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2016年1月10日 主日朝礼拝説教 「火は燃えているか」

2016年1月10日 主日朝礼拝説教 「火は燃えているか」

説教者 山本 裕司 牧師

エレミヤ書1:11~13   ルカによる福音書 12:35~48


主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」(エレミヤ1:11)

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(ルカ12:49)


 先週、私たちは新年のオープンハウスを開催しました。多くの方が牧師館を訪れて下さり、楽しく平和な交わりの時を持ちました。私たちがそうやって、新年の交わりを楽しんだ次の週、今朝の主日に巡ってきたルカ福音書における主の御言葉は大変厳しいものでした。
 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12:51)
 そう主イエスは言われて、さらに具体的に、一つの家の中で家族たちが、分裂、対立していく様を語っています。その不和を主イエス御自身がもたらすのです。私たちは話しが逆だと思います。主イエスによって、分裂が一致へ、対立が和解へともたらされる、と。毎主日の聖書の主題は殆ど一致と和解です。しかし主は、あえて、と言うことでしょうか、この御言葉をもって、少々正月ぼけをしているかもしれない、私たちの緩んだ心に、火のような言葉を突き付けてこられたと思います。その熱き御心によって、私たちは襟を正される。この一年の信仰生活を私たちが霊的に健康に歩むためには、この厳しさはどうしても必要だと確信します。
 『教会生活の処方箋』の中で辻宣道牧師はこう診断されていました。「教会の中で『交わりが欲しい』という声があがったら、信号は『黄』と覚悟しなければならない。どこか病んでいる」と。元々この「交わり」とは新約聖書の言葉「コイノニア」です。使徒パウロが多く用いました。しかしパウロが用いるのは、先ず人間同士が楽しくやろう、というような話しではありません。神と人との交わりのことです。創世記において、最初の人間が自分の創造主である神と、禁断の木の実を食べることによって分裂した。しかし主イエスは十字架において、私たちを神様と和解させて下さった。そこに交わりが生まれました。
 辻先生はこういう意味のことを書きます。初代教会における交わりとは、聖餐に与り讃美をすることであった。「交わりが欲しい」という時、この初代教会が大切にした交わりが求められているのか、それとも親睦が欲しいのか、峻別しないと危険である、交わりごっこが起こる。人と親しくなろうと思ったら、共通の知人の悪口を言えば良い、愚痴や不平の憂さ晴らし、それは教会と異質の交わりだと書いてある。親睦会が好きな教会がある、何かと言えば飲み食いをする教会、とも言われます。それがないと交わりが出来ないかのように。先週、牧師館で新年の集まりを主催した私はヒヤリとしました。

 今、夕礼拝でガラテヤの信徒への手紙の連続講解をしていますが、私は必ずその準備に鈴木正久牧師の講解を読みます。その中で先生も、辻牧師と共通のことを言われます。「教会でよくもっと交わりをと言われる。しかしそれは、多くの場合、信仰の一致とそれぞれの使命を把握していない人が言う言葉だ」とはっきり書いておられる。ガラテヤの信徒への手紙2章の講解では、エルサレム教会の指導者、ヤコブ、ケファ、ヨハネと、異邦人教会を代表する、パウロとバルナバがここで、しっかり一致の握手をしている、それを先生は、真の教会の交わりと呼ぶのです。交わりとは、信仰で一致している者が、互いに神様からの使命に生きている時、自ずから生じてくるもののことである。「仲良し倶楽部」を教会で作って、教会の交わりが出来ると思ったら大間違いである。そのようなあり方は、結局、教会外で私たちが散々やってきたような、感情的な好き嫌いの仲違いが激しくなるばかりだ。パウロとヤコブ、ペトロはいつも顔を合わせて、遊んだりお喋りをしたりしていたわけではない。この手紙の2章を見れば、実に彼らは14年間全く会わなかったのだ。その前にも15日間一緒にいただけだ(1:18)。場所は違っても同様に迫害を受けながら、厳しい伝道と教会建設の戦いをしている。その末の再会の時、しっかりと右手を重ね合わせてうなずき合う真の交わりが起こっている、とあります。私たちの教会が交わりを求める時、このような聖書の中にある交わりを求めなければならないと鈴木牧師は言うのです。この鈴木牧師の信仰理解、その伝統を受け継ぐことが、西片町教会で求められている、そう思います。
 特にこのガラテヤの信徒への手紙において、使徒パウロは、本当に激しい戦いをしています。自分の建てたガラテヤ教会に、異なる福音を持ち込んだ伝道者が現れました。パウロは言葉を尽くして、あなたがたはとんでもない方向に乗り換えてしまった、と厳しく叱責します。この「戦いの手紙」が届いたことによって、ガラテヤ教会内で激しい分裂と対立が起こったに違いありません。しかし真の一致の教会を建てるためには、どうしても通らなければならない道だったのです。
 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」(ルカ12:51~53)
 私たちが主イエスに従おうとする時、そこには戦いが生じ分裂が起こる。それは、私たちがここで洗礼(バプテスマ)を受けようと決断をする時、多くの人が経験してきたことです。なお禁教政策の悪臭が残る明治初期、この日本に建った教会において、どれ程多くの青年が勘当覚悟で教会の門をくぐったか、どれ程多くの妻が、夫や舅との戦いの中で信仰の炎を燃やし続けたことか。決断をしなければ、そのような不和も断絶も起きませんでした。相変わらず、良い子、良い嫁であり得たと思う。

