだ、少ない」と主イエスは暗示しているようにも取れます。神の国の宴席に着くためには、狭い戸口から入らねばならない、しかし入れない人が多い。そのうちに戸が完全に閉められ、外から主人に、「開けて下さい」と叫んだところ、「お前たちがどこの者か知らない」(13:25b)との答えが返ってくる。この「お前たちがどこの者か知らない」とは、元々ユダヤ教からの破門宣告の用語だそうです。
 では主は全体で何がおっしゃりたいのでしょうか。一方では、おびただしい人々が、おそらく広い戸口から入ってくる、大宴会の幻が語られる(13:29)。つまり救われる者の多さが言われる。「東西南北」との言葉でそれが強調されています。ところが、一方、その救いに至る戸口は狭い(13:24)と、それは少数なのかと思わせることを言われる。いったいどっちなのですか、多いのですか、少ないのですか、戸口は広いのですか、狭いのですか、そう改めて問わざるを得ないような今朝の御言葉です。

 閉じられた狭き戸口の前に集まった人々は驚いて言いました。自分は、あなたと一緒に、食べたり飲んだりしたではないですか、広場であなたの教えを受けたではないですか(13:26)と。私たちの礼拝と同じです。聖餐を受け、説教を聞いてきた。「それなのに何故」との「泣きわめいて歯ぎしりする」(13:28)、嘆きが戸口前に響く。それは、自分はその生涯の中で、これだけのことをしてきた、正しい礼拝生活もしてきた、だから救われて当然、との思いから出てきた抗議だったに違いありません。自分の力、自分の行い、さらに言えば自分の血筋をパスポートに、救いの戸口を通る。そう思った時、主イエスは、そうではない、と断じられたのです。

 先に主イエスは「町や村を巡って教えながら」(13:22)とありますが、それは具体的にはガリラヤからエルサレムに向かうユダヤ内での旅です。ですから、主と一緒に食事をし、広場で教えを受けた人(13:26)とは、同胞ユダヤの民をイメージしての御言葉だと思います。彼らは全世界の誰も救われなくても、自分たちだけは救われると確信していました。三大太祖・アブラハム、イサク、ヤコブ(13:28)を持つユダヤ、イスラエルの血統を誇っていた。しかしそれもまた、神の国に入るのに役に立たないと言われているのです。神の国の宴会の戸口はあなたの前に狭い。どうしてでしょうか。自分はイスラエルだと、自分は礼拝と律法を遵守する義人だと、血筋も良いと誇る者は、主イエスの十字架の贖罪が不必要となるからではないでしょうか。それは主との食卓・聖餐を、その人生において、実は少しも必要としなかったということと同義です。聖餐は十字架の恩寵そのものです。
 「イエスは…エルサレムへ向かって進んでおられた。」(13:22)、エルサレムの丘に主の十字架は立つのです。そこに向かって主は進まれると、ルカは先ず書いて、今朝の主題に読者を導くのです。そこでの意図は明らかだと思います。自分を罪人と認め、やがて主が至るエルサレムの十字架に、ひたすらおすがりすること、悔い改め、十字架による罪の贖いを求めること、この十字架の主に対する信仰なしに、救いの戸口はいつまでたっても狭い。自らを正しいとする中で、私たちは罪を犯すのです。十字架はいらないと暗に言うのです。自分の大きさを誇り、小さき人を蔑む、自分の正しさの中で隣人を裁く。その驕り高ぶりによって「肥大化」した体に、神の国の戸口は狭い、そう主は言われるのです。

 千利休(せんのりきゅう)の作った茶室において、客は「にじり口」と呼ばれる小さな戸から入ります。この利休の茶の湯は、キリシタンのミサ・聖餐に源流を持つと推測されています。一つの茶碗の同じ飲み口から、同じ茶を飲む「濃茶(こいちゃ)」の作法もまた、ミサからヒントを得たのではないかと、解説にはありました。当時のミサは、主の血潮を現す葡萄酒を一つの杯で回し飲みしたそうです。そうであれば、利休は「狭い戸口より入れ」との御言葉をも、茶の湯において実践しようとしたのではないでしょうか。自分は元々、この主の食卓に相応しい存在ではないと、身を小さくしている罪人こそ、思い掛けないことに、するりとその中に招かれるのです。
 注解者は、東西南北から川のように神の宴会に流れ込んでくる者たち(13:29)とは、異邦人のことだろうと書いています。元々神なき民であった。そのために罪と死の恐れの虜であった者たちが、使徒によって、十字架の福音を知らされます。ここに誰もが招かれる、正しくなくても招かれる、そう聞いて喜び勇んで馳せ参じて来る。誰もが救われる、皆救われる。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(13:23)との質問に対して、主イエスはここで「そうだ少ない」と、はっきり答えられなかった事実を、逆に強調する注解もありました。実は、この問いへの主の最終的な答えは、「少ない」ではない。逆だと、救われる者は「多い」、「万人」と言って良い程「本当は多い!」、なのだと。

 宮田光雄先生は「万人救済説」という神学を論じています。万人救済とは、主イエスの十字架の救いが及ばない人は一人もいない、との大らかな恩寵のことです。神の国に至る戸口は広い。誰もが入って良いと論じられます。よく教会は敷居が高いと言う人がいます。やっと入ってきてもなかなか洗礼を受けません。先週罪を犯したので、前に出て聖餐に与かるのを躊躇する人もいるそうです。しかしそうじゃない。本当に広い、誰でもここに来ることが出来る。この万人救済説を唱えた内村鑑三はこう書きました。「自分は罪人のかしらであるから、ただ神の恩恵によってのみ救われる者である。そしてもし神の恩恵によるならば、救われ得ない罪人はどこにあるのか。」、自分のような救い難い者が救われる、それ程キリストの恵みは強いのだから、もはや救われない者は一人もいないはずだ、そう言いました。そこで教会に敷居なんて無い、と言っているのです。
 しかしそうは言っても「信仰」は求められる。そこではどうしても狭くなる。どうしてかと言うと、信仰がないとは、繰り返せば、自分は十字架なしで生きていける、自分の正しさでやっていけるとの思いだからです。主が同胞ユダヤの人々に、おそらく深い痛みを持って、破門の言葉「お前たちがどこの者か知らない」(13:27)と引用された、その問題意識、それは主が戦い続けられた、ユダヤの律法主義の問題です。自分は律法を守っていると、偉大な太祖を持つユダヤ人であると、だからあの徴税人や罪人、それから東西南北に散らばる異邦人などとは食卓を共にしないと、そのように自分を巨人化した時、神の国の祝宴、そのにじり口で詰まってしまうではないか、それでは一つの茶碗の回し飲みは出来ないではないか、驕り高ぶる根性では、五輪がそうであるように、平和と一致の祝宴には決してならない、そう主イエスは言わる。
 教会の戸口もまた、そのような広さと、狭さを同時に持つ。それは矛盾ではありません。福音の両方の面を言い表しているのです。大きな者には狭く、小さき者には広い。主がそう私たちの教会の戸も、にじり口同様に作れと命じられているのです。

祈りましょう。 主なる神様、小さき者の席である主の食卓を、今朝もご用意下さった恵みに感謝します。未だこの前に来る決心がつかない求道者に、どうかあなたが聖霊をもって、招きの御声をおかけ下さい。むしろ先の人である私たちこそが、義人の罪に陥り、この食卓に相応しくない、後の人になる(13:30)ことを恐れます。主よ、赦された罪人同士として、今、この平和の食卓の前に皆で集まる私たちとならせて下さい。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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