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2015年11月8日 主日朝礼拝説教 「夜も光が私を照らす」

2015年11月8日 主日朝礼拝説教 「夜も光が私を照らす」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 11:29~36


 「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。…」(ルカによる福音書 11:29)



 「今の時代の者たち」が欲する「しるし」とは、奇跡的御利益のことです。人は時に不幸に陥る。それは病気かもしれません。破産かもしれない。そのような悲劇から人の目にも鮮やかに救われる。具体的に癒される、宝くじに当選する。それを行ったイエスが栄光の王となってユダヤを支配する、そういう「しるし」を見せて頂いたら、イエス様、あなたがキリスト・救い主だと信じましょう、ということです。そういう御利益を欲する心に対して、主イエスははっきり言われました。「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(11:29)、このヨナとは、旧約聖書に出てくる預言者ですが、彼は大魚に飲まれる経験をするのです。真っ暗闇の中に3日置かれる。それが「しるし」との意味は、主イエスが、地上で奇跡を起こす教祖として君臨するのではなく、十字架につかれて死なれる。先週の永眠者記念日でも語りましたように、死者の国・陰府に3日くだられる、そのことこそご自分がキリストであることの「しるし」である、そう言っておられるのです。普通、自分が救い主ではないことの最も明瞭な「しるし」である十字架刑による死です。しかしイエスにとっては、それが救い主の「しるし」となる、そう言われているのです。この不思議な言葉はどういう救いの世界を言い表そうとしているのでしょうか。
 
 作家・五味康祐さんは、私たちがおそらく読むことはない夥しい剣豪小説や『五味マージャン教室』を書きました。しかしその同じ人が名著『五味康祐 音楽巡礼』を残したのです。五味は大変なオーディオ・マニアでした。原稿料の大半はレコードと高価なオーディオ機器に消えていった。その没入振りは凄まじかった。ヨーロッパに行った時はその初日に、高級機器を求めて所持金全部をつぎ込んだ。また自宅に巨大なコンクリートホーンを作り、長すぎて壁が突き抜けたとか、傍目にも異常なほどでした。
 しかしその理由の一端が、このエッセーを読んで分かるのです。五味は交通事故の加害者となりました。自分の運転する車で少年と祖母を轢き殺した。これは数ある人生の失敗の中でも、最悪の失敗であると思います。それはある意味、自分が死ぬことよりも恐ろしいことです。人生の陰府、罪の淵に、ついに彼は堕ちたのです。
 「事故の瞬間の光景を思い出す。私の車に飛ばされていった少年研治君の毬(まり)のような軽さや、凝視、絶望感、悔い、血、それが脳裏に甦ってくる。いても立ってもいられない。」
 彼は断筆し、家に閉じ籠もり、苦しみに耐えました。そして自分は死ぬまで、この罪から贖われることはないと思う。しかしそのような五味をかろうじて支えたものが、オーディオであり音楽でした。しかし音楽であればどれでも胸の騒ぎが鎮まるというわけでもない。その時、彼が手に取ったのが、モーツァルトの『レクイエム』でした。「何度、何十度聴いただろうか。聴き始めて暫くすると合唱がこう歌い出す。「主よ、永遠に安息を与え給え、絶えざる光を我らの上に照らし給え」、すると私のうちに或る安らいだ懐(おも)いがひろがってくる。本当は「彼らに安息を与え給え」と合唱は歌っている。しかし私には「我らに安息を与え給え」と聴こえる。私は罪の贖いを祈り求め、すがりつくように『レクイエム』を聴いた。その音楽の恩恵に浴しながら、私は、亡き人の四十九日を迎え、百ヵ日をむかえ、裁判を受けた。」そう書いています。
 あるいは事故後、『レクイエム』と並んで、五味が聴いたのは、マーラーの第二交響曲『復活』でした。その第三楽章でマーラーはアルト独唱にこう歌わせます。「自分は神から来て神へ帰らねばならぬが、愛する神は私に光を与えてくれるだろう」、そして五味さんは、これは「私に、負い目を背負ったままで生きてゆける勇気を与えてくれた音楽である」と、はっきり書くのです。負い目が奇跡的に解決されたのではありません。負い目を背負ったままで生きていける力が与えられた、と言うのです。
 五味の罪、そのどん底を支えたのは、「主よ、絶えざる光をわれらの上に照らし給え」という祈りであり、「愛する神は私に光を与えてくれるだろう」という望みの歌であった。この両者に共通しているのは、「光」という言葉です。その神の光の到来を歌う歌だけが、彼の人生の深淵を照らすことが出来た。もはや自分の上には金輪際光はないと、その漆黒の闇の中で頭を抱え込んだ時、ふと周りを見渡すと、なおそこに滑り込んでくる光が見えたと言うのです。御利益の朝が来たから光を見たというのではない。夜のままなのに、そこに光が射す。それは御子イエスが、ヨナのしるし・十字架で、人の罪を贖って下さり、陰府の底にくだられ、死人と共にいて下さることによって、私たちの現実となりました。

