2015年12月6日 主日朝礼拝説教「なんちゅう友なんや、イェスというお人は!」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 12:1~12


「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」(ルカによる福音書 12:4)


 今朝の福音書の御言葉はこう始まりました。「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。」(ルカ12:1a)、これはこれまでの続きであれば、主イェスとお弟子たちが、ファリサイ派の家で食事をしている時のことです。その食事会を取り囲むようにして、群衆が足の踏み場もないほど集まって来ているのです。人々の目が刺さるように、主イェスと弟子たちに注がれています。その目付きはいろいろであったに違いありません。ファリサイ派と律法の専門家の敵意に吊り上がった目がありました。直前の「何か言葉じりをとらえようとねらっていた」(11:54)とあるように、失言を見つけようとする意地悪い視線がありました。逆に日頃、偉ぶるファリサイ派の偽善を指摘したことに対する尊敬の眼差しもあったと思います。ルカはここで何を考えていたのでしょうか。それは、ルカの属する教会の姿を、この出来事と重ね合わせていたのではないでしょうか。教会が多くの人々にじっと見詰められている感覚です。私たちキリスト者も注目されることがあります。流石はキリスト者だと言われたり、クリスチャンはやっぱり駄目だと舌打ちされたりするかもしれない。いろいろな目がじっと見詰めている。
 そのような中で、主は「まず」(12:1b)弟子たちに話し始められるのです。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」(12:1c)、ファリサイ派を注意しなさいと言ったのではありません。彼らのパン種に注意しなさいと言われたのです。パン種(偽善)を、弟子たちの中に、つまり教会の中に、決して入れないように注意せよと、「まず」言われたのです。私たちにとって、人々に注目されることは、恐怖であると同時に快感です。この食事会の衆目の中で、弟子たちもこの恐れと喜びの間を、行きつ戻りつしていたのではないでしょうか。小さく見られれば軽んじられる、それは恐怖です。大きければ重んじられる、それは快感です。既に主イェスは言われました。「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。」(11:43)、このように重んじられることが、ファリサイ派の人にとって、どれほど大きな喜びであったか分かる。そこで主は、ファリサイ派よ、あなたたちが使ったのが「パン種」ではないか、そう言われたのです。パン種が生地に入ると大きく膨らませる。ファリサイ派もまた自らに、パン種(偽善)を取り入れ、大きくしたのです。そして主は弟子たちに向き直って、つまり私たち教会の方を向いて言われる、そうルカはここを編集していると思います。主は、「注意せよ」と、「いつでも、教会もファリサイ派と同じことになる」と言われている、と。
 ルカの時代、教会は小さかった。迫害もありました。「恐れてはならない」(12:4b)ともありますが、どんなに教会は、自分たちの小ささに恐れたことでしょうか。あるいは、その小ささのまま、権力者の前に連れて行かれれば、「心配」(12:11)になる。大きな者は、「敵意を抱き、いろいろの問題で…質問を浴びせ…何か言葉じりをとらえようと」(11:53~54)尋問する。そういう中で、ルカの教会は大きくなりたい、そう痛切に思ったに違いないのです。襲われないためには大きく見せねばならない、そこで我々もファリサイ派がそうであったように、パン種を用意しようではないか、そういう誘惑が起こっていたのかもしれません。「まず」そこを教会は注意しなさい、そう主は警告しておられるのです。

 ある大先輩の牧師は集合写真の時背伸びをしていました。立派に写るからだそうです。ところが何かの拍子でカメラマンが手間取っている内に背伸びに疲れてかかとを付いた、その瞬間シャッターが下りた。涙ぐましい話しですが、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」(12:2)、そう主が言われる通り、虚飾の上着が剥がれ落ちる時、裸の小さな自分が現れる。その時、その人はどうしたら良いかということです。

 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」(ヨブ1:21)

