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2015年11月15日 主日朝礼拝説教 「真の幸いへの招き」

2015年11月15日 主日朝礼拝説教 「真の幸いへの招き」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 11:43~44


「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ。…」(ルカ11:43~44a)


 今、私たちは水曜夕べの聖書研究会祈祷会においてエレミヤ書を読んでいますが、その19章でエレミヤは主から「預言者的象徴行為」を行うことを求められます。それに従い彼は、陶器師の壺を買い都エルサレムの陶片の門を通って谷に下り壺を砕きました。陶器の壺は一度砕いたら元に戻れないように、真の神を捨てた都も同様であると預言した。壺の砕け散る音が谷に響き渡る、無残な欠片がエルサレムの人々の目に飛び込んでくる、それは演説だけでは得られない深い印象を都民に与えたに違いありません。神は現在の視聴覚教育に通じる象徴行為を用いて私たちを戒め、そして幸いの中に招こうとされるのです。
 昔の大学教授は黄色くなったノート一冊を持って独り言のような講義をして平気でした。しかし今の大学ではそれは通用しないそうです。パソコンや映像、時にはパフォーマンスを駆使して学生を眠らさないようにする。牧師の説教もそうなる時代も間近かもしれません。しかし神様は大昔からプレゼンの努力を惜しまれませんでした。それ程神様にご苦労をかけるのは、私たちが神の言葉にどれ程迂闊であるか、鈍いか、眠るか、その罪深さの裏返しであります。

 ファリサイ派の人から食事の招待を受けられた主イエスは、食前に「身」を清められませんでした(ルカ11:38)。汚れていると言われた異邦人や罪人、病人に、道を歩いていただけでどこかで触れてしまうことがある。その汚れを洗い流して食卓に着く、そう掟で定められていました。その清めを主はされない。わざとです。その「象徴行為」をもって主はファリサイ派の人々にどうしても学んでもらいたいことがあられたのです。主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(11:39)、随分厳しいことを言われました。しかし私は思います。主はここで、時に敵対的であったファリサイ派に復讐をしようと思われたのではない。先に言いました。最近の先生がそうであるように、主は分かってもらいたい、どうしても記憶に止めて欲しい、「不幸」(11:43、44)ではなく、神から「幸いなるかな」と呼ばれる人になって欲しい、そのためには、外側ではない、内側の汚れ(罪)を清めようではないかと、その一心のパフォーマンスであられたと思います。 
 ファリサイ派の「偽善」(12:1)を問われるのです。偽善とは同じ罪の中でも特に質が悪い。外も内も汚れていれば偽善にはなりません。自他共に汚れていると認められ、だからこそ、そこから切実に救って欲しいとイエス様の所に馳せ参じるに違いない。それならイエス様にプレゼンの御苦労はない。「悔い改めよ」、そう一言呼びかければ、その人は乾いた海綿が水を吸収するように、御言葉を豊かに内側に充たしてしまうことだろう。しかし、表面はきれいに洗ってある、見た目の清さ豊かさの故に自己満足している義人を、悔い改めに導くことは至難の業です。
 「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(18:25)
 だからイエス様は苦労される。パフォーマンスだけではない、言葉も尽くされます。長い(11:37~12:3、計19節!)だけでなく、考え抜いた具体性に富む事例を挙げながら指摘されます。私たちはこういう主の御努力に対して、愚かな学生のように、先生がどんな準備しても、ただ長い、つまらない、眠くなると、反応するのでしょうか。それともここに師なるイエスの私たちに対する深い愛と配慮を知って感謝するのでしょうか。それは毎主日、教会で私たちが御言葉をどう聞くのか、その姿勢が問われているということです。

 主が用意された偽善の事例の一つは奉献の話しです。「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一」(11:42)とありますが、ファリサイ派は律法が定める奉献を厳守しました。勿論、イエス様は人の奉献、献金を軽んじません。「もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならない」(11:42b)と言われた。しかし見える所では正しい奉献が出来るあなたたちが、その内側においてはどうかと、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(11:42)ではないかと叱られるのです。どうしてそうなってしまうのかと言うと、ファリサイ派の人々が「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」(11:43)と洞察されました。彼らは、いつの間にか自分が何の「目的」でファリサイ派に献身したのか忘れた。それは最も重要な掟を守るためであったはずです。「心を尽くして主なる神を愛する」ことです。「隣人を愛する」ことです(マタイ22:37~39)。ところがファリサイ派はその高位の身分に付与された、「会堂では上席に着くこと、広場で挨拶されること」、それを「好む」(11:43)のです。それが目的に取って代わった。ギリシャ語原文では、神と隣人を「愛する」(アガペーの動詞)、その同じ言葉がこの「好む」です。だから英語聖書はここをはっきり「ラブ」と訳した。上席や挨拶を愛(アガペー)した。そうであれば、彼らは、上座と慇懃への愛のために、身を清め、十分の一献金に励んだのだと主は洞察したのです。「あなたは何と立派な献身者でしょうか。どうぞ上座へ」と尊敬を集めることを誉れとし、その中で彼らは隣人だけでない、ついには神よりも自分が上席に着くことを愛したのではないか。掟によって誘導された、その高慢の必然として、「正義の実行と神への愛はおろそかに」(11:42)されました。

