2016年10月8日(土) 第20回日韓合同修養会開会礼拝説教「生と死、祝福と呪い、それを今、選択せよ」
説教者 山本裕司 牧師
申命記30:15~20 ヨハネによる福音書12:25
「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。…もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。」(申命記30:15~18a)
今、共に聞きました申命記30:15以下は、2年前の合同修養会の主題聖句でした。ここで主はイスラエルに、「生か死か、祝福か呪いか、それを今、選択せよ」と厳かに命じられました。今、私は、改めてこの御命令を聞き、主は再びこれをもって、本日、「生か核か、祝福か原発か、それを今、選択せよ」と迫ってこられていると感じます。この主の「迫り」に誠実に応える信仰的決断に日韓両教会が至ることこそ、今・合同修養会開催の目的なのではないでしょうか。
私たちは、時に、電気が余っているから原発はいらないと言います。確かに3・11以後、日本において、原発停止を原因とする停電は殆ど起こりませでした。しかしその言い方には疑問があります。それなら電気が不足すれば、原発はやはり必要であると言うことになるかもしれません。申命記が求めることは、そのような曖昧な選択ではありません。キルケゴール的な「あれか、これか」です。「生命か核か、平和か原発か」、その二者択一を私たちは3・11以来、神から突き付けられているのではないでしょうか。
私の耳には、その5年半前より、福島第一原発の建つ大熊町の一人の男の声が耳鳴りのように響いています。その日、大熊町にも大津波が襲い、男の妻と小学生の娘、そしてお父上が行方不明となりました。彼は家族の救助に向かいました。ところが故郷・大熊町は放射能汚染のために立ち入り禁止となり捜索が出来ない。いたずらに時間が過ぎていきます。その時彼は絞り出すように言いました。「電気もいらない。原発もいらない。家族がいれば後は何もいらない」と。彼はここで「原発はいらない」とだけ言ったのではありません。先ず「電気もいらない」と言ったのです。このラジカリズム(急進主義)、この感覚がお分かりになるでしょうか。原発だけではありません、電気もまた、彼の愛する3人の家族の「生命、平和」に代わる値打ちはいささかもなかったのです。唯一の神に由来する「生命、平和」こそ私たち人間の究極的価値であり、その前に、電気もまた空しい、まして原発は死と呪い以外の何物でもありません。
むろんこのラジカリズムに対して、いくらでも反論が出来ます。そう言う本人が明かりを照らして遺体の捜索をしているではないか。病院の生命維持装置は電気で作動しているではないか。教会オルガンの鞴(ふいご)も電気で空気を送っているではないのか。しかし、そのように挙げ募り、電力を全能、至上の宝であるかのように褒め称えるならば、それもまた申命記が「滅びる」と断言した「他の神々にひれ伏し仕える」(30:17)、偶像崇拝の一種とすらなると感じます。この「電気神格化」こそ、大規模発電を一気に成し遂げる原発を欲する心理を容認してきたのではないでしょうか。*1「たかが電気」のために、何故、大袈裟な核分裂反応が必要となるのでしょうか。私たちはこのように電気エネルギーを相対化する時、不合理極まりない原発に依存しない精神を始めて獲得出来るのではないでしょうか。
*1 エジソンが炭素フィラメント電灯を発明したのは1878年、僅か138年前だ。それまでの「10万年」、人間は電気なしで人生を充分エンジョイしてきた。日本の原子力発電は1963年、東海村で始まった。それから僅か53年の内に多量の放射性廃棄物を生み出した。中でも高レベル廃棄物の放射能が安全なレベルに下がるのは、最終的に「10万年」を要する。自分たちの世代だけが莫大な電気を使い、今後「10万年間」子孫にその管理を押しつけると言うのだ。後生の人は、我々の世代を「狂気と究極の無責任時代」と呼ぶであろう。