 明治以来、日本人のキリスト教に対する態度は実にいびつです。一方で憧れ高評し、一方で危険視し嫌悪する。昔も今も親は子をミッションスクールに喜んで送ります。合格するのも大変なほどです。そこで聖書の勉強をすることはやぶさかでない。しかしある親は子に言った。「教会に行くのは良い。但し、凝るなよ」と。キリスト教はお飾り程度に止めておきなさい。クリスマスと結婚式は良い。しかしそこに自分の人生と魂を譲り渡すようなこと、特にバプテスマを受けるような決断はするな、という意味です。そのような人生のアクセサリーを与えるためにイエス・キリストは十字架に付いたのでしょうか。そうではありません。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」(ルカ12:50)、主もまた、その伝道の生涯の始めに、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。今は詳しく話せませんが、主イエスが私たちと同じ洗礼を受けられる、そのこと自体が、既に主が、人々からの憎しみを受けつつ、十字架へと進まれる御決断であったことは明らかです。そのヨルダン川における洗礼の延長線上に起こる、ゴルゴタの十字架の死、その2度目のバプテスマを、今主は覚悟をもって待っておられる。真理のために祭司長やファリサイ派、そして群衆とも対立した。主は幾らでも皆と仲良く出来たのに、その道をお取りにならなかった。火のような熱きバプテスマの決断をされた。「それに相応しい火は、あなたたちの心に燃えているか」と、今朝、この1年を始めようとする私たちに問われている、そう思います。

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(12:49)、教会が祈りの内にある政治的決断をすると、教会はそのようなことをすべきではないという意見が出されます。西片町教会では殆どないと思いますが、そのことで教会が分裂した、という話しは随所にある。私たちの姉妹教会ソウルチェイル教会がそうでした。朴炯圭牧師が韓国民主化運動のために戦っていた。教会もまた朴牧師と共に進もうとした時、教会内部から反対が起こった。それに乗じて、政府が暴力的な者を教会の内部に送り込み、激しい戦いが起こった。朴先生を支持する教会員たちは非暴力を貫いたのでやられっぱなしになる。教会は分裂し、福音書の言葉の通り、教会員の一つの家で、父と子が、兄と弟が、対立して分かれた、鄭光瑞伝道師の家がそうなりました。4人の息子の内長男と三男が父母と共に激しく礼拝妨害し、次男・鄭光瑞伝道師と四男が牧師と行動を共にする。本日この礼拝にご出席下さった山本将信牧師がその戦いを支えられた。その対立の傷を今でも引き摺って苦闘しているのがソウルチェイル教会です。表面的な平和ではなく、真の主にある平和を作り出すためには、私たちは一度、鈴木牧師の言葉で言えば、「仲良し倶楽部的平和」を捨てる、教会において、その苦しみのバプテスマを受ける決断もまた必要な時は来る。そう思います。

 もう一箇所朗読頂きましたが、若きエレミヤにも神の言葉が臨みます(エレミヤ1:11~12)。「エレミヤよ、何が見えるか」、彼は答えた。「アーモンドが見えます。」これこそ「アーモンドの会」の名の由来です。この会は数ある西片町教会の集会の中で最も低調である、内容ではなく出席者が少ないという意味です。その遠因もまたこの「アーモンド」という名付けにあったのではないかとも思います。アーモンドとはパレスチナで一番先に咲く花、自然は未だ安穏として冬の中に眠っている。しかし預言者として召されたエレミヤは、皆が眠っている時に目を覚まして、世界の現実を直視することを求められる。だからこそアーモンドの花を見る者は孤独になる。少数です。さらに見えてきたことは何か。「北に煮えたぎる鍋が見える。」、その時代、神殿宗教は盛んでしたが社会は不正に充ちていた。強者が富み栄え、弱者は虐げられていた。煮えたぎる鍋とは、そのために神の裁きの炎が都エルサレムに迫っていることのしるしでした。ところが、その国の指導者たち、王も祭司も預言者も、その滅びの危機に気付かない。それを批判してエレミヤは別の箇所で言いました。「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う。」(6:14)
 しかし、平穏を謳歌する者には、エレミヤはいたずらに平地に波瀾を起こす民衆煽動家(デマゴーグ)としか理解されない。エレミヤはここで、神に従うべきか、人に従うべきか、深刻に悩みました。もし人に従うならば、人と和解し平和に暮らすことが出来る。しかし神に従うならば、人から憎まれ争い続けねばならない。その預言者としての孤独の中で、しかし彼が倒れてしまわなかったのは、ただ神との揺るがぬ、まさに「交わり」があったからであると聖書は延々と書く。

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(ルカ12:49)、火は地上で未だ燃えていないと、主はエレミヤ以上の孤独の中におられます。しかし、その信仰の火、正義の火が地上に存在しない時、そこでただ主は怒ったのではない。その惰眠を貪る私たちが滅んでしまわないように、十字架で私たちの罪を全て代わって負って下さいました。そうやって、神との交わりが分断されていた私たちを、もう一度結び合わせて下さいました。この愛の火と第2のバプテスマ(十字架)を知った時、私たちはついに目覚める。だから私たちは先ず、このキリストとの交わりに生きる。その主から託された教会の使命である諸集会、いずれもご馳走は出ません。礼拝と祈祷会を筆頭とし、その他の諸集会・オリーブの会アジア問題研究会九条の会アーモンドの会の「交わり」を大切にする。そうやって互いに主の使命を果たす時、自ずからこの世のどこにもないような、揺るがぬ強い絆をもった兄弟姉妹の一致が与えられると思う。今朝の主の御言葉を心に刻みつつ、この一年、信仰に燃え、手を携え、共に歩む西片町教会であるように祈りましょう。

 祈りましょう。 主なる神様、つい自分に都合の良い聖書の言葉ばかりを読んでしまう私たちに、今朝、火のような御言葉を用意して下さり、その熱をもって、私たちの目を覚まさせて下さり、2016年を出発させて下さった恵みに感謝します。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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