2015年3月22日 主日朝礼拝説教 「長調で歌え-主に仕えた女性たち-」
説教者 山本 裕司 牧師
ルカによる福音書 8:1~3
「そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」 (ルカによる福音書 8:3b)
今、ご一緒に、讃美歌21-439番「暗い夜」を歌いました。覚えておられた方も多いと思いますが、先週の礼拝では、この歌の前半を歌い、今週はその後半を歌いました。ルカ福音書が意図的と思われますが、7章36節~8章3節まで、続けて女性の物語を記したからです。この作詞者ブライアン・レンが来日した時、どうして女性の歌を作ったのかを語りました。彼が若い頃通っていた教会の牧師が、福音書の物語を語る時、その登場人物はいつも男であった。主に従ったペトロ、ヤコブ、ヨハネ、敵対したヘロデやピラト、裏切ったユダ、しかし皆男たちのドラマということで共通だった。それを不思議に思わなかった。ところがある時、レンはフェミニスト神学者エリーザベト・モルトマンの『イエスをめぐる女性たち』を読みます。そしてイエスに従った女性たちの大きさを知ります。男たちだけが主に従ったのではありません。むしろ女性たちが、汚れのない愛をイエスに注いだのです。そう語りながら、レンが引用したのが、今朝私たちに与えられた御言葉です。
「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカ8:2~3)
「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」という名があります。夫は領主ヘロデの高級官僚でした。その妻が、何と、ヘロデと対立するイエスのもとに走った。何不自由なかったはずのヨハナは、一切を棄ててイエスと「一緒」に伝道の旅を始めたのです。漁師だったペトロたちが、舟も網も父も捨てて主に従った、その献身と何も変わりありません。いえ実はそうでない、差別され半奴隷状態であった女性が、家を出る、献身する、当時それは男の何倍、何十倍もの困難があったはずです。それでも彼女たちは、命懸けで、主と「一緒」にいることを選びました。一方、教師・ラビの方も、女を連れて伝道することは、それだけでスキャンダルとなった。それはイエス様にとって、大きなマイナスだったと思います。しかし、そんなことにお構いなく、主は女たちと旅することを喜ばれたのです。主は、彼女たちを男より下だと思わなかった。むしろ深く尊敬したに違いありません。その御心に従って、ルカも、12人の男弟子も、主と「一緒」(8:1)だった、多くの婦人たちも主と「一緒」(8:3)だった、そう男女を同格に記して、女性も弟子なのだと既にここで、暗示していると思います。
彼女たちが「奉仕していた」(8:3)という言葉に関しては、荒井献先生が『新約聖書の女性観』で、この言葉は、「弟子として仕えた」という意味である、何も考えず、奴隷のように男に仕えたのではない、と解説します。またある女性神学者は、初代教会において、特に「マグダラのマリア」は、12使徒と同等かそれ以上の指導者であった、と言います。確かに主イエスの十字架に最後まで従ったのは、マグダラのマリアを筆頭に女たちであったと聖書は強調します。ペトロを始めとする男弟子の姿はゴルゴタには一人も見当たりません。逃げたのです。そして、主の御復活を最初に知らされたのも女たちでした。そこに、主に聴き従うことの喜びと、試練を男弟子以上に感じ、迷い、悩み、考え、祈り、しかし、逃げずに、最後まで従った信仰者の姿が浮かび上がってくるのです。それこそ女だったのだと、ルカは強調しているのではないでしょうか。その心が受け継がれて、教会はいつの時代も、男に比して献身的女性会員が多いことになっているのではないでしょうか。
「従順を強いられてただ家を守る女(ひと)。耐え忍ぶ場をはなれ、聴き、考え、語りなさい。//癒されて宣教の途を行く女たち。行いと言葉とでその救いを示しなさい。」(讃美歌21-439、5,6節)
この生き方は当時の女性にとって革命的なことでした。そう導いたのは、主の女性に対する温かい眼差しです。それは捨てられていた徴税人、罪人を招いた愛に匹敵します。「自分の持ち物を出し合う」(8:3)ことが出来た女性たちです。物は豊かであった。しかし、主に出会う前の彼女たちの心は深く病んでいた。レンの歌の5節にあるように、長く忍従を強いられてきたに違いない。教師の話を聴く機会もない。自分で考えることも許されない。語ってはならない。そのような抑圧の中で、彼女たちの心は深く病んでしまったのではないでしょうか。感情が爆発して、反社会的罪も犯した女もいたと思います。
「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(8:2)、とあります。悪霊とは、人権を抑圧し、自由を奪うものの隠喩・メタファーとも言えると思います。7つの悪霊、その6つ目までは、女性差別、宗教差別、舅や夫の横暴、DV、家での忍従などと想像がつきますが、7つ目の悪霊とは、彼女自身が生み出した罪の爆発のことであったかもしれません。だから既に登場した、御足に、接吻して香油を塗った「罪深い女」(7:37)とは、マグダラのマリアのことであったとの理解も生じたのです。
