2015年5月3日、主日朝礼拝説教 「湖の向こう岸に渡ろう」
説教者 山本 裕司 牧師
ルカによる福音書 8:22、26~39
ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。(ルカによる福音書 8:22)
通常、主イエスと弟子たちが伝道していたのは、湖西岸のユダヤ世界でした。その東の「向こう岸」(ルカ8:22)に、異邦人の町ゲラサがありました。私たちの表現でも、時に「川向こう」と言えば「よそ者」の地というニュアンスがあります。「対岸の火事」という言葉もあります。あちら側でどんな悲惨なことが起こっていようと関係ないということです。特にゲラサの地は、ユダヤ人が忌避する豚を飼う異質な国でした。ユダヤ人にとって、そこに火の手が上がっても、ほっておいていいような異郷の地に過ぎませんでした。
「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」(8:26)とあります。この「一行」とは、言うまでもなく主イエスと弟子たちのことです。主と弟子たちは確かに、「一緒に舟に乗り」(8:22)と書いてあります。ところが、到着すると何故か「イエスが陸に上がられると」(8:27)とだけあり、上陸されたのはイエス様お一人だけだったと暗示しているかのようです。その後、この物語では一度も弟子は登場しません。
つまり弟子たちは、この時、よけいな所に来てしまったと思って、舟から下りなかったのではないでしょうか。しかしそのような中で、イエス様だけは対岸の火事を「我が事」と覚えて下さったと、ルカは書くのです。
ここでの対岸の火事とは悪霊のことです。悪霊に取り憑かれた男は、イエスを見るとわめきました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。」(8:28)、しかし、イエスはかまうのです。神を拒絶しながら、しかし、魂の深みにおいては真の神を求めて呻く異邦人を、憐れみをもって探し出して下さるのです。創世記のヤコブ物語を思い出しました。天涯孤独の光なき地に野宿するヤコブ、その傍らに、天から梯子が降りてくる。その梯子をつたわり天の神が、究極的「向こう岸」である地に下られる。そして言われます。「見よ、わたしはあなたと共にいる。」(創世記28:15)、ヤコブは歓喜の声を挙げます。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(28:16)と。神がいないと思われた荒野の地名はルズ、しかし、そこをも主はベテル(神の家)として下さるのです。これはゲラサの出来事を先取りする物語です。
男に主イエスが「名は何というか」(ルカ8:30)とお尋ねになると「レギオン」と答えました。その名について「たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである」と説明が続きます。「レギオン」とは元々、ローマ軍を指す名で約7000人の大部隊のことでした。この男を支配している悪霊の名が大軍隊を現す。こう聞いただけで、私たちは福音書が言う悪霊とは古代人の迷信のことではない、現代を生きる私たちにこそ思い当たる話だと直感するのではないでしょうか。
彼はゲラサを植民地支配しているローマ帝国軍レギオンに徴兵された経験があるのではないでしょうか。
NNNドキュメント「9条を抱きしめて~元米海兵隊員が語る戦争と平和~」を観ました。ベトナム戦争に従軍した元米海兵隊員アレン・ネルソンさんは、極貧と差別からの救いを求めて、海兵隊に入りました。そこで彼は「ベトナム人は人間ではない、野蛮な動物だ」と洗脳され、敵兵だけでなく村人を殺すことをも躊躇しませんでした。ところが、ある村の壕の中で、若いベトナム人女性の出産に遭遇します。彼女は、苦しみながら赤ん坊を産み落とすと、微笑みながら抱き上げました。その瞬間、アレンは正気に返ったのです。「自分もベトナム人も同じ命を持つ存在だ」と。帰国したアレンに待っていたのは凄まじいPTSD(トラウマ)でした。来日した彼は力説します。「憲法九条は、核兵器よりも強い」と。
別の元米兵も言います。「イラク戦争から戻った米兵たちは、結婚しても暴力を振るい直ぐ破綻したり、犯罪に走ったりすることが多いのです。今も1日に20人の元米兵が自殺しています。戦争は相手国だけではない、自国社会をも病原菌のように蝕むのです。集団的自衛権をめぐる安倍政権の説明は抽象的で、殺し合いの極限状況について、何のリアルティもありません。安倍首相のするべきことは安保法制の前に、日本が米国の言うがままにイラク戦争を支援したことの正否や、現地で何が起こったのかを、徹底的に検証すべきことです」と。
あるいは、ゲラサの男は、ローマ帝国軍レギオンの侵略を経験したのかもしれません。家は放火され、父母は虐殺され、妻は強姦されたのかもしれません。
『南京大虐殺・生存者証言集』(加藤実牧師翻訳・1999年5月出版)には、夥しい放火、虐殺、強姦の証言があります。
61歳男性の証言。「1938年1月のある日、日本軍3人が村にやって来て、火を放ち始め、私の家も含めて16の家屋があっという間に焼き捨てられました。皆が忙しく火を消していた時、日本軍が振り向いて青年を撃ち殺しました。その父親はショックでパーになってしまいました。」