 皆本来は裸です。ところが裸で出て裸で帰る、その中間で人はキャリアやお金という着物を身に着ける。その厚き上着をまとうことが出来た者ほど、社会の上座に座る、慇懃な挨拶を得る。しかしその満足は錯覚ではないかと、主は、レントゲン照射のような眼差しで、私たちの真実の姿、裸の姿をじっと見ておられるのです。
 こんなエッセーを読みました。「久しぶりに、テレビで松田聖子の曲を耳にする。(歌を聞くとその頃の自分を思い出す)、高校時代の景色が迫り、哀しい懐かしさが胸に満ちる。金なく、知恵なく、突っ張るわりには崩れやすい日々。現在私は牧師をしている。多くの人に神の言葉を語り、相談に乗り、教会の運営に携わる。達成感があり満足する。感謝の言葉を受けるたびに、自分が偉くなった感じもする。しかし、そうやってふんぞり返った私が松田聖子の歌を聞くと、一瞬のうちに高校生に引き戻される。その歌はこう言っているように聞こえてくる。『勘違いしないでね。何も持ってなかったでしょ。背伸びしないでね。おびえてばっかり、泣いてばかりだったでしょ』、うつろに拡大されていた自分が、等身大に縮小されていく。」そういうことを言いながら、この牧師は、聖書の旋律もまた、私たちが勘違いした人生を歩まないために、歌っている。周囲の人々の視線によって錯覚しないために、いつでも私たちは、裸に過ぎないと歌っている、そういう意味のことを、この人自身もまた歌うように語る。同世代人として共感しました。
 そのような私たちに、主イェスは言われる。裸で良いではないか、「まず」注意すべきことは小ささではない。パン種だと、そう言って、小さいものの代表を取り上げられる。「二アサリオン」(12:6)とは、約10円と注解書にありました。それで5羽の雀が買える。しかもその中の一羽の雀、人間には一番安く見積もられるものを神はお忘れにならない。だから「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(12:7b)、どんなに小さくても大丈夫だよ、大きな神が忘れずに共にいて下さるから、と言われるのです。
 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」(12:2~3)、これは神が偽善を必ず暴かれる、という否定的意味と同時に、肯定的意味もあると思います。神は、この世から小さくされ、「暗闇」や「奥の間」(12:3)に押し込められ覆われている者を、御前に現して下さる。だからもう「人前」で背伸びする必要はない。神の前で生きようと、言われる。神学校にいた時、教授が改革者カルヴァンの神学の本質は、「神の前で」ということだと教えてくれた。ラテン語で「コーラム・デオ」(Coram Deo) と言うと、それが忘れられません。「人の前」でなく、「神の前で」生きることが、信仰の主題であると言うのです。人は誰も見ていなくても良いのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」(12:2)、私たちが、誰も見ていない会堂で奉仕する時、人知れず愛の業をなす時、そこでなお健康な心を維持出来るとしたら、カルヴァンの「神の前で」生きる、この信仰があってのことだと思います。
 自分の周りに人を集めて、その毀誉褒貶の眼差しに自分の人生の土台を置くことくらい危ないことはない。それは金の切れ目が縁の切れ目となるのではないでしょうか。今、団塊の世代が次々に隠退をする時代となりました。青年時代に高度経済成長、働き盛りにバブル景気を経験した人たちです。やがて日本は転落し、今、その男たちが老いて上げる、悲哀、孤独の嘆き節が聞こえてくる。地位と金の切れ目が、上座と挨拶の切れ目であり、友人との交わりの切れ目となった、ずっとメールの多さに苛立ってきたのに、退職した次の日から、朝、パソコンをどんなに立ち上げても、メール一つ入っていない。自分が大きかった時に浴びた注目、それはいとも儚い人の眼差しでしかなかった、それで良いのかと、主は言っておられるのです。

 そこで主イェスは弟子たちを、つまり私たちを、「友人であるあなたがた」(12:4)と呼んで下さった。私たちの友人はイェスなのです。この後皆で「いつくしみ深い」(讃美歌21-493)を歌います。「いつくしみ深い友なるイェスは」と繰り返し歌われます。関西弁の替え歌はこうです。「なんちゅう友なんや、イエスというお人は!」、この友は私たちの「うれいも罪をも、ぬぐい去られる」、この友は、「われらの弱さを共に負われる」、そして「世の友われらを捨て去るときも、祈りに応えて、なぐさめられる」、そう歓喜するように歌い上げられる。金の切れ目が縁の切れ目と言われるような世間の冷気の中、裸の身に寒さ寂しさが堪える、大きい時だけ友だちで小さくなれば去って行く、そういう中にあって、しかし、イェスさんだけは、あんたの永遠の友だと歌われている。「なんちゅう友なんや、イェスというお人は!」、私たちにはこういう友が与えられたのです。

 今朝の福音書の一連の言葉には、何気なく「三位一体」の神の姿が言い表されていると、説明する人がいました。そう言われれば、私たちを忘れない神(12:6)、それは父なる神のことです。12:4、私たちを友人だと(12:4)、「神の…前で…仲間である」(12:8)と言って下さる、「人の子」(12:10)、これは誤解され易いですが、子なる神イェスのことです、そして、聖霊(12:12)なる神が、この世の大きな者の前であっても、私たちを助けて下さる。その三位一体の神が、あなたにはついていると、ここを読むことが可能です。そうであれば、私たちは二重三重に守られているということです。ついに小さくなった、ついに一人になったと思った時、あにはからんや、私たちは、実は、二重三重の愛に包まれている。たといあなたが裸になっても、その体を父子聖霊の神が覆うのだろうと、約束される。
 「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(創世記2:25)とあります。最初の人間は裸を恐れなかった。恥じなかった、そう言われています。何故でしょうか、それは明らかに「神の前で」生きたからです。彼らが裸を恥じて服を発明するのは、原罪を犯した後だと書いてある。神の前から離れ、これからは、人の前で生きようとした時、人は自らを大きく見せる偽善(パン種)の衣を着なければ外も歩けなくなった。原罪を犯して、神の前を去った人間は、いちじくの葉で腰を覆った(創世記3:7)とあります。実に頼りない衣で身を覆った。そんなもの、人生の風雨で直ぐ剥がれてしまう。そんな頼りにならぬ偽善を捨てよと、御前に帰れと、その時、父子聖霊なる神が愛の衣をもって、私たちの裸を永遠に覆って下さるだろう、友よ、そうやって、孤独と心配から解き放たれて欲しい、そう、私たちに呼びかけて下さるために、御子はクリスマスの夜、お生まれ下さいます。何と嬉しいことでしょう。

祈りましょう。  父子聖霊なる御神、あなたの偉大なお守りを信じることが出来ず、この世の衣をまとうことに汲々として生き、そして老いてしまった、私たちを憐れみのうちに覚えて下さい。どうか今でも遅くないと信じ、直ぐ御前に帰る者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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