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2015年10月4日 主日朝礼拝説教 「神の国を祈り求めよ」

2015年10月4日 主日朝礼拝説教 「神の国を祈り求めよ」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 11:1~13



 「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください。」(ルカ11:1)との弟子の願いに応えて、主はこう祈りなさいと教えて下さいました。「父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。…」(11:2)

 高名な政治家に森喜朗さんがおられますが、彼が首相だった時、「日本は天皇を中心とした神の国」と発言して大変批判されました。しかし、それから10数年が経過して現れた「自民党憲法改正草案」前文は、いきなり「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」と、森発言を彷彿とさせる言葉をもって始まっています。さらに第一条で「天皇は、日本国の元首である。」、第三条「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。」と憲法冒頭で畳みかけてきます。このような方向で憲法改悪がなされれば、やがて「日本は神の国」と呼ばない私たちキリスト者は、再び非国民と罵倒されるようになるかもしれません。最近、現実に「週刊新潮」(10月1日号)が、SEALDS(シールズ)の中心的メンバー奥田愛基君の父親・奥田知志牧師を非難する記事を掲載しました。嫌でも目に飛び込んでくる、「新潮」の中吊り広告には、「『SEALDs』奥田君の父は『ホームレス支援』の反天皇主義者」とありました。本当に奥田牧師が反天皇主義者かどうかは定かでありません。首相の靖国参拝を批判しただけだそうです。たとえ反天皇主義者であっても何が悪いのでしょうか。不敬罪とでも言うのでしょうか。そのような思慮のない記事が、その後、右翼による奥田愛基君とその家族への殺害予告という犯罪を煽ったのです。

 アジア・太平洋戦争時の国民学校2年の音楽教科書に、こういう歌がありました。「日本よい国、きよい国。世界に一つの神の国。」その教師用の指導書にはこうあります。「我が日本の世界無比の国体を歌わせ、国民精神を昂揚し、愛国の熱情を養う。」あるいは3年生の修身はこうです。「世界に、国はたくさんありますが、神様の御血筋をおうけになった天皇陛下が、おをさめになり、限りなく栄えて行く国は、日本の他にありません。」
 明治初期の日本の教会は、主イエスが教えて下さった「御国が来ますように」、この祈りに応えた社会的発言や平和への取り組みが、実行されてきました。しかし天皇制が強化されるにつれて、教会は内向きに引き籠もっていきます。「神の国」という福音書の言葉は、日本では全く同じ言葉で「天皇の国」、「神国日本」を表現するために、両者は衝突する概念となりました。そのため、戦争中、教会の説教の中から「神の国」という聖書の言葉は消滅したのです。1930年の信濃町教会教会献堂記念礼拝における高倉徳太郎の説教題は「神の国と教会」でした。その中で高倉牧師は、「教会は神の国の牙城でなければならない」とさえ説教しました。ところが、翌年から、高倉牧師は神の国について語らなくなりました。満州事変(1931年)が勃発し、15年戦争に突入したからであると、古屋安雄先生は指摘しています。

 しかし御子はここで、「父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。」(11:2b)と、神の国の到来は、父の御名を崇めつつ祈り求める他はないと、教えて下さったのです。天皇の元首化、さらに再び神格化して崇めても、日本が「神の国」になることはあり得ません。御名を崇めなければならないのです。仮に日本が経済軍事的に富み栄え、あの唱歌のように世界無比の国、かつてのローマ帝国のようになったとしても、それが「神の国」ではありません。天皇や皇帝でも、ドイツを「第三帝国」(理想国家)と称したヒトラーでも、人間が神の国を生み出すことは出来ません。逆にそれら人間の野望は、地獄を作り出しただけで終わったのです。だから御子は、人間によって神の国を来たらせる、そのような幻想を捨て、真の神の国の到来を、ただ父なる神に祈り願うよう私たちに教えて下さったのです。

 ここで「成人した世界」という神学的概念をあえて皮相的に用いれば、それは現代人が幼年期を終えて成人したのだ、という意味です。それは人間の神々からの解放を意味します。子どもの頃は、父親に日常的におねだりをします。「あれが欲しい」と。願いが叶えられるためには、ひたすら父に頼る他はありませんでした。しかし子どもは成長すると、当てにならないお願いより、自分でアルバイトをして、さっさと欲しい物を手に入れるようになります。成人して就職でもしたら、父の所に電話一本かけてこなくなる。成人すると父は用無しとなる。そうやって「成人した世界」の中で、もう我々人間は、父なる神から独立し、祈る必要はなくなりましたと、あげくに自分たちで神の国を作ると豪語するようになる。
 しかし、そう「俺は大人だ」と高ぶる私たちに対して、御子は言われます。「子供たちをわたしのところに来させなさい。…神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ18:16)と。今朝の御言葉でも、父と子の関係を強調されます。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は…」(11:11~13a)と。
 人間の父でさえ、これくらいのことはする。まして天の父は、あなたがたに最良のものを下さる、だから子どもの心をもって、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(11:9)、これらは御子による、私たちを神の子の祈りの世界へと導こうとする、大いなる招きの言葉なのです。
 
