2015年4月12日 主日朝礼拝説教 「神聖なる心を愛する弟子」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 8:16~21


 ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。(ルカによる福音書 8:16~17)



 この春の光の季節、私は、カトリック作家・高橋たか子さんの作品『神の海』を読んで過ごしました。今朝の礼拝に与えられました、今朝の福音書の御言葉に生きた、一人の女性がここに存在すると感じたからです。
 御言葉に生きる、それは私たちキリスト者全ての生きる目標です。私たちに先立って、その信仰の戦いに勝利した、先人の掲げる灯火に導かれる時、私たちもまた、光に照らされる場に、入ることが出来ると思いました。その先人とは、『神の海』においては、17世紀のフランスを生きた、観想修道女マルグリット・マリ・アラコックです。ヨーロッパでは、周知の人だそうですが、日本では、キリスト者の中でさえ、知られていない修道女でした。それこそ、隠れていた「ともし火を…燭台の上に置く」(8:16)ような、祈り心をもって、高橋さんは、この伝記を綴ったに違いありません。

 ブルゴーニュ地方、そこはフランスでも最も美しい牧草地の広がる土地です。そこに建つ聖マリ訪問会修道院の敷地の周りには、縄梯子でもかけない限り乗り越えることが出来ない、石造りの囲いが取り巻いている。その隔絶された修道院と外界との接点は、見落とすほどの小さな入り口をくぐった面会室のみ。その室の空間を、真っ二つに分ける壁には窓があり、縦にも横にも目の細かい二重の格子がはまっている。それを越えてようやく禁域に入るのです。そのためには、志願者は外界の一切を棄てることが求められる。聖マリ訪問会は、「門外に出ない会」と定められ、いったん禁域に入ったものは、二度と囲いの外に出ない、生涯、ずっと…。

 私たち、プロテスタント教会は、修道院制度を廃棄しました。そういう私たちから見て、この聖マリ修道院のあり方は、疑問に思われるかもしれません。世捨て人になることを、神は望んでおられるのか、と。しかし、私は、この伝記を読み、本当に恥ずかしかった。外の世界、そこにこそ悩みがある、人間の矛盾と苦しみがある。聖域に逃げ込んでどうする、そう言えばいえるかもしれない。しかし、それなら、外界のただ中で、信仰するのだと定めた私たちが、この禁域で生きた、修道女マルグリット・マリほど、ただ一点に目を注ぎ、神に集中して生きただろうか、それを思うと、修道院制度を批判するなど、とんでもないと思います。確かに、私たちプロテスタントは、日常生活のただ中で、信仰は出来る、いえ、より良く出来ると、信じてきました。それは本当のことです。しかし、その中で、どれ程、私たちは外の世界の価値観に支配され、外の世界の貪欲の喜びに誘惑されてきたか、その罪を忘れることは出来ない。

 ルカ8:19節以下の出来事、これは主イエスが群衆に話をしておられる時、イエスの母と兄弟たちがやってきたという物語です。ここを注解する人が等しく注目するのは、「外に立って」(8:20)という言葉です。この人たちは、主のおられる「内」に入らない。したことは逆です。自分は「外」にいて、そこにエスを引っぱり出そうとしている。外を生きる自分に都合の良いように、聖書を、外の価値に合わせようとする。そして結局、神の言葉を聞いても、行なわない(8:21)で済むようにする。それが「外に立っている」ということの意味ではないでしょうか。
 そうではなく、主は、この肉の家族に、内に入ることを求めておられるのです。家族が「群衆のために近づくことができなかった」(8:19)とあるのは、そこは、聖マリ訪問会のように「狭き門」であることが暗示されているのではないでしょうか。しかしこの門こそ、命に至る狭き門であると、掻き分けてでも、内に入ってきなさい、そう主はご自身の血族にも求めておられるのです。

 1671年8月25日、23歳のマルグリットは修道院に入ります。彼女は、白いウエディングドレスで式に臨みました。外の礼拝堂に列席する家族や友人との格子越しの別れをなし、神の内に嫁ぐのです。主は言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(8:21)、内に入るとは、神の家族になることです。その交わりは、外の血肉の繋がりより、強く濃い。
 また主は、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(8:18)、そう言われました。この「持っている人」とは、19節以下の物語から推測するなら、霊の家族、を持っている人と、持っていない人との対比であると理解することが出来ます。そこにあるのは、鮮やかなコントラストです。主イエスは信仰の家族を暗示する、「群衆」(8:19)に取り囲まれています。これは、御復活後、全世界の教会の信仰者が、兄弟姉妹として手を握り合い、主を囲んでいる、その夥しき群れを連想させます。日本の教会は確かに小さい。しかし、この日曜、太陽の進行と共に、東から西へ、次々に朝を迎える国々で、地球を覆うように、礼拝が順番に始められていきます。その何億もの礼拝者たちと私たちは家族、兄弟姉妹です。「持っている人は更に与えられる」、その意味が、この礼拝をする時、よく分かると思います。