今、メタファーと言いましたが、この科学の時代、「悪霊」という迷信を持ち出す必要はないと言う人もいます。しかし、昔、池袋で、無差別的に人を刺し殺した23歳の青年のことを思い出します。この事件は、青年もまた悪霊に捕らえられていたのだと表現するのが、最も分かり易いのではないでしょうか。成績優秀な高校生でした。しかし、両親が賭博による借金を残して失踪します。彼は高校を退学し働き始める。卒業4ヶ月前のことでした。7つの職を転々とし、最後に東京に出て新聞配達員になった時は、ザック一つを持っているだけでした。18歳からの5年間の青年の歩みを想像すると、涙が出そうになります。かつての同級生たちが大学で楽しくやっている間、彼は学歴社会の壁に押し潰され、逃げ道なき閉塞に悩み抜いた。最後は赤坂のカプセルホテルと池袋のゲームセンターを往復して一週間を過ごしました。いくら町を歩いても、一人も「一緒」にいてくれる友はいない。どんなに寂しかったろうと思う。今、このような袋小路に迷い込んだ青年は、もっと増えていると想像します。地下鉄サリン事件から20年、しかし今も名を「アレフ」と変えて、オウムは生き残り、再び、居場所のない青年たちを集めています。
どんなに辛くてもサリンを撒くことも、池袋で人を殺すことも許されません。しかし、この日本社会を跋扈する1~6の悪霊に刺激され、彼らの内なる7番目の悪霊、つまり破壊衝動が最後に噴出する。再びこの7番目の悪霊が地上に出現する、その直前の時代、それが2015年なのではないでしょうか。
このような悪しき世に向かって、主は「神の国を宣べ伝え」(8:1)ました。神の国とは、主と共に到来する「神の支配」のこと。そうであれば、ここで主は、あなたはもう自由です、「悪霊や病気」(8:2)の支配から、神の支配に移されました、おめでとう!、そう祝福を宣べ伝えておられるのです。
この女性たちの具体的な回心の様子は分かりません。しかし、この直前にある、「罪深い女」(7:37)との官能的と言ってもよい、主イエスとの出会いの記事にそれが暗示されています。この時、男たちは不快に思った。しかし、主イエスだけこの接吻と塗油を受け入れて下さった。その温かさで、氷のように冷たかった心が溶けて、安堵の涙となって御足に流れ下る。だからレンの先ほどの歌は、前半、抑圧された彼女たちの姿を歌う時は、哀しげな短調ですが、後半、主のメッセージが語られる時、長調に転調する。小さな者を尊い人として扱い、私の宝、かけがえのない宝と抱きしめて下さる主の愛、それに触れた時、この女性たちは哀しみの歌「短調」を捨て、「長調」で主を愛する讃美を歌い始めるのです。
「町や村を巡って旅を続け」(8:1)ともありますが、この言葉は、主が町々村々隈無くお回りになったという意味が込められているそうです。主は、富んだ大都会だけに行ったのではない。小さな集落も通り過ぎることなく、一つ一つを訪ねて下さった、と。そう聞いた時、オパールの採掘人の暮らしを映した番組を思い出しました。オーストラリアの中央部に赤茶けた大平原が広がります。この乾いた土地の下に埋まるオパールを、多くの者が捜している。埃まみれになって少しずつドリルで穴をほって、勘に頼りながら、宝石を一つ一つ捜す。一方、最近やって来た若者がブルドーザーを使い始めた。汗も流さず深く掘って、大きい原石を手に入れるのです。しかしその時、埋蔵されているはずの8割のオパールは土砂に埋もれて失われてしまう。そのブルドーザーで掘られた巨大な穴を、苦々しく見下ろしながら、何十年もこつこつと掘ってきた老人は言う。「私たちの理想は、地下深くに埋もれている、オパールの欠片一つ無駄にしないことです。大きいものだけを狙って、後は全部棄ててしまう、あのやり方は、何億年もかかって宝石を生み出した大自然への冒涜です」と。そして、自分の掘り出した、小さな宝石を手で愛おしくさすりながら、飽かずに眺めるのです。
それを見ていて、私は思いました。主のお気持ちもこの採掘者と同じなのだ、と。主もまた捜す人です。隠れている人を、丹念に掘り起こし、捜す。その発見された者が、どんなに小さくても見捨てることはない。大きな人だけでない、男だけでない、小さくされている人を見逃さない。無くした銀貨の譬え(15:8)のように、発見すると、ああ、見つけた、私の宝を見つけた、と喜んで下さる。そして、その山出しの原石を磨かれる。赦しと愛とをもって。すると、その番組でもそうです。何でもない石だと思っていたものが、老人の手にかかると、美しく輝き始める。透き通るような青や緑や赤の光を発し始める。私たちもそうやって見つけられた者です。誰も見てくれなくても、主イエスだけは、わたしたちを捜し出し、「あなたは私の友」と呼んで下さる。「一緒」(8:3)に旅をしようと招いて下さる。その主イエスをほんの少しでも知っていたら、どんなに世の中、間違っていても、池袋で包丁を振り回すことはない、地下鉄にサリンを撒くことはない、そう思う。
祈りましょう。 主なる神、御子が私たちを捜し出して下さった恵みに感謝を致します。その愛に応える弟子としての献身の道を、「長調」で歌いつつ、歩む私たちとならせて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
a:2059 t:1 y:0