2015年4月3日(金) テネブラエ・受苦日消火讃美礼拝説教「陰府をも救う主」

説教者 山本 裕司 牧師

マタイによる福音書 27:27~45



 敗戦70年、韓国においては解放70年、ソウルチェイル教会と西片町教会姉妹関係締結40年の節目の年、2015年の悔い改めの期節を過ごし、御受難の金曜の夜に、私たちは至りました。この初春も韓国において三・一独立運動が記念されたことでしょう。この1919(T8)年3月1日の三・一運動に対する大日本帝国の弾圧は、堤岩里事件を初めとするサディズム的蛮行を呼び起こしました。多くの殉教者を出したこの弾圧事件は、韓国民衆から自由独立の光を奪い取ろうとした、日本人の闇の力そのものでした。この春の季節、同時に、主の十字架の苦難を偲び、私たちの罪を悔い改めるレント・四旬節を迎えることは、とても偶然とは思えません。

 「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」(マタイ27:45)、主イエスが十字架につかれたのは真昼でした。しかし、その時、太陽が光を失い暗闇が地を覆ったのです。主を十字架につけた人の心の暗黒が、余りにも深いために、ついに日の光までも覆い尽くしてしまったのではないでしょうか。

 このテネブラエにおいて、レントの讃美歌が歌われる度に、蝋燭が一本、また一本と消され、今、礼拝堂は、闇で覆われています。七つの灯火が消されたことの意味は、人間の「七つの大罪」が、主の輝きの全てを奪い尽くしたことを現すのです。「七つの大罪」、その罪の中には、主の無罪を知りながら死刑判決を下した総督ピラトの「優柔不断」の罪がありました。身の危険が迫るとイエスを否認した弟子ペトロの「臆病」の罪もありました。ピラトやペトロは、弱さの故に罪を犯しました。しかし、人間の「大罪」はそれに止まることはなかったのです。群衆は主イエスを罵り、その血を見ることを求めました。ローマの兵卒たちは戴冠式を模したショーに主を引き摺り込み、虐め抜きました。仕方なくそうしているのではない。快感に酔って、であります。
 私たちの時代が経験した、未曾有の人間破壊、アウシュビッツ、南京、堤岩里を思い出さざるを得ない。この現実は、人の不合理極まりない心を計算に入れなければ、解釈出来ないのではないかと思うことがあります。そこには夜の闇よりも濃い真っ黒な人間の心がある。落ちていくのが楽しい、という不合理な思い。その心の秘密は誰にも言えない。時には証しをすることがあります。しかし、それができるのは、せいぜい、蝋燭の一本目、二本目に過ぎない。奥が「まだ」あるのです。七番目の罪に至る、心の奥が、そのまた奥が…。

 遠藤周作は『スキャンダル』という作品を残しました。これもまた人の心の井戸のように深い心の闇を描く作品です。まさに現在の「深層心理学」の成果がこの作品には取り入れられているのです。
 富も名声も勝ち得た老キリスト教作家に、一人の女性が近づいてくる。彼女は重病の子どもを支えるヴォランティアを病院で親身にしている。しかし反面、彼女は夫の過去の秘密を共有しています。夫は戦時中、中国の小さな村で虐殺を行った。女や子どもまで一軒の家に押し込まれ火がつけられる。家のなかから悲鳴と泣き声があがり、火だるまになった子どもや赤ん坊を抱いた女が走り出る。それを部下と共に夫は次々に射った。それを知った時、妻であるその女性は怖いという感じはなかった。むしろ突然痺れるような感覚に捉えられ、初めて自分から激しく求めたのです。二人はその煙と炎の記憶の中で、転がりながら快感で喘いだ。そして彼女は作家に言うのです。「わたくしの常識も理性も抑えられぬこの心の奥の真黒なものは…」と。
 その頃、この作家自身にスキャンダルの噂が流れ始める。身に覚えがない。自分を名乗る贋の男がいて歌舞伎町に出没している。やがて贋者と自分とがホテルで合体する異様な経験をすることになりました。先の女性がその闇への道案内をするのです。覗き穴から見ると、彼女は一人の少女ミツの柔らかな髪を優しく、しかし執拗になでている。その内、蜘蛛の糸にからまれた虫が力つきたように、少女は催眠状態に入る。その時作家はいつの間にか部屋に誘い込まれて、分身と共に少女を犯すのです。名だたるキリスト教作家である自分にも、その女同様、悪魔的な心が潜んでいることを認めざるを得ない。