 溢れる「群衆」(8:19)、これに対するコントラストは、母とその兄弟たちの小ささ、寂しげな姿です。肉の血族に頼り、霊の交わりを持っていません。内に入りさえすれば、彼らは御子イエスを中心とする大家族を得るのに、外に立ち続けるために、小さなままです。
 「持っていると思うものまでも取り上げられる」(8:18)、そうあります。「持っている」のではありません。「持っていると思うものまでも」と主は言われます。実は持っていなかったのではないか、と。私たちも血の繋がる家族を持っています、持っていると思っています。しかし、その絆がどんなに脆いものか。神の言葉を一緒に聞くことも、行いもしない、父と子、母と子、夫と妻、その強いと思っていた血族の関係がどんなに儚いものか、その例を一々挙げるまでもありません。「持っていると思うものまで取り上げられる」、この日頃、私たちが悩んでいる家族の危機を救うのは、神に私たちの家の父となって頂く他はない。主イエスに長子となって頂く、あるいは花婿となって頂く、それ以外に、私たちの地上の家族もまた、正しく、その交わりを作ることは出来ないのではないか、そう思います。
 私たちが聖人同士になれと言うのではない。私たちは罪人です。どんなに、傷つけ合って生きているか。しかしそこで大切なのは、赦し合う家族のことです。裁き合う家族のことではない。愛し合う家です。十字架の主にあって、その交わりが与えられるのです。だからこそ、先ず、主イエスにのみに集中しなければならない。主イエスのみを愛さねばならない。23歳以後のマルグリットの姿を、外の世界の人々で見た者は、誰もいません。後の人はその彼女を指して、パウロの言葉を引用します。「あなたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイ3::3)

 その修道会生活の中で、マルグリットは、何度かキリストの「心」の御出現に遭遇する。神秘体験です。礼拝堂に「聖心」が現れる。それは、炸裂する光、輝く太陽のようなものとして、私に示された、とマリは書く。その燃える光線が直接、私の心に面していて、私の心が熱い火で焼かれるのを感じた。その時、キリストは言われた。「心とは神の愛である。まるで燃える大窯のように熱く、人間たちを愛し、彼らに愛を証すために、精根尽きるまで何も惜しまなかった心である。けれども人々は、感謝のかわりに、御聖体に対して、冷淡と軽視を返すばかりで、神は忘恩しか受けなかった。」さらにキリストはマリに言う。「この炎をお前の小さな心の中に封じ込めよう。そして、お前は、この炎の心を、あまねく広げねばならない。」そして、彼女に名を与えられました。「神聖なる心を愛する弟子」と。

 時は、太陽王と呼ばれた栄光のルイ14世の治世、ヴェルサイユ宮廷文化の絶頂期でした。しかしその内側では、貪欲と相次ぐ戦争によって、民の心は癒し難い傷を負っていた。そのような中で、人々から忘れられていた、一人の修道女に「心」が現れる。キリストに促されてマリは、太陽王・ルイ14世に手紙を書きました。主イエスの御受難が、時の権力者によって引き起こされたのである、と、だから権力者であるあなたが、真の太陽である「心」の崇敬によって償って欲しい。そのために、ヴェルサイユに、心を拝するためだけの礼拝堂を造って欲しい。そして、国王の力で、ローマ教皇に働きかけ「心」の崇敬のための特別なミサを献げて欲しい、と。
 しかし、この手紙は国王には届かなかったと伝えられます。しかし、彼女の殉教の如き死後、この「心」について書かれた証しが、人々に読まれ始める。そして、次の世紀、1765年、「心」の祝日が、そのためのミサとともにローマで正式に許可された。やがて、その祝日は世界中の教会で祝われるようになる。19世紀になり、また始まった、普仏戦争によって、フランスは苦しみのどん底を経験した。その時、国民の心を奮い立たせるために、ついに白い大聖堂が建った。これこそ、知らない者はいない、モンマルトルのサクレクールです。「神聖なる心の聖堂」、その主祭壇の中には、マルグリット・マリの遺骨が安置された。
 そして、高橋たか子さんは最後にこう書きます。「かくして、フランス全体が、サクレクール(聖心)に向けて整えられた、それは、あの禁域におけるマルグリットの秘かなる体験、「心」との遭遇の体験から始まっている。それが、後の時代、戦争の罪によって疲弊し切ったフランスを、信仰的意味で支えたのだ。神の御心、神の大窯のような愛を思い起こせ、と。」

 主は言われました。「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」(8::16~17)、その通りです。サクレクールは今、パリの至る所から仰ぐことが出来る。もはや隠れることは出来ない。

 私たちプロテスタントは、修道会に入りません。しかし、私たち一人一人が、御心に集中すること、そこから全ては始まる、それは同じです。プロテスタントの神学者カール・バルトは言いました。「キリスト論的集中」と。キリストに集中する時のみ、この世の謎は全て解かれるだろう、と。まるで、この世から隠遁するように、御言葉の内に沈潜すること、そして神の心と出会うこと、その隠された場からしか、この世界と時代が動くことはない、そう言われている。

 イエス様の家族同様、相変わらず、私たちの家族は教会に来ないかもしれない。最も愛する人たちが「内」に入って来ないのです。しかし、私たちが聖心の光に照らされれば、いつの日にか、その光は溢れ出て、高く掲げた灯火のように、皆様の家を照らすでありましょう。主イエスの十字架と復活の後、主の肉の兄弟の中にも、ヤコブのように、教会の偉大な指導者になった人も現れました。母マリアも初代教会のメンバーの中に名を連ねています。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」(8:17)からであります。

 祈りましょう。   聖なる心の神様、あなたの家族にふさわしくない者を、あなたは御子の贖いの故に、この家に受け入れて下さった愛を感謝します。しかしその恩寵を忘れて、私たちはどこででも互いに裁き合う罪人です。どうか太陽の如き聖心の光に照らされ、真の家族を、血族の内にも、教会の内にも、作ることが出来ますように。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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