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2015年2月8日 主日朝礼拝説教 「そして神に至る」

2015年2月8日 主日朝礼拝説教 「そして神に至る」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 3:15~38



「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」

(創世記 3:24)



「イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト…、アダム。そして神に至る。」

(ルカによる福音書 3:23~38)



 いつの時、いずれの所にあっても、変わらない教会の祈りは、洗礼を受ける人が一人でも多く与えられるようにとの願いです。洗礼を受けることは、万人にとって貴い恵みであると信じるからです。元々、洗礼とは、教会の発明ではありません。私たちの洗礼の水は、今は遺跡と化した砂漠の修道院、その沐浴の場にまで遡る気の遠くなるような過去からの伝統をもっています。しかし、だから貴いと言うのではありません。その沐浴に深い影響を受けた洗礼者ヨハネはこう言わねばならなかった。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)、洗礼運動に生涯を捧げたヨハネが欲した力ある洗礼、水の洗礼を遙かに超えた聖霊と火による洗礼、それが、主イエスによって、教会にもたらされるのです。だから洗礼は貴い、ここに一人でも多くの隣人を招くために、教会は立っている、そう言わねばなりません。

 ヨハネの水の洗礼と、教会の洗礼とは、水を用いる点で何も変わりありません。ではどこが違ってしまったのか、それは、教会の頭であられるイエス・キリストがこの洗礼をお受けになられたからです。
 「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」(3:21~22)
 この瞬間、洗礼の意味が変わったのです。主イエスにあって、洗礼が天と繋がり、聖霊が洗礼の場に初めて降って来て下さったのです。

 では「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(3:3)を、何故、主イエスが受ける必要があったのでしょうか。主は罪をもっておられなかった。ですから、他の福音書では、ヨハネは主に洗礼を授けるのを躊躇しています(マタイ3:14)。しかし、主はあえて受けられました。何故でしょうか。そう問うた時、私たちはあの御言葉を思い出すのです。
 「 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…わたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:4~6)
 主イエスの御受難の預言です。しかし、これは同時に、主の受洗を指し示す預言でもあると思います。主の受けられた洗礼と十字架は一つのことです。主イエスは罪を犯されなかったのに、十字架につかれました。主イエスは罪を犯されなかったのに、洗礼を受けられました。同一の事態です。主は私たち罪人とそうやって結び付いて下さった。聖霊と共に主御自身が洗礼の水のただ中に飛び込んで下さった。その時洗礼は救いの力を獲得する。主の霊の風は、罪の「脱穀場を隅々まできれいに」(ルカ3:17)するだろう、主の霊の炎によって罪の「殻は消えることのない火で焼き払われる」だろう、そうヨハネは御名による洗礼への憧憬を語って止まない。それは私たちが洗礼を受けたら、もう罪を犯さないと言う意味ではありません。天の父が洗礼を受けた御子に免じて、私たちの洗礼前の罪も、洗礼後の悪も赦して下さる、という意味です。何と感謝なことかと思う。

 今、洗礼の中に主イエスが入って来て下さった、と言いました。同様の意味をさらにルカは、直後の「系図」で語ろうとしているのです。天におられた御子イエスが、地上で洗礼を受ける必要もなかったように、人間の系図に連なる理由もありません。しかし、あえて、主は私たちの罪を浄めるために、この人間の系図の中にも入り込んで下さったのだ、そうルカは描くのです。

 「ファミリー・ツリー」という言葉があります。系図を正確に書こうとすると、この福音書のように、ただ名前だけを並べると分かりにくい。そこで、最も古い先祖の一人を一つの根、幹と見なして、そこから子孫が枝分かれして増えていく、そう描く、それは最後、大きく枝を広げた樹木、ツリーのよう形になります。その場合、一番大切なのは、ルーツ・最古の始祖でありましょう。その一人がいなければ、後の子孫はひとりも生まれないのです。その人こそ生命の源のはずです。ところが、主イエスの系図はそうではなく話しは逆です。最後にお生まれになった枝の一葉と思われたイエスこそ、実はファミリー・ツリーの始源となる。だからマタイ福音書冒頭の系図と逆に、一番先に御名が出てくる。「イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると…」(3:23)と、それは、例えば、殆ど死にかけた大樹、枯れ木の末端の枝に何故かその春、奇跡が起こる。緑の一葉が茂る、その葉が春の太陽の光と熱を吸収し始めるのです。聖霊の風を呼吸し始めるのです。まさにそこで、開けた天から降り注ぐ光と熱と大気によって生まれた生命力を、一枚の若葉が、枝から幹に、幹から根に遡らせていく。その最後に生まれた葉によって、本当に不思議なことですが、巨木・ファミリー・ツリー全体が復活する、そういうイメージです。

