2016年1月3日 主日朝礼拝説教 「神は貴方を新年の宴に招く」
説教者 山本 裕司 牧師
ルカによる福音書 12:35~48
「神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。」(詩編 14:1a)
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(ルカによる福音書 12:35~36)
恩師佐藤敏夫教授が「来世への憧憬」という文章を書いておられるのを、今朝のルカ福音書を読む内に思い出しました。そこで先生は、ご自分の子ども時代の思い出を語っておられます。「昔、お婆さんたちが後生について話し合っているのを聞いたことがある。お寺の会合に出た後、心臓麻痺で死んだお婆さんについて、そういう事情で死んだから後生はきっと良いに違いない、というような話だった。あるいは後生は良い仕事につけるようにと、和尚さんに頼んでおいた、そういうお婆さんの話も聞いたことがある。」
この話の前提は素朴な輪廻思想ですが、お婆さんたちが、死後の世界と来世の存在に対する揺るがぬ確信をもっていることが分かります。ところが佐藤先生は、このお婆さんとは異なり、私たちの世代は来世を喪失しているのではないかと指摘します。そして、来世を持っている場合と、来世を持たない場合とは、その人の生き方に大きな違いが出るだろうと言われます。それは、来世を信じることが出来れば、現世がどんなに苦しみに満ちていても、将来に希望を託すことが出来るからです。逆に現世が人も羨むほど恵まれていても、来世においては裁かれるかもしれないので、ただ浮かれているわけにはいかない、という生き方のセンスが生み出されてきます。来世を喪失すると、そのような彼岸の希望と恐れを同時に失うことになるのです。
来世喪失とは、この世界に存在するのは現世だけということです。そうなると、現世が惨めなら、その人の全てが惨めであったということになる。地上の生涯が恵まれていれば、その人の全てが恵まれていたということになる。その思想は、どういう精神状態を私たちにもたらすかと言うと、現世的な幸福・成功のなりふり構わぬ追求に繋がる、そう佐藤先生は分析します。後は無いのですから、今、幸福であらねば取り返しがつかないのです。今、楽しまなければ、二度と楽しめないのです。今、成功しなければ、やり直しはきかない。それだけに、その楽しみや成功の追求は、まことに貪欲になる。少々、罪作りなことをしたって、かなり自分勝手であっても、楽しみと生き甲斐追求を人生訓とする。とにかく長くても80年前後で、全て決着が付いてしまうのですから。
そのような、考えに対して、断固として、違うと、私たちに語りかけてくるのが、時宜に適って、今朝、2016年最初の新年礼拝の時に巡ってきた、ルカ福音書12:35以下の御言葉です。これは「主人」が家に帰って来るという譬えをもって、私たちに「来世」のことを語ろうとしているのです。よく死ぬことを「お迎えが来る」と表現しますが、まさに私たちの主人であるイエス・キリストが再び来て下さる時、私たちは、来世へと迎えられるのです。
主が再び来て下さる来世、その一つの理解は「終末」の時です。世界が一度に終わりを迎える。そして再臨のキリストがこの世の善悪を裁きます。その上で、キリストが直接統治する神の国が到来し、万物が新たになり(ヨハネ黙示録21:5)、私たちは「究極的新年」を迎えるのです。もう一つは、私たちが順番に死んでいく、その死後、キリストの前に一人一人が直接立つ時を迎える、そして私たちの全生涯がキリストの前に明らかにされる、その時のことを言うのです。宇宙的な終末、個々人の終末、どちらも、それは私たちにとっての来世、あの世への入り口です。その向こう側の存在を信じる時、実は、あの世の問題ではなく、むしろ、今、この現世で、私たちがどう生きるかが定まってきます。やがて自分がキリストの前に立つ、その来世の「準備の時」としての現世、という理解が生まれてくる。従って逆説的ですが、来世を持つ者こそ、現世を真剣に生きる、神と隣人に誠実にあろうとする生涯がそこに生まれてくるのであります。