 遠藤は言うのです。「誰にでも、善男善女と呼ばれる人にも、救い難き心が隠されている。自分すらまだ気づいていない、深い心の闇が。…人の心にはマグマがある。表層では見えないが、深層には灼熱のマグマが控えている。そのマグマがうずきを生む。子どもだってカゲロウの羽や脚をもいで楽しむではないか。小学生でも一人の無抵抗の仲間を寄ってたかって虐めるではないか。それはマグマがうごめいているからだ。」

 アウシュビッツ、南京、堤岩里、それは私たちと無関係なのだろうか。実はこの殺人者もまた、私たちの分身、最も醜悪な部分なのではないか。しかし、だからこそ、私たちはこの期節、くずおれて祈ります。「その魂の暗い部分、陰府の如き井戸の底にも届く光はないのですか」と。
 「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。」(詩編6:6)、陰府とは、旧約において地の深きところにある「死者の国」であります。そこは、帰り道なき国であり、御名を唱え、感謝する者なき深淵であり、ここまでは、神の光が届かない奥の奥と覚えられていました。

 『スキャンダル』を取り上げいささか大袈裟であったかもしれません。もっと私たちの近くに「陰府」はあるのかもしれない。主イエスは十字架で死なれました。全ての人を愛されたためです。しかし、日本では、その愛に応えて、主を愛する人は年々減っている。洗礼を受けても、ささいなことで、信仰を捨てる者は後をたたない。毎主日礼拝している者は僅かです。その僅かな内に入る私たちも心許ない。神が光を送っても送っても、深みにまでは届かない陰府が、水のように私たちの周りを浸す。
 梶原寿先生は言います。「ルター的信仰義認論」こそが、時に、社会の中に出現する、より深い「構造的悪」から目を逸らさせていると。バイブル・ベルトと呼ばれるアメリカ南部における人種隔離体制の確立は、見事にそのことを立証する。そこは非常に宗教熱心な地域です。しかしそこでこそ最も根強く人種隔離制度が発達したのだ。確かに「キリストにあっては」白人も黒人も差別はない。それを人種隔離主義者も知っていただろう。しかし、「同じ所に座る」、「同じ所に住む」となったら別問題であった。そこには信仰の光の決して届かない場所がある。「具体性」という場だ、と言われるのです。
 表面的には、御名を讃美し、平和は唱えるけれども、実は、自らの利害損得にかかわるとなれば、御心の「実現」を拒む、悪魔的エゴが支配する陰府が存在するのではないか。

 そう思って、絶望に打ちひしがれる時、「にもかかわらず」と新約聖書は大声で語り始めるのです。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。… 死んだ者にも福音が告げ知らされた」(ペトロ一3:18~19、4:6)と。
 この御言葉は、使徒信条にある「キリストの陰府下り」の典拠となります。御手が届かないと思われた死のどん底に主は下られる。そこを命の光で照らすために。その時、先の旧約・詩編では、もはや陰府では御名を唱えない、感謝しない、と言われた言葉が新約では覆されるのです。
 「また、わたしは、天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。『…小羊に、/賛美、誉れ、栄光、そして権力が、/世々限りなくありますように。』」(ヨハネ黙示録5:13)、「地の下」(陰府)にいる者たちも、もはやそこでは例外ではない。陰府を解き放つ小羊を讃美する礼拝者に加わっているのです。