あるいは私は、3・11以前、原発は大事故が起こるから反対だと発言してきました。しかし今、それもまた、申命記や大熊町の男が共通に持つ「ラジカリズム」とは異なる、不徹底な批判であったと悔い改めざるを得ません。原発は事故の有無と無関係に、人権を踏みにじる差別的技術です。核技術はウラン採掘から始まります。その時必然的にウラン掘削労働者は被曝せずにはおれません。あるいは採掘場に放置された「ボタ山」などが周辺を著しく汚染します。*2さらに原爆や核燃料作成時、核爆発や発電、使用済核燃料の処分や再処理によって、放射能を環境に放出します。従って原発の維持管理は、危険覚悟の底辺労働者や過疎に苦しむ周辺住民の被曝なしに成り立ちません。*3それは戦争同様に「格差社会」を利用した、人間の「生命、平和」を犯して成り立つ負の技術です。
今、「格差」と言いました。安倍首相が唱える「積極的平和主義」とは、軍事力行使によって不都合な他を排除してもたらされる、支配国の平和、あるいは一階級のみの安全のことです。しかしそれは真の「平和」ではありません。犬養道子は「平和」とは「ユニティ」(unity・相互性)のことであると指摘し、特に南北分裂のことを取り上げます。北が南を収奪することは、北がどれ程豊かになっても、それは決して平和ではありません。北にとってさえ、平和に見えるのは一時であって、南が破壊された後、北も少し遅れて破局へ向かわざるを得ない。一つの地球の上で「生命」は、バラバラに生きることは出来ない。生きるためには「ユニティ」が回復されねばならない。隣人の幸いが我が幸いとならねばならないと強調されます。*4格差を作り出し、自分たちだけが繁栄しようとするあり方は、決して平和ではなく、それはユニティの喪失であるために、全体の滅びへと向かうだけです。国内でも国際的に見ても、貧困、格差が固定化された閉塞感から、戦争待望論が生まれています。フランス国籍のイスラム教徒の青年は、宗教を理由に就職を拒否されるなどの差別を受けました。そのことで絶望しIS(イスラム国)に入ったと言われます。確かに貧困、格差、差別は一時、支配者にとって都合良く働きます。そのお陰で原発や戦争という、格差を前提にしない限り成り立たないビジネスに、人を動員することが可能となります。しかしそれはやがて被差別者の破壊衝動に火を付け、富裕層も含めた世界を全て燃やし尽くしてしまうに違いありません。*5
*2 映画『イエロー・ケーキ クリーンなエネルギーという嘘』参照
*3 堀江邦夫著『原発ジプシー 被曝下請け労働者の記録』増補改訂版、参照。 また「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」役員・秦佐子はこう言う。「原発設置によって伊方などの地元から電力会社などへの雇用が生まれ、出稼ぎ労働がなくなって良かったとの意見もある。しかし地元採用者の多くは被曝の可能性が高い現場に回される。実際、地元採用社員が電力会社の重役に出世したという話は一度も聞いたことがない。そして電力会社幹部は被曝から最も遠い都会の重役室にいる。」
*4 犬養道子『人間の大地』348頁「一つの小世界がある。熱帯の森、その無数の樹木のてっぺんに小鳥が巣をつくり、少し下がった枝には大きな鳥、その下にはサル、次に蛇、その下は野獣、木の根本にはキノコや灌木、草。学者が、上から順番に、これらの動物を、取り去ってみる実験をする。そして森の状態を数年に渡り調べる。たださえずっているだけに思えた小鳥を取り去っても、遊んでいるサルを取り去っても、たちまち森は違ってきた。ひこばえは出なくなり木々は弱ってしまった。野獣が踏みしだくことによって、木々やキノコが生きられるということも分かった。すなわち、大も小も鳥も動物もみな互いに互いを支え合って、ユニティ(一つの有機体的結合)である森を作っていた。全体のために役にたっていないものはそこにはなかったのだ。」
*5 同上9頁「飢餓こそは戦争をつくり出す最有効の手段である P・ソロキン」
