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2015年9月20日 主日朝礼拝説教 「解釈改憲を許すな」

2015年9月20日 主日朝礼拝説教 「解釈改憲を許すな」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 10:25~37、申命記 10:17~19


 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 (ルカによる福音書 10:29)



 律法の専門家が主イエスに問いました。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(ルカ10:25b)、すると問い返される。「律法には何と書いてあるか。」、律法の専門家です、直ぐ答えた。「『…あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる。」そう主から命じられた時に、律法の専門家がもう一度問います。「では、わたしの隣人とは誰ですか。」
 その問いに答えて主は「善いサマリア人」の譬えを語られました。エルサレムからエリコへ下る山道で、旅人が追い剥ぎに襲われ半殺しにされている。そこを通りかかるのが、祭司やレビ人ですが、彼らは「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(10:31,32)のです。彼らは、律法「隣人愛」を熟知していたはずなのに、どうしたことでしょうか。
 また祭司、レビ人の中の宗教的高位者は、サンヒドリン・ユダヤ最高法院を構成し、政権を担っていました。最高法院の「憲法」は「聖書」です。主と問答している律法の専門家の中には大出世を遂げ、内閣法制局長官のように、最高法院議員の祭司などに聖書解釈を教示する者もいたと思います。この専門家の「では、わたしの隣人とはだれですか」(10:29)との問いから暗示されるのは、当時の「隣人論」です。
 聖書には「隣人を愛しなさい」と定められていますが、その隣人とは「誰か」を解釈しなければなりません。申命記(10:17~19)には、「(神は)人を偏り見ず…孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。」とあり、これを典拠に、誰であれ最弱者を愛することこそ隣人愛であると、サンヒドリン・最高法院は、長く伝統的に解釈してきたに違いありません。

 ところが、ある時代、「隣人とは同胞のことである」との「解釈改憲」が勃発したのではいでしょうか。民族主義です。律法には「寄留者を愛せ」と明瞭に書いてあります。そこから「異邦人も難民も隣人である」と長年判断されてきた律法の「法的安定性」が、昨日、9月19日未明(午前2時18分)、闇の中の国会で起こったように、ある日のサンヒドリンで覆されたのでないでしょうか。それは憲法(聖書)に対する強行採決、ウルトラ右翼によるクーデターだったのではないでしょうか。

 昔日本でも、全ての土地に氏神をまつる神社があり、それを中心に村民は強く団結していました。しかし彼らは氏子外の者を強く排除したのです。氏子は隣人同士として、濃密な愛に生き、しかしよそ者は過酷に扱う。愛の掟は守られている。しかし、その愛には、はっきり「枠」があるのです。それは現在のヘイトスピーチに連なる排外主義です。

 これまで、教会では普通、この傷ついた旅人は、ユダヤ人であろうと言われてきました。しかし御心では、そうであったかどうか分かりません。その理由を私は、神学校の同窓、志村真牧師の優れた研究から教えられました。1世紀のパレスチナは種々雑多の民族や宗教共同体で構成されていました。そのような環境の中で、エルサレムとエリコを結ぶ荒野の一本道で、旅人同士がすれ違う時、相手が同胞か異邦人かを判断するためには、どうしたら良いかということです。志村先生によると、先ず言語です。当時は、実に多くの言語や方言が用いられていました。だから、話しかけて相手の発音で何者か確認し合うのです。ところが、半殺しに合った旅人は気を失っていて口が利けません。それで別の方法ですが、それは服装です。ところが主イエスは注意深く、追い剥ぎは「その人の服をはぎ取り」(10:30)と、彼は裸で倒れていたことにされているのです。もはや、どこの誰かは分かりません。つまり「誰でもない」のです。主イエスがこう物語るのは、傷ついた男がいずれの集団に属するかは、隣人愛においては何も関係がない、と言われているに違いありません。

 ところが、主の譬えにおいて、祭司とレビ人が、自らの心ない行為を少しも恥じなかったように、この傷ついた旅人は「解釈改憲」後のユダヤ律法においては、もはや隣人ではなかった。つまり、ある時代、聖書(憲法)を「国際環境の大きな変化に対応して」などと正当化し、変質させ、隣人に枠をはめてしまったのではないか。それでいいのかと、主イエスはここで律法学者に悔い改めを迫っておられるのです。その法解釈は「違憲」である、と。

 そこにサマリア人が現れます。倒れている旅人がどこの誰かを、言葉でも衣服でも推定出来ない、だからサマリア人にとっての敵対者の可能性も高い。しかし彼は、傷ついた男の命を守ろうとしました。憐れに思ったからです(10:33)、他に何の理由もない、ここに、聖書の伝統に根ざす、正しい隣人解釈が復権する。「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」(10:34)、サマリア人は、どんなに怪我人を懇切に世話しても、何の得にもなりません、与えたぶどう酒、包帯、治療代、宿賃や手数料の2デナリオンを、旅の帰りにみな回収したというのでもない。こう言いました。「費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」(10:35b)、氏子共同体のように、春には隣組が田圃を耕してくれるから、秋には隣家の刈り取りを手伝う、もし返礼がなかったら村八分にする、そのようなギブアンドテイクを、主は隣人愛と呼んだのではない。隣人愛とは、見返りがなくても発動される、一方的なものである。それは私たち罪人に及んだ、神の一方的な愛、その恩寵と同質のものです。