 今朝の交読詩編は、先週の永眠者記念日でも選ばれました。「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。」(詩編139:8)
 陰府にも光の神がおられるのです。五味さんはキリスト者ではありません。しかし、私は『五味康祐 音楽巡礼』を読み、その深い絶望の中で、神の救いの知恵を誰よりも深く知った人だと思いました。神の光を歌う音楽と、それを鳴らすオーディオを命懸けで追い求め、カール・バルトの弁証法神学も一所懸命勉強したと書いています。その激しい巡礼の姿勢は、私たちキリスト者がむしろ忘れている、ひたむきな求道心なのではないでしょうか。
 彼自身がバッハの『マタイ受難曲』を論じる箇所で、「自分は宣教師の言葉ではなく、この至高の音楽で洗礼をされるのだ」と言って続けています。「私の叔父は牧師で、娘はカトリックの学校で成長した。だが讃美歌も碌に知らぬこちらの方が、マタイやヨハネの受難曲を聴こうともしない叔父や娘より、断言する、神を視ている。」
 主イエスは、やはり神を知らないはずの異邦人・南の国の女王を、大変お褒めになっています。「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」(ルカ11:31)
 この女王とは、おそらくエチオピアと思われる遙かなるシェバから、王ソロモンの知恵を聴くために旅をして来ました。女王自身が解き難い悩みを抱えていたと思われます。その心の貧しさの中で、ソロモンに託された神の知恵を求めて、地の果てから巡礼してきたのです。しかし、主イエスが「よこしまだ」(11:29)と叱る、「今の時代の者たち」は、「ソロモンにまさる」イエスの言葉を聴くために、少しも旅は必要でなかった。イエス様がここにおられるのです。でも、来ようとはしない、聴こうともしない。そうであれば、異邦人である南の国の女王こそが、神の民イスラエルを「罪に定める」と主は大変悲しんでおられるのです。
 続いて主は言われます。「また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」(11:32)
 ニネベの人々とはやはり異邦人です。しかし、預言者ヨナの説教を聴いて悔い改めたではないか、しかしあなたたちイスラエルは、「ヨナにまさる」主イエスが説教をしても、悔い改めないではないかと言っているのです。いったいどちらが真の信仰者なのかと問われる。本当に神の言葉を聴くために、遙かなる旅の末、ついに光を見て悔い改めたのは、「今の時代の」(11:29)、キリスト者なのか、それとも、一度も教会には来なかったけれども、命懸けの「音楽巡礼」によって罪の贖いと、神の光を求めた人であろうかと、問うておられる。そして、おそらく、五味康祐の方が、私たちキリスト者を「罪に定めるであろう」(11:31、32)、そう今朝、主は私たちに向かって言っておられるのではないでしょうか。

 「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」(詩編139:11)、この交読詩編の終わりの言葉を、今朝の説教のタイトルとしました。不幸が具体的に去って光を見るという意味ではない。繰り返して言います。未だ夜です。しかし、その夜の闇の中で呻吟する私たちを照らすために、御子イエスはともし火を携えて来て下さいました。
 「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」(11:34)、「目が澄んでいれば」、この「澄む」とは、原文のギリシャ語を調べると、「単純な」、「純粋な」という意味の言葉です。英語では「シングル」と訳すケースもあります。ただ一つのものを見る眼差しという意味です。確かに川の水でも色々な物質が混じり込むと不透明になります。水質が複雑になる。この世の御利益という「しるし」を求めて、富み栄える、まさに「富栄養化」した水は濁ります。すると上からの光は遮られる。しかし、この世の利益が取り去られ、私に残るのはもはや虚無のみと覚える時、魂を浸す水は貧しくなり、それだけに水は澄んできます。
 山上の説教が思い出される。「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5:3)
 「貧栄養化」の中でだけ、太陽の光は川の深い淵にまで届くようになる。主イエスはここで、私たちに単純な目をもてと言われているのです。ただ一つを見ることです。ただ一つとはイエス・キリストのことです、この世の宝、御利益、その目に見える「しるし」に視線を散漫に巡らす、その豊かさの中で、私たちは神を一筋に見つめる、その「幸い」を失うと言われているのです。そうではなく、私にはもう何もありませんと、貧しいのですと、それだけに望みは、もはや一途に、神の知恵を求める巡礼の他にない、悔い改め一筋に神の光を見つめる他にない、そう思った瞬間、思いがけず全身が明るくなる。その人の全てが輝いてくる。光が入った透明な淵、その全部が青く輝き始めるように。
 私たちの人生の夜、罪と死の淵、しかし、キリストが十字架につかれ、陰府にくだって下さった以上、そこにも光は射す。私たちは、決して暗闇の底に独りで投げ出されているのではない。目を見開いてみれば、もう恵みの光に包まれている自分を見出すことが出来る。その光を私たちから奪うことは、もはやどのような「夜」でも出来ません。この救いの「しるし」が与えられたこと、それは何と安心なことでしょう。

 祈りましょう。  主なる神様、皆、病気が癒されるわけではありません。皆、思い通りになるわけではありません。しかし、むしろそのような試練、その貧しさの故に、神の光を見る「シングル」の眼差しが、この一度だけの人生に与えられたことを、かけがえのない慰めと覚える私たちでありますように。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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