 ルカ11:5節以下にある譬えですが、先ず旅人が真夜中、目的地に辿り着きます。宿屋もない。そこで友達に助けを請うたところ、友達は彼を家に迎え入れたまでは良かったのですが、自分の家の中を見渡したら、旅人に与えるパンがなかった。それでさらに別の家に行って、「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」(11:5b~6)、そう願う他はなかった、そういう物語です。 つまりこれは、欠乏の物語です。旅行者が欠乏し、友達の所に救いを求めたら、友達もまた欠乏していた。この2人は途方に暮れている。頼った方も頼られた方も、その飢えを満たすことが出来ない無力の中にいた。これが私たち人間の姿ではないか、所詮、人間が人間に頼っても限界がある、その絶望の闇が、「真夜中」(11:5)と表現されているのではないでしょうか。第3の友、つまり神のところに行って、パンを求める以外に光は射さない、と。

 旧約聖書には、小国ユダが大国の侵略を恐れて別の大国に頼る、それはある時はエジプトに、ある時はバビロニアへと、安全保障を求めて右往左往する姿が描かれています。しかしその時預言者は、人に頼ってはならない、「主に信頼せよ」、と訴えました。しかし王は理解せず、大国との軍事同盟に活路を求め、結局、国を滅ぼしてしまう、その歴史が延々と旧約には記されています。人間である友達に頼っても互いの飢えは満たされない、しかしそれで絶望ではないと、未だ救いが残ると、それは祈りだと、幼子のようになって父に、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」(11:3)と、「しつように頼め」(11:8)と、その時、「必要なものは何でも与えられる」(11:8)、そう御子は約束して下さるのです。

 以前、国際飢餓対策機構の先生が、この祈りを大変重んじていると言われたことを思い出しました。ここで祈られているのは、「わたしに必要な糧を」(一人称単数)ではない。「わたしたちに必要な糧を」(一人称複数)であると強調されました。どれ程この世界が飢餓に侵されているか、それと対照的に、どれ程日本人が病気になるほど飲食しているか、この日本の繁栄と世界の飢え渇きは直結していると語られました。どうしたらいいのでしょうか。途方に暮れる。
 この御子の譬えの中のパンの欠乏とは、私たちの現実に直せば、私たち日本にもパンがないから、他の国で飢えている人を助けられないという話ではありません。パンは捨てるほどあるのです。しかし何故か隣人に分け与えることが出来ないのです。国内でも同じです。今、日本の子どもの貧困率は16%だそうです。特にシングルマザーなど一人親家庭の貧困率は55%という、国際的に見ても際立って劣悪な状況です。母子飢餓に直面する家庭、自動販売機の裏で暖を取って寝ていた幼い兄弟、車上生活のすえ座席でミイラ化した子ども、夏休みに痩せる小学生は学校給食だけが唯一の食事だからです。日本は貧困から子どもを救うための公的支出が世界最低と指摘されます。日本に食べ物がないからではありません。金がないからではありません。2016年度の防衛予算要求は、5兆円超と過去最大となりました。

 「わたしたちの罪」(11:4)、その高慢とエゴイズムが、この矛盾を生み出しているのです。私たちの隣人に対する無関心と社会構造悪、それが合わさって恐るべき格差社会を国内外で作り上げたのです。私たちは自分の罪をどうすることも出来ない、罪を犯しながら食べるのです、飲むのです。社会問題に取り組めば取り組む程、私たちは首相のことをあげつらう以上に、自らの罪と弱さと悲惨に向き合わざるを得なくなります。自分もまた世の矛盾を作り出している一齣である、その現実を、平和運動をすればする程突き付けられ、くずおれるばかりになる。どんなに神の国の平和と正義を求めても、人間は余りに罪深く弱い、それを知った絶望の真夜中、私たちに最後に出来ることは祈ることだけです。「わたしたちの罪を赦してください、」(11:4)、「父よ、…御国が来ますように。」(11:2)、その幼子の祈りによって、もう一度、神の国のために立ち上がる力を、光を、上より得るために。

 教会における祈祷会の衰退が言われて久しい。それは、私たちが自らの本質的渇望を忘れてしまったからかではないでしょうか。どこかで、自分は成人したと思っているのではないか。その高慢の罪を悔い改め、御子に導かれ神の子の祈りを共に捧げましょう。

 父なる神様、どれ程、世界と自分に絶望しても、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(11:13b)、この御子の約束を信じ、聖霊の助けによって、この世を御国に少しでも近づけるために、諦めず、働く、私たち西片町教会とならせて下さい。

 (御言葉に励まされて、皆でこの後、「来たれよ、聖霊、鳩のように、冷えたる心にくだりたまえ…われらの心を燃やしたまえ」(讃美歌21-350)と、心熱くして歌った。)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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