 マタイの系図はアブラハムから始まりますが、逆向きに進んだルカの場合は、アブラハムを飛び越えて、さらに何代も遡り、アダムに突き当たるまで止まらない、そこも違う。アダムが最初の先祖と言うなら、このイエス様のツリーの枝の広がりは、恐ろしく巨大であり全人類を網羅するはずです。だからこの系図は、その一部分だけをピックアップしただけです。私たち全人類・万人の血の流れの中に、主イエスが入って来て下さったのです。戻れば、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受け」(3:21)とあるように、主イエスは私たち皆と共に洗礼を受けて下さった、同時に、私たちの系図に連なって下さった、私たちは、イエス様とこれ程強い交わりの中にある、主は私たちの兄弟となって下さったのだ、そうルカは喜びの声を上げているのです。

 創世記の物語において、最初の人間アダムは禁断の木の実を食べ原罪の源となりました。その時神は、楽園からアダムを追放された。「命の木」に至る道を閉ざすためです。それは、アダムが一族と共にこれから作るファミリー・ツリーが、どれ程大樹となっても「命の木」と呼ばれることはない、との連想を生むのです。実際、何億、何十億人と増えた。しかし、そのツリーは「死の木」でしなかった。最初の根のところで腐っていた。その後延々と、アダムの血を受けた者は、その罪と死の苦しみを負って、呻きながら作る歴史を刻む他はなかった。そこに描かれるのは、罪と死の系図以外のなにものでもなかった。しかし、繰り返し申します。その最後に、キリストが生まれる。若葉として生まれる。そして、主が洗礼を受けて下さり、その人間の罪の重荷を負って下さった時、アダムの罪の血の流れが、全部入れ替わってしまう。骨髄移植をすると、骨髄提供者の血液型に変わってしまうそうです。主イエスの聖い血潮が、人類のファミリー・ツリーに流れ込んだ時、その血潮は、系図を逆流していって、全部入れ替えてしまう。そこで死の木が、一気に、命の木に変えられてしまう。だから、ルカは書きました。「エノシュ、セト、アダム、そして神に至る」(3:38)と。アダムはもはやそこで、神と断絶していないではないか。アダムと神はついにここで結ばれた。あの堕落の瞬間から断絶した、神と人との交わりが、ここで回復する。最後の一葉・御子イエスが洗礼を受けた時、天が開いて、聖霊の息吹と共に、神の憐れみが、この死の地に、雨のように降り注いだのだ。父なる神は、そうやって、御子イエスによって、私たちの頭に雨のように水を注いで下さり、和解して下さる。罪を赦して下さる。神の子と呼んで下さる。洗礼を受ける時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:22)という天からの御声が、もはや御子イエスにだけでない、私たちにも聞こえるのです。ヨハネは群衆を「蝮の子」(3:7)と呼んだ。自分がいくら洗礼を授けても、人は神の子にはならない、蝮の子のままだ、その悲しみを洗礼運動の中で嫌と言う程味わってきた。しかし、今、神の子イエスによって、我らもまた神の子となる。もう悪魔の血統ではない。神の子の血筋の中で枝を張ることが出来るのです。

 私たちが洗礼を受けるということ、それは、神の子のファミリー・ツリーのさらなる新しい一葉とさせて頂くということでもあります。受洗後、私たちもまた未来に向けて、命の木を広げていくのです。自分の子どもに、孫に、曾孫に、自分の家族に、自分の友達に、その一枚の若葉から溢れ出る生命のエネルギーを受け継いでいく、緑の枝を広げて行く、そのために教会は弛まず受洗者を招く。なお、御子イエスを知らないために死が広がるこの地を、いつの日か、命の木の森が覆い尽くすために。

 祈りましょう。   主なる父なる神様、私たちは皆アダムの末裔、原罪の血の流れの中に生まれた罪人であることを覚え、御子イエスの血潮を今、渇く思いをもって、祈り求める者とならせて下さい。どうか、私たちの家に、御子を迎え入れ、洗礼を受け、聖餐に与る者が一人でも多く与えられるように、祈り続ける者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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