 宮田光雄先生は「陰府に下り」という信仰を、古来、信仰者たちがどう解釈してきたかを紹介しています。その最後で先生は思いがけず「陰府下りの深層心理学的解釈」を語り出すのです。先生は、現代のルター派神学者・シュテーリンの言葉を引用します。「深層心理学が教える無意識から、不気味なものが噴き出してくる。人間が経験する、病気になるほどの矛盾や分裂、バランスの喪失は、それに原因をもつ。」そう語りながら、この神学者は、キリストの陰府下りのもつ現代的メッセージを引き出そうとするのです。「無意識という、一切の人間の力が無力なものと化するところで、まさにキリストの支配が貫徹される」と。
 「キリストは、単に我々の意識や表面的な思考の救済者であるだけではなく、あの不気味な魂の深みの救済者でもある。意識の領域のみを重視する神学や信仰は、地下にまで下り、あの深みに対しても働きかけようとするキリストから逃避することに他ならない。…キリストの救いの働きから除外された深みはどこにも存在しない。…ただ〈上〉にいるだけの神、聖者や善行を積んだ人たちの高みにのみ存在するような神は、挫折や絶望や罪責など何らかの〈深み〉に落ち込んで呻吟する私たちの支えとなることはできない。」
 「スキャンダル」や大量殺戮を生み出す、無意識下の魂のどん底。信仰者と呼ばれながら、自分の「具体的な場」にまでは、光の侵入を許さない私たち。しかし、その無意識下まで御子は下られる。人間の力では決して癒すことのできない、魂の底に広がる原罪の夜、しかし主が、そこに手を触れて下さる時、私たちは、そこに光が満ちる奇跡を期待してはいけないのでしょうか。

 『スキャンダル』、その作品の最後で、ホテルから出た作家が絶望に打ちひしがれて歩いていると、光の粒子が降りてくるのを見る。光は母のような慈悲に満ちて男を包むのです。その時、作家は天を仰いで祈ります。「憐れみたまえ、心狂える人間を憐れみたまえ」、その夜が、今日、受難週の金曜日であった。そういう物語です。
 おぞましい自分を母親のように包む「光の粒子」、それは真黒な罪をも照らす「福音の光」を暗示しているのではないでしょうか。

 テネブラエ、私たちはこの終わりに、パウル・ゲルハルトの受難のコラール「血潮したたる」を歌います。その最中に、一度外に持ち去られたマスター・キャンドルが再び入堂し、歌う会衆の顔を照らす。光は負けない。原罪に負けない、その事実を現すために。

 サディズム的蛮行の極致「茨で冠を編んで頭にのせ…葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた」(マタイ27:29~30)、この言葉との関わりで、初めてバッハは「マタイ受難曲」において、この受難のコラールの「第一節」を採用しました。これは原語では福音書の言葉の最後が「頭」となるのです。「葦の棒で叩いた、御頭を」、そうエバンジェリストが歌い終わった瞬間、受難のコラールの第一節が「おお御頭よ」と応える。「おお御頭よ、血と傷にまみれ、茨に刺されし御頭よ。…おお御頭よ、いつもなら美しく、至上の誉れと飾りで彩られた御頭よ」、その通りです。遠藤が描いた、ミツ(罪の反語)という名の少女の頭髪のように、決して汚してはならない聖なるものがある。御頭です。それを嬉しげに叩く日本人の原罪、無意識の闇、高慢と差別心、戦争好き、サディズム、そして思考停止し「物」のように天皇の前に跪きたがる欲望、その深層心理の罪に、主が触れて下さる時、私たちもきっと変わる。そこで初めて隣国と和解することが許されるのではないか。

 「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」(ヨハネ黙示録20:14)、死と陰府、そして遠藤の言う「罪のマグマ」を、火の池で滅ぼして下さる御手を覚え、敗戦後70年にして、なお暗い時代は続きますが、等しく御頭を仰ぐ日韓中の教会が手を携え、「平和を実現する者」の道を進む春としたい、そう願います。

 祈りましょう。  主なる神、陰府をも支配される御子の勝利が、目にも鮮やかとなる、3日後のイースターの春の光の朝を、皆で、待ち望む者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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