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2016年1月24日 主日朝礼拝説教

2016年1月24日 主日朝礼拝説教「切り倒されたのは誰か」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 13:1~9 


「もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(ルカによる福音書13:9)


 ニュースではバス事故に関する報道が途切れることはありません。碓氷峠はなじみ深い交通路であり、身につまされた人も多かったのではないでしょうか。確かにバス業界の安全管理上の問題があり、誰でもこのような災難に見舞われないとも限りません。しかし全国で夥しいバスが走っていることを思えば、被害者家族や友人は、何で、あの子は、「ちょうどそのとき」、あのバスに乗り合わせたのかと、天を仰いで問うたのではないでしょうか。人は昔からこういう時、これは何かの報い、裁きではないのか、と思ってきました。
 今朝、私たちに与えられた福音書は「ちょうどそのとき」(ルカ13:1)との言葉から始まります。先週まで読んできた12章を思い出すと、そこで明らかに主イエスは神の裁きについて説教されました。その終わりに「裁判官」(12:58)とありますが、これは終末の日の裁判官・神の審判を人は受けるとの言葉です。そう主が語った「ちょうどそのとき」、まるで、その12章の説教を具体的化したようなニュースが飛び込んできたのです。「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」(13:1)、この事件の詳細は分かりませんが、学者の推測によると、このガリラヤ人とは反体制グループに属していた者ではないか、と言われます。このガリラヤ人にとって一番我慢出来なかったのは、ローマの支配者が自分たちの神を軽んじたことでした。油断すると直ぐローマの偶像をユダヤに持ち込もうとした。それに命懸けの抵抗をするくらい信心深い人たちですので、この日も神殿で犠牲を捧げていたのです。それは彼らにとって最も心安らぐ時であったと思います。それだけに無防備になる。その瞬間を狙い撃ちにされて、ローマの兵隊に切り殺された。そのガリラヤ人から流れる血が、今自分たちが捧げた犠牲の血に混じって神殿の石畳を流れていったという、深い印象を与える、しかし真に凄惨な場面です。
 こうやって今朝、私たちも礼拝に来ましたが、帰り道、もし誰かが交通事故に合ったとしたら、ああ礼拝なんて行かなければよかったのに、と言われるかもしれません。そしてこの厳冬の朝、礼拝を守ったあの人に何故神様はこんな仕打ちをされたのかと、口にこそ出さないかもしれない、でも心の中で思うかもしれません。そのように、昔も今も、信仰者の悲劇は、人々にある複雑な感情をもたらしてきました。
 その時、もう一つ主イエスが思い出された事件がありました。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」(13:4)、シロアムの塔が建ってからというもの、その下を何千、何万もの人たちが通行したに違いない。ところが18人だけが押し潰された。その前後にいた人たちは、びっくりしたに違いない。そして、あと十秒早かったら、自分も死んでいたはずだと、実はあの直前、道で友だちに呼び止められた、それで立ち話しをしている内に塔が崩れた。…彼は命の恩人だ、などと話し合ったに違いないのです。それだけに、では、何故18人はよりによって、「ちょうどそのとき」、真下に来るような巡り合わせとなったのだろうか、という問いは深まる。

 そこで人間が古来得てきた答えは「因果応報」です。突然殺される、突然押し潰される、どうしてあの人なのか。それは神の裁きなのだ。それだけの罪を彼らは、特別に犯していたのだ、そう判断した。その答えに対して、主イエスはそうではないと、はっきり教えて下さいました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13:2~3)、それを一度だけおっしゃったのでない。直ぐ繰り返される。「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(13:5)、どれほど主イエスがこのことを強調されたかったか分かる。それだけ因果応報の考えに、私たちが支配されているからに違いありません。皆罪人なのだ、この主イエスのお考えを、使徒パウロは継承しました。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。…善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10~11)、人は等しく罪人、だから悔い改めなしには、皆同様に裁かれる、そこに差別はない、そう聖書は言うのです。
 しかし、私たちが注意しなくてはならないのは、ここで主イエスは、因果応報を全面的に否定されたわけではないということです。確かに、罪の軽重によって、悲劇に合ったり、合わなかったりしているのではない。そうはっきり教えて下さいましたが、しかし、その後で、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:3)とおっしゃられたのですから、やはり罪を犯した者は滅びる、そういう因果律はある、そう言われました。そしてこれもまた主のお考えを継承した使徒パウロの言葉を引用すれば、こうです。「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)、罪は必ず神の裁きによって清算されなくてはならない。うやむやにならない、そう言われます。