今夏、四国・伊方原発が再稼働されました。*6その反対運動に身命を賭してこられた斉間淳子*7さんと秦佐子さんの話を私は現地・伊方で聞く機会を得ました。彼女たちは、原発が存在することによって日常的に被曝していると訴えます。市川定夫先生の「ムラサキツユクサ研究」によれば、原発から数十㎞離れていても、ムラサキツユクサの花の変色が平常時の原発運転と連動することが証明されています。*8このような低線量被曝の恐怖から、現地の人は「蝋燭で暮らしても良いから」廃炉にして欲しいと願っています。子どもたちの「生命」まで犠牲にするなら、「たかが電気」など不必要なのだ、と。避難訓練をしなければならない発電方法もいらない。地球温暖化の原因とされる炭素排出量が増えると懸念するなら、節電に努めれば良いだけだ。そう2人の女性は、電気と生命とを天秤に掛けることは出来ないと教えて下さいました。
さらにお2人は、自分たちの会社を本当に愛するなら、自分たちの作った危険物を一刻も早く廃棄することこそが真の「会社愛」であると主張されます。組織の「生命」もまたそれによって守られることでしょう。危険を目先の不利益を理由に放置したら、四国電力も東京電力同様に「死に体」となる。教会も同じだと斉間さんは主張します。
「反原発運動を始めた当時、私は日本基督教団八幡浜教会の教会員でしたので、著名用紙やポスターを教会に持ち込みました。しかし教会の反応は複雑でした。伊方も含む愛媛県の西南の地方、そこに四国教区南予分区はありますが、とても貧しい地域です。15教会、伝道所の内、自立している教会は数箇所ほどです。他は全て四国教区の互助を受けています。その中で付属の幼稚園を持っている教会は数えるほどしかありません。八幡浜教会付属幼稚園は、その地域では大きな幼稚園です。そして通う子どもたちの中には四国電力社員の子どもが多かったのです。教会役員には四電八幡浜支店所長もいました。そのような中で、教会が反対運動に加担することは、教会員との軋轢を生みます。現地はこうした電力会社との繋がりや人間関係でがんじがらめです。…南予の教会の牧師たちは『原発問題にかかわらない』という取り決めをしていることを知らされました。私は矛盾を感じ、キリスト者としての生き方に不信を募らせました。しかし小さな教会が地域で存続するためには仕方のない選択なのかもしれないと思わざるを得ませんでした。四国電力の社員が教会から去ることはどうしても避けなければならないのです。ここでも経済が優先されるのです。」*9
*6 (旧)伊方町は細長い半島である佐田岬半島の付け根部分に位置していた。大部分が海岸から30度の急斜地にあり、水資源も乏しい地域である。一般に低収入で出稼ぎが多く、住民サービスも未整備な状況であり、過疎化が急速に進行した。そこで1969年に町長らが四電に原発誘致の陳情を行った。当時、住民の反対運動で原発立地を確保できなかった四電は、これを受けて1973年より伊方原発の建設を開始した。かくして原発は最も弱い地域に建設される。
*7 「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」代表、2015年度多田謡子反権力人権賞受賞者。斉間の反原発運動は、1981年、伊方原発隣の瀬戸内海側の瀬戸町と三机湾に、大量に死んだ魚が浮いていたことに始まる。斉間はその光景を生涯忘れることはないと言う。その白い腹を出して浮かぶ大量の魚と、南予の子どもたちの姿が重なり戦慄を覚えたのだ。
*8 通常、ムラサキツユクサのオシベは優性遺伝子である青色をしているが、「放射線」によって突然変異を起こすと、劣性遺伝子のピンクに変わる。
*9 新教コイノニア26『原発とキリスト教 私たちはこう考える』61頁