77歳男性の証言。「1937年12月13日、日本軍が、どっと入ってきて、気の狂った犬のように、人と見れば殺したのです。その日の午前10時頃、日本兵の一人が、家の門を蹴り開け、無理矢理父をひきずって行きました。そして、父の身体から、銀貨20元余りを探し出して奪い、老眼鏡はたたき落とし足で踏みつぶした。母も連れ出され、中国兵の隠れ家を教えるように言われたが、きっぱりと断ったところ、日本兵は母の腹に一発の銃弾を撃ち込んだのです。母は腸がみな飛び出してしまい、痛みで転げ回りながら死にました。帰ってきた父は、これを見て苦しみ、とうとう精神に異常を来し、中風で寝込み間もなく亡くなりました。」
64歳女性の証言。「日本軍が南京を占領した時、私は19歳で、もう結婚していました。薪を拾いに出た時、日本兵に見つかりました。その時私は男装していたのですが、日本兵は私の上着を剥ぎ、さらに衣服を全部剥ぎ取ったのです。家に帰ってから私は服毒自殺をしようとしましたが、救急措置で助かりました。しかし、それからは精神病になってしまいました。」
この時代、日本軍こそが悪霊「レギオン」だったのです。今朝は5月3日、憲法記念日ですが、私たちが「九条」を死守せねばならないのは、日本が悪霊レギオンに再び取り憑かれないためです。私たちの子どもや孫が、2度と、殺し殺されないためです。
どうして、このように軍隊は悪魔のようになるのでしょうか。古代の神学者アウグスティヌスは、悪魔を「堕落の集団」と呼びました。「群衆は赤面しない」と言われます。人間は確かに悪いことをしますが、一人では、絶対的な悪を犯すほど強くない。ところが、沢山だと恐ろしいことを平気でするようになるのです。差別は全てそのような社会的構造の中に出現します。今、日本はそのような全体主義の時代に戻りつつあるのではないでしょうか。まさに、レギオン(沢山)と同じ名を持つ多数派「自公政権」と「マスコミ」がそれを誘導しているのです。
八木あき子著『5千万人のヒトラーがいた!』には、ヒトラーは一人ではなかった、と書かれています。ある計算によってあの時代のヨーロッパ全体に、ヒトラー的思想の持ち主は、5千万人もいたと指摘されます。さらにその5千万人に引き摺られて、残りの何億人もの普通の人たちが、まさに沢山・レギオンとなって、大量殺戮の地獄を許したと言われるのです。八木さんは断じます。「ヨーロッパ人の多くは、等しくナチの共犯者であり、ユダヤ虐殺劇の観衆であった」と。特に知識人の名を挙げれば、200年前のドイツの哲学者カントは、ユダヤ人を詐欺師の民族と書いた。ドイツ人、カール・マルクスは、ユダヤ人を排除することが人間的な新しい社会を作りだすための条件と言った。芸術家ワーグナーはユダヤを痛烈に批判して、人間性の敵と糾弾して止まなかった。」八木さんは、こういう名を挙げながら、続いて不思議なことを語り始めます。
カントはユダヤ系であった。カール・マルクスはユダヤ人であった。ワーグナーも、ユダヤ系であった可能性が濃い。そしてヒトラーこそがユダヤ系であったとの証言がある、と。ヒトラーの素性探索の結果、少なくても1/4はユダヤ人の血が流れている。そうであれば、その雑種の男が、何故か、アーリア民族の純血種を守るという大使命に邁進したことになる。ゲシュタポ長官、ハイドリヒの家族にもユダヤ人がいた。彼はそれを隠すために、祖母の墓を跡形もなく破壊したのです。
この八木さんの指摘が本当なら、ここで起こったことは一体何なのでしょうか。それは明らかに、自己否定です。沢山・レギオンでありたいために、自分が自分でマイナーな自分を殺すのです。そのように人を追いつめる社会構造、多様性を認めない単一主義こそ、レギオンなのです。
昔、同性愛を糾弾するあるキリスト者の男がいました。それは神の掟に反すると攻撃しました。それを見ていて、ある人は私に耳打ちをしました。「彼は実は男が好きなのだ」と。自分を否定するために、似ている人を攻撃するのです。他の福音書には、ゲラサの悪霊に憑かれた男は、「石で自分を打ちたたいたりしていた」(マルコ5:5)とありました。それがドイツにおいては、自分の祖母の墓を打ち壊し、同じ血が流れている650万人を殺戮するに至った。これが悪魔の仕業でなくて何でありましょうか。
70年前の旧帝国憲法下で起こったことも同じです。日本は天皇神格化の故に、朝鮮人、中国人を差別し、「自分の内なるアジアの血」を絞め殺してきたのではないでしょうか。悪霊とはそういう存在なのです。他殺と自殺を同時にさせるのです。そうであれば、私たちの敵は仮想敵国ではない。全人類の共通の敵として戦わなくてならない相手とは、私たちをレギオンに徴兵しようとする、悪魔だけです。
八木さんは最後に書いています。「ヨーロッパ人がそうであったように、このアウシュビッツの悲劇を上から見ておられた、ヨーロッパの神もまた、傍観者に過ぎなかったのだろうか」と。私はこの問いに、今朝の御言葉をもって答えたいと思います。全ての人間にとって対岸の火事であるような「向こう岸」に、主イエスだけは、この神だけは、渡られるのだ!その地を、悪霊の支配から、神の御支配の中に取り戻そうとして下さる。そのためにキリストは今も働いておられる。それは本当のことです。そう答えたい。
祈りましょう。 主なる神、御子が、この地に満ちる呻きに応えて、天地の無限の隔てを越えて来て下さった恵みに感謝をします。どうか今朝もまた「湖の向こう岸に渡ろう」と私たちを「現場」へと招いておられる御子に従う、西片町教会とならせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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