 そう言っておいてから、主は、続いていちじくの譬えをお語りになられる。ぶどう園に一本だけいちじくの木が植えられている。ところが、ぶどう園という特別に良い土地が与えられているにもかかわらず、このいちじくは3年たっても実がならない。主人は言います。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」(13:7)、これはまさに、悔い改めの実なしには滅びると言った「因果応報」を思い出させる言葉です。ところが、園丁は主人に言います。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。」(13:8)、自分がもう一度精一杯のことをするから待って下さい。この園丁とは主イエス御自身のことだと思います。悔い改めなければ滅びる。それは本当のことです。しかし、それが分かっていながら、なお罪を犯さずにおれない私たちの弱さを、主イエスはよく知っておられます。そしてもう切り倒すのだ、と言う主人(神)に向かって、この園丁自身、つまり主イエス御自身がその前に立ち塞がるようにして、もう一度チャンスを下さいと、執り成して下さっているのです。
 園丁はその猶予期間をどう用いるかというと、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。」(13:8)と言いました。この肥やしとは何でしょうか。肥料とは生物が死んで出来るのではないでしょうか。それならこの場合の肥料とは何でしょうか。「三年」(13:7)とは、主の公生涯、伝道の歳月を思い起こさせる「数」だと気づいた人は多い。3年間主は一所懸命伝道して、人の心を耕そうとしました。しかしそこは相変わらず石地のようだった。どうしても悔い改めなかった。では因果応報だ、切り倒せと言われた時、いえ、もう一つだけ、3年後の今、やることがあります。それが、公生涯の最後に主がして下さることです。それこそ、ご自身が死んで私たちの堆肥になって下さることでした。先ほど、主イエスは因果応報を否定はしていないと言いました。ここでも主人ははっきり、悪いものは「切り倒せ」(13:7)と命じた。そして園丁自身も、どうしても駄目なら、「切り倒して下さい」(13:9)と言いました。そしてとうとうこのいちじくが実を実らすことがなかった時、何が起こったのか。

 竹森満佐一牧師は、この御言葉の説教の中で言いました。そこで切り倒されたのは、いちじくの木ではなかった。切り倒されたのは園丁であった、と。確かに13:9には、誰を切り倒すのか、新共同訳では「目的語」が、何故か書かれてありません。原文では代名詞ですので何とでも取れます。だからこの竹森牧師の解釈、それは園丁自らが、自分を「切り倒して下さい」と言った、それは少なくても文法的には許されると思います。そうやって園丁は木を守った。そういうことだと言われるのです。
 私たちの園丁である主イエスは切り倒される。そして畑に倒れた主の御体が私たち罪人の肥やしになる。そしてついに、この頑な石地の心も耕され、柔らかくされて、悔い改めることが出来る。信仰の実を実らせ始めることが可能となるのではないか、そう思います。
 因果応報はある。現代人の合理的な考えには反して、聖書はそれを否定しません。しかし、その時、「親の因果が子に報い」、そのきまり文句に似て、「私たちの因果が神の子に報い」、御子は死なれました。神の怒りは、私たちの前に立ち塞がる御子イエスに向かい、私たちからは永遠に逸れていった。もはや私たちは主の十字架以後、因果応報を恐れる必要はなくなりました。神の裁きは主が全て受けとめて下さったからです。主の贖いによって、私たち全人類にとって因果応報は、2016年前、完全に終わった。十字架こそ、不幸がある度に私たちを惑わす、因果応報思想の呪縛から解き放つものに他なりません。
 滅びとは、実は私たちにとって事故や病気で死ぬことではありません。いつまでも健康かもしれない。家族は繁栄するかもしれない。しかし、悔い改めなき魂は、主イエスが御覧になられるところ、何年生きても、実は結ばれていない。だから主は、今もなお、私たちの回りの土を耕しておられる。自らの命そのものである肥料を、その所に埋め込んでおられる。その肥料とは、私たちが礼拝で与えられる御言葉であり、聖餐と考えることが最も自然なことだと思います。そこで私たちは実りある人生を得ることが出来る。たとえ、病気になってもです。たとえ、災難に遭ってもです。それはいかに平安な生涯であることでしょう。

 祈りましょう。 主なる神さま、私たちが、突然の事故や病を恐れるよりも何よりも、悔い改めなき自らの石地の心を、恐れる者とならせて下さい。園丁たる御子によって、頑ななこの心を打ち砕いて頂き、悔い改めの実を豊かに結ぶ私たちとならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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