私はかつてこの南予分区の大洲教会牧師でした。私自身は当時から伊方原発問題に関心を持っていましたが、斉間さんと共に運動したことはありませんでした。それを今、本当に申し訳なく思い先日お会いした時謝罪をしました。しかし南予の牧師たちの気持ちも分かります。四電関係者の前で原発を批判すれば、牧師は教会にいられなくなるかもしれません。あるいは地域に「アカの教会」などと悪評が立つ、信徒が去る、献金が集まらない、原発賛成者は教会にいられなくなるではないかと、そういう議論になります。しかしそのような逆風の中であっても、申命記に戻るならば、教会は何を選択するべきかということです。経済なのか、生命なのか。教勢なのか、平和なのか。それこそが原発論争の核心部分なのではないでしょうか。何も犠牲にしないで済む「あれも、これも」という中に、信仰的決断も献身も存在しません。「原発マネー」と呼ばれるように、原発によって一時的に巨万の富が動いて、それで潤う地元市町村や企業があります。原発を稼働しなければ、火力発電による化石燃料輸入が増え「国富」が消えるとまことしやかに言う人もいます。*10しかし福一原発事故による「国富」*11の流失や、破綻している核燃料サイクルによる「国費」*12の乱用はどう説明するのでしょうか。事実上国有化されなければ、東電は既に倒産していたはずです。誰が東電を滅ぼしたのでしょうか。それは表面的に東電を愛した人によってではないでしょうか。真に東電を愛した人は原発に反対したために東電を追われたのではないでしょうか。今、日本で再び「愛国心」が強調される時代がやってきました。*13しかしその「愛国」によって、71年前、日本は滅亡寸前まで行ったのです。教会も同じなのではないでしょうか。申命記に従って「生命、平和」を選び取ることをせず、経済と人数の力を追い求めても、やがて東電同様に倒れてしまうのではないでしょうか。主イエスはこう言われました。
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ福音書12:25 )
*10 事実は節電の定着や太陽光など自然エネルギー(最高出力は2016年8月時点で約800万kw、原発7~8基分相当)の普及によって、火力発電による電力供給は2010年度と比較してもそれ程増えてはいない。2016年5月18日に発電が開始された西片町教会太陽光発電による8月の発電量は、480kwあり、僅かだが化石燃料消費削減に貢献した。
*11 立命館大学の大島堅一教授の試算によると、福一事故関連で2015年度末までに掛かった費用は13兆3000億円 (内、国民負担が約11兆円)。内訳は、企業や避難者に対する賠償金・6兆2000億円、福島原発周辺の除染費用・3兆5000億円、廃炉費用・2兆2000億円。
*12 廃炉予定の高速増殖炉「もんじゅ」(停止中でもナトリウムを熱するために、月々の電気代だけで1億円以上必要の時もある)、稼働していない六カ所村再処理工場など核燃料サイクルにも、既に12兆円以上が費やされた。(「東京新聞」2016年9月22日朝刊より)
*13 第1次安倍政権による「改正教育基本法」(2006年12月)の成立によって「我が国を愛する」という目標が書き込まれた。
教会は、神の救済史という長いスパンで事柄を捕らえることが求められています。今、ここ数年とか十年とかいう単位で考えるのではありません。預言者的視野を持ち、百年、千年の単位で、今、この「死、分裂」の時代の中にあって、私たちが神から何を託されているかを聴く必要があります。そこで聴き従った御言葉の故に、教勢が半減しても、教会財政が逼迫しても良いのです。それは神の永遠を見詰める眼差しから見たら、本当に小さなことに過ぎません。私たちは何を失っても、「生命、平和」を選び取り、教会を真に愛する者たちの日韓両教会の歴史を刻んでいきたい、そのように願います。
祈りましょう。 主なる神様、自らの手で自らの首を絞め、また他の生命と平和を脅かす私たち人間の限りなき高慢の罪を、どうか憐れみの内に覚えて下さい。この修養会を通して、あなたが与えて下さった真の価値「生命、平和」を第一の宣教の課題とする私たちとなることが出来ますように、聖霊を注いで下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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