その真剣さについて主イエスは弟子たちに言われました。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(ルカ12:35~36)、「腰に帯を締める」とは、いざという時、ぱっと動けるように服装を整えておくことです。「ともし火をともす」とは、真夜中であっても、足音が近づいて来たら、直ぐ、主人を迎えることが出来るように、光を用意しておく。そういう緊張感をもった現世の生き方をするようにと、主は命じられているのです。
主イエスはこの譬えにおいて、主人が留守の理由を、「婚宴」(12:36)に行っていたことにしました。何故でしょうか。当時の婚宴の時間は大変長かったそうです。「真夜中」とか「夜明け」(12:38)とありますが、いつ主人が帰ってくるか分からないのです。これは、まさに私たちキリスト者の置かれた状況を示しているのではないでしょうか。原始教会の予想に反して、キリストの再臨は直ぐに起こりませんでした。ついに教会は2016年間待ち続けたことになりましたが、それでも、いつ再臨があるのか誰にも分かりません。それと似て、私たちがいつ神に召されるか、それもここにおられる誰一人として分かりません。明日かもしれない、50年後かもしれない。しかし確かなことは、Xデーは必ず来る、不意打ちとして、という一事であります。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」、「その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。」(12:46)、「思いがけない時」と繰り返されます。目を覚まして待つ夜は長い。私たちの信仰生活もそうなのではないでしょうか。洗礼を受けた当時ははりきっている。礼拝生活も熱心です。しかしその後、これと言って劇的なことは何も起こらない、地味な信仰生活が、何年、何十年と続く。その内、真面目に礼拝を守ることに飽きてくるのです。この譬えの中の僕の耳にも、現世主義者が夜の巷を闊歩しながら上げる哄笑が、家の中にまで響いてきたかもしれない。だんだん自分だけが、信仰という名の「ともし火」を、消さないように、消さないようにと、酒の一滴も飲まずに守り続ける忍耐がばからしく思えてくる。夜も更け、もう主人は二度と帰ってこないのではないと思うようになる。そう思うと返って急に気持ちは楽になる。もう帰還した主人に留守中の評価(審判)を受けることもないのです。主人なき自由を謳歌する。そのような来世喪失者は次に何を始めるのか、主は言われる。「その僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになる…」(12:45)と。自分が今や家の主人となる。本来、下男も女中も、主人のものなのに、僕である自分が暴力的に支配する。食べ物も飲み物も、主人の物なのに私物化し、好きなだけ食べ飲む現世の快楽に酔うのです。かくして来世を信じないと、人を人とも思わず、食糧は独り占め、というとんでもない世界が出現する。
僕(管理人)の仕事の一つは、「時間どおりに食べ物を分配させること」(12:42)です。そうやって、平和と公平が充ちる家を維持するのです。しかし無神論的現代社会においては、そうではなく、弱い者は暴力的に搾取され、飢え渇き、一握りの富裕層が食糧を独占し、病気になるほど飲食する、主の求められる「分配」と正反対の「腐敗」(詩編14:1)した社会が出現しています。そのような現世主義者が終末を迎えた時、どうなるかと言うことです。「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」(12:47)とあります。その一生が鞭を持った再臨主から裁かれるのです。では、その鞭の裁きの恐怖から免れたいので、私たちキリスト者は、堪え忍ぶのでしょうか。つまり地獄の閻魔大王の如き裁き主の「最後の審判」が恐いから、信仰を守り通すよう命じられているのでしょうか。そのような消極的意味だけではありません。
主人がついに帰ってきた時の全く別のイメージを、主イエスはこう語られました。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(12:37)、やっと主人が帰ってきた。帯をさらに強く締め、ともし火を掲げ、食べ物を用意しようとする。それが僕の仕事です。そうやって働こうとする私たちの手を、何故かその時主は取って言われる。もうその帯を緩めなさいと、今度は私が帯を締めようと、あなたの方が食卓に着きなさい、私があなたを持てなしたい、と。これこそが私たちの来世です!