 使徒パウロも言いました。「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。…掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」(ローマ7:8~11)

 『ワイルドスワン』という有名な作品、著者は、張戎(ユン・チアン)というイギリス在住の女性です。日本軍の侵略から始まり、国民党と共産党の内戦と中華人民共和国の成立、そして文化大革命に至る家族3代に亘る大河ドラマが、特に女性の視点から描かれています。革命後未だ比較的良質だった中国共産党初期、著者の父親がその代表ですが、共産主義の理想に向かって、まさに心を尽くし、力を尽くして邁進している。ところがその時代ですら、既に人間の低次元のライバル心や「妬み」による理不尽な粛清が起こっていました。今「妬み」と言いましたが、主のご批判、「内側は強欲と悪意で満ちている」(11:39b)、この「悪意」を、ある人は「妬み」と意訳しました。強欲の故に、あれも欲しい、これも欲しいと思うようになる。しかし自分がどうしても手に入れることが出来ないものを、彼は手に入れている。その妬みの中で、ライバルを共産主義違反者と密告し葬り去る、その心の延長線上で文化大革命も始まります。それは表面やはり共産主義理想によるブルジョワ精神の一掃、労働者階級の名誉回復の徹底と叫ばれる中、しかしそこでなされた吊し上げは、まさに人間の嫉妬の正当化の舞台であった。難癖を付け自分より優秀な者や尊敬されてきた教師や芸術家を引き摺り下ろす快感に酔った。まさに反知性主義です。その文革を推進した毛沢東とその妻・江青こそ、神のような絶対的身分の保持の「強欲と悪意」によるライバル抹殺に突き動かされていたとありました。この文革による被害者は1億人、死者は当局の発表で40万人、実際は1000万人に上るとの説もあります。
 いったいマルクスの夢見たユートピアはどこにいったのでしょうか。主イエスがどうしてここまでファリサイ派を問わずにおれなかったのか、どうして象徴行為まで用いて下さったのか、それは偽善が、人と世界を不幸にするからです。「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」(11:44)、自分の内部だけが汚れた墓になるだけでは済まない、それに気付かない者が、あなたとの接触の中で汚れる、あなたの内側の汚れ、その不幸に巻き込まれる。毛沢東によって救い難いほど中国が腐敗したように。その生き方を改めてもらいたい、自分が神のように愛され、神以上の上座に着くことを求めるのではなく、神を愛し隣人を愛する掟、そのファリサイ派の理想に帰って下さいと、主は心を尽くして呼びかけて下さるのです。

 『ワイルドスワン』を出版して、一躍世界的作家に躍り出た張戎は、それから10年後、若い頃神として崇拝した毛沢東を徹底的に糾弾する歴史書を出版しました。江青は、1991年、無期懲役刑の中で自殺しました。誰よりも自分が愛されることを求めたこの夫妻は結局、誰にも愛されずに終わりました。
 主は言われます。「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。…正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。」(11:42)、ある人は、この「神への愛」、ここは「神からの愛」とも訳せると指摘しています。そうであればここは「神からの愛を無視して生きているではないか」という意味になると言うのです。その解釈を取れば、ファリサイ派の人たちは、もっと人から愛されたいと、もっと挨拶を、もっと上座を、との強欲の中で、もう充分与えられているはずの「神からの愛」を無視しているのだ、それが不幸の原因だという意味になります。そんなに高くなくて良いではないか、弱く小さい罪人であっても良いではないか、それを認めれば、主イエスが十字架によってその罪を贖って下さることが分かるようになる。未だ愛が足りない、未だ挨拶が足りないと、もう妬む必要はない。神が御子を通して、どれ程「アガペー」の挨拶をあなたにかけて下さっているか、それを知るだろう。どれ程汚れたとしても、御子イエスがそれを御手をもって拭って下さる。自分の義によって自分の汚れを清めることは私たちには出来ない、ただあの出血の止まらない女性(8:43)のように、重い皮膚病の男(5:12)のように、主イエスに触れて頂くことを求めたら良い。心の扉を大きく開き、あなたの内にアガペーを溢れるほどに注ぎ込んで頂きなさい。そうすれば、あなたは清くなる。魂は充たされる。その愛の充満の中で、それ以上、上席も挨拶も何も必要なくなる、だから妬む必要なない、競争もない、そこで最も重要な掟を真実に守る教会を私たちは作り始めることが出来る。隣人はもう妬みの対象ではない。愛の対象となる。そこに共産主義者であろうとキリスト者であろうと、同じ人間の「幸い」が生まれる、それを求めよう、主はそう今朝のプレゼンを通して、心を尽くして私たちに教えて下さった。何と幸いなことでしょう。

祈りましょう。 主なる神、私たちの根深い汚れの故に、あなたの善き掟まで利用し、自分を高め隣人を貶める私たち偽善者を、御子の贖いの故に赦して下さい。その愛(アガペー)の故に偽善から解放されて、あなたと隣人を愛する、幸いに生きる私たちとならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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