 またこの譬えによると、サマリア人は、その宿屋に一晩泊まって介抱したことになりますが、ある西アジアに精通する神学者の研究を引用しながら、志村先生は、これは余りにも異常な配慮だと指摘します。傷つけられた旅人の一族は、激しい復讐心を燃やし犯人探しに全力を尽くすのが慣わしでした。犯人が発見された場合は、個人を越えて一族にまで、その憤怒は及ぶ程であった。ところが加害者が見つからない時、どのようなことが起こるかと言うと、不合理な方向にその怒りは逸れていくことがままあったと言われるのです。犯人と何らかの形で関わると推定されるだけで、復讐のターゲットになることもあった。つまり、このサマリア人は宿屋で一晩介抱することによって、旅人の一族が犯人を血眼になって探している、その渦中に身を晒してしまっているのです。このサマリア人の親切はせいぜい傷ついた男を宿屋の玄関先において逃げ去る、そうやって自分の身を守るべきでした。しかし、一晩宿屋で介抱し、また戻ってくると約束したとなると、もはや匿名では済まない。パレスチナの農民社会の集団心理は、全く非論理的な判断を下すことがあった。つまり、介抱している者を、犯人の一味と判断してリンチを行った、それは決して珍しくないと、西アジアの研究者は指摘したのです。そうであれば、このサマリア人は、自分の命を、この瀕死の、裸の、誰でもない、一人の男に捧げる覚悟をしている。つまり、ここで言われているのは、尋常ではない愛です。それは私たちの知っている愛と全く異質な、計り知れない愛がここに示唆されている。そして、主は、学者に「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた、その言葉は、実は、律法学者にだけでなく、御自分にこそ向けておられた。私がそれを実行しようと、あなたも含めてこの世では誰も実行しないに違いない、聖書(憲法)に記されてある通りの隣人愛を、解釈改憲なしに、額面通り実行する者に私はなろう、そのために殺されてもと、その御決意がここに現れているのではないでしょうか。

 天を故郷に持つ主です。しかし、主はクリマスの夜、異郷に赴かれ、異邦人である私たちの隣人となって下さいました。向こう側を通って行かず「近寄って」(10:34)下さいました。私たちの魂の傷に油とぶどう酒を注いで下さいました。救いの衣で覆って下さいました。御自分の命の代価を払って、滅びから私たちを買い戻して下さったのです。そうです、「イエスは良いことをして下さったのです。」そうバッハが「マタイ受難曲」で歌った時、それは、こんなに良いことをして下さった主に、人々が感涙の中で感謝を捧げたという歌ではない。総督ピラトが、十字架につけろ、と叫ぶ民衆に対して「この人はいったいどんな悪事を働いたというのか」と問うた、それに対して「受難曲」は、このイザヤの預言をもって答える。「イエスはみなに良いことをして下さったのです。彼は見えない者に視力を与え、歩けない人を歩かせて下さいました。御言葉を告げて下さり、悪魔を追い払って下さいました。彼は憂うる者を助け起し、罪人を受け入れ友とされました。私のイエスはほかに、何一つなさいませんでした。」そうソプラノが哀切に歌ったにもかかわらず、直後、「受難曲」において、合唱は、さらに大声で「十字架につけろ!」と叫んだのです。
 そうやって、主イエスは、隣人愛とは、自分に被害が及ばない限りの親切でも、ギブアンドテイクでもない、自分の命を棄てて、困窮の中にある難民の如き赤の他人の命を救うことだと、身をもって実行された。その隣人愛の中でだけ、律法の専門家が最初に求めた、永遠の命が得られる、愛のために死ぬ、それ以外に、永遠の命は受け継がれない、と断じておられるのです。

 「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」(コリント一15:36)

 律法学者は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と主から促された時、あの富める青年のように、悲しみながら立ち去ったのではないでしょうか。私たちも同じです。自らの原罪によって、美しき無私の心は強奪され、愛の血潮はみな傷口から流れ去った、信仰の衣もはぎ取られ、荒野に倒れる私たち、そこにあるのは、永遠の命と対極の、生きているようで死んでいる、半殺しの人生です。しかし、そこに善きサマリア人・イエスが来て下さり、私たちの隣人として、良いことをして下さる。しかし、その愛に少しも報いることなく、恩人を十字架につける私たちです、それにもかかわらず、主は私たちの罪の傷に、もう一度ぶどう酒を注いで下さる、それは聖餐において、今、私たちの現実になりました。そうやって、私たちのような、神と縁もゆかりもない寄留者のために、一方的な愛をもって、御自分の命を注ぎ出して下さる。この愛を本当に知ったなら、今度こそ、私たちも荒野の生ける屍から甦り、「行って、あなたも同じようにしなさい」、その御命令に少しでも応えることが出来る…とは言いません。ただ、したい、と祈り願うようになるのではないか。それは、勿論、真の善きサマリア人・主がなされたこととは天地の開きがある、真似事に過ぎない、それをよく承知の上で、しかし、「行って」とのお言葉に背を押され、一歩だけでも、踏み出すのです。

 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリント一6:20)

 不可能なことはよく承知している、しかし、繰り返します、その自らの罪と弱さを「正当化」(10:29)し、違法な解釈改憲だけはしない、そこにキリスト者としての最後のプライド、誇りを残す。それ以外に、私たちには、永遠の命に至る道を旅する方法はない、そう思う。

祈りましょう。  主なる御神、愛の劣等生である私たちに、繰り返し、無償の恵みを注いで下さり、罪の傷を癒して下さる、あなたに感謝します。「あなたも行って、同じようにしなさい」、その命への招きの言葉を、畏れと喜びをもって受け入れる私たちとならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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