確かに人生は重荷を負って喘ぎながら進む他はないところがある。神に忠実に生きようとすれば、それは決して気楽な人生にはなりません。私たちは主から特別に目をかけて頂き、多くの恵みを頂きました。だからこそ、主は今朝の譬えの最後で言われました。「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(12:48)と。
この無神論的日本社会において、主日礼拝遵守一つとっても、信仰のことは戦いなしに勝ち取れるものはありません。西片町教会の一年間の活動を守るために、どれ程多くの奉仕と献身を集めることが必要であるか。あるいは、病を得たり、年老いたりと、心と肉体の激しい痛みに耐える日々が来るかもしれません。しかしその病床の戦いの中にあっても、信仰の眼差しを開き続けるのが、忠実な僕の晩年です。やがて終わりが来る。しかし今朝の御言葉は一貫して、その時来るのは「死」とは言われない。お迎えに来るのは「主」です。そして、主は、あなたは本当に良く生きたね、私と教会と隣人に奉仕して生きてくれたね。教会に来る力を失っても、信仰のともし火を守り通したね。良い忠実な僕よ、良くやった、ご苦労さま、そう声をかけて下さるのであります。
病気の痛みに耐え続けたある姉妹が死んだ時、それまでは本当に辛そうにしていたのに、一転して安らいだお顔になりました。「気持ちよく眠っているよう」と家族が言います。それは長く「目を覚ましている」(12:37)、戦いの日々が終わったからではないでしょうか。その平安は、主イエスが帰って来て下さり、彼女を抱き締めて、「もう楽にしていいんだよ」と労り、天の国に導いて下さったからではないでしょうか。この来世の喜びを黙示録のヨハネは言いました。「 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(21:4)
先に、何故、主イエスは、主人不在の理由を、婚宴に行ったことにしたのだろうかと問いました。そのもう一つの理由は、婚宴こそ、喜びの場だと言うことです。主イエスはその天の宴の喜びを携えて帰って来られるというイメージが、この譬えから感じられてきます。僕の前には婚宴の祝いのご馳走が広げられたのかも知れません。天の宴の喜びが、その主の帰還と共に寂しかった家に充満するのです。僕はこの天の宴の喜びに与るために、「目を覚まして」待つのです。その終末の喜びが来る、それを思うと、今、この世の苦しみに耐えることが出来るようになる。天の多くの聖徒たちと共に囲む食卓は、この世の独り占めの飲食(12:45)とは比べものにならない、喜びを与えてくれるものです。だから恐怖のために忍耐するのではありません。歓喜のためにです。この世の喜びは、実は、どんなに追求しても、最後には空しいと言う他はないのではないでしょうか。それが、虚無に「鞭打たれる」(ルカ12:47)、裁きのことなのではないでしょうか。そのような儚い喜びではなく、天の喜びであります。それが来る。主が帰ってきて下さる時、その喜びを天からお土産として持って来て下さる。そのことを知っているから、私たちは、今、目を覚まして、奉仕と忍耐に生きることが出来る。
勿論、教会の主人が、今完全に不在だとは単純に言えません。主は常に教会と共にいます。教会は、主人のいない家のような、隙間風の吹き込むような、空虚感を持っていてはならないでしょう。けれども、教会は再臨の主を迎える時、最も生き生きとするのです。しかし、その時まで、私たちはただ空虚に生きるのではありません。やはり充実して生きることが出来るのです。そのために主は、その再臨のキリストによってもたらされる天の宴の先取りとして、この現世のただ中に聖餐を用意して下さいました。天の喜びが、ここに既に盛られているのです。この月毎の喜びが与えられているから、私たちは、この世の飲食や快楽に魂を奪われてしまうことはないのです。
今から西片町教会に属する者たちが、2016年最初の聖餐に共に与ろうとしています。この「聖餐」をある神学者は「前味」とか「試食」と呼びました。デパートの食料品売場に置かれている試食用の食べ物のことを思い出しても良い。確かにここにあるパンや杯の小ささが試食をイメージします。しかし、その試食をしてしまうと、どうしても、その食物を買わずにおれなくなってしまう。それがデパートの戦略です。私たちも、一度、主の食卓に与ると、その味わいに感動し、どうしても来世の天の宴に与りたくなるのです。だから待つことが出来る。目を覚まし、腰に帯びして、神と教会と隣人に仕えつつ、最後まで信仰の節操を貫くことが出来る。私たちが偉いからではない。それほど、私たちは主の食卓に魅了され、天の宴に与る日を待ち焦がれているからです。
祈りましょう。 主なる神さま、この2016年の内に、思いがけず、あなたに召されることがあったとしても、平安の内に、お迎えの御手を握り返すことが出来ますように。そのために、あなたがいつ来て下さっても良いように、その準備の時として、この2016年を用いる私たちとならせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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