日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2015年1月11日 夕礼拝説教 「主よ、今日、我らに安息を下さい。」

2015年1月11日 夕礼拝説教 「主よ、今日、我らに安息を下さい。」

説教者 山本 裕司 牧師

ヘブライ人への手紙3:7~19



 今夕の言葉にこうありました。「だから、聖霊がこう言われるとおりです。『今日、あなたたちが神の声を聞くなら…』」(ヘブライ3:7)。手紙の著者は、聖霊がこう言われる、と言って、旧約聖書の詩編95:7の言葉を引用したのです。「今日」と。これは、荒れ野のモーセが民を導いた3300年前の「今日」なのでしょうか。それとも、その故事を思い起こしつつ、詩編95編が書かれた、ダビデ王時代、その3000年前の「今日」なのでしょうか。あるいは、この手紙がある教会に書き送られてきた、2000年前の「今日」なのでしょうか。そのように、この御言葉を傍観者的に読むことは出来ないのです。何故なら、この著者は、オリジナルの詩編にはないことですが、「聖霊がこう言われている」(3:7a)、そう解釈したからです。聖霊とは、今ここに働く神の霊のことです。そうであればこの言葉は、今日、2015年1月11日、午後6時15分、この瞬間の私たちに向かって語られた、聖霊御自身による戒めの言葉なのであります。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」(3:7b~8)

 先祖の反抗とは具体的にはこうです。「イスラエルの人々は彼ら(モーセとアロン)に言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)、あるいは、「民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」(出エジプト17:3)、そうイスラエルは神に反抗しました。実際は、神は常に、荒野であっても、それは肉鍋ではないかもしれない、マナやウズラをもって、必要な食糧は十分に与えられました。水も岩からほとばしらせ、イスラエルが渇かないように配慮して下さったのです。ところが、民は、荒野の40年の旅の最中、神はもっと豊かに遇するべきだと、エジプト同様の肉鍋と、おそらくあの蕩々と流れるナイル川を恋しく思った。しかし、その時、民は奴隷だったのです。荒野の今は確かに、質素な生活ですが、自由なのです。ところが、今、奴隷でも良いから、あの肉鍋と無限の水が欲しいと言ったのです。

 聖霊は、今日、私たちに語っていると言いました。多くの日本人が、昨年末の衆院選挙において、「この道しかない」と経済発展を約束する与党を支持したのです。しかしこの政権によって、原則、武器輸出を禁じてきた日本が、「防衛装備移転三原則」と欺瞞的にも名称を変更し、武器輸出を可能としたことを、投票者は忘れたのでしょうか。それはイスラエルなどへのF35戦闘機部品などの武器関連技術輸出の可能性を開く「道」であります。そうであれば、私たちの日本は、まさに、今日、長尾有起牧師から聞いた、パレスチナの慟哭、痛みに荷担する者として、益々、憎悪とテロの対象国となる、そのリスクを覚悟しなければならい年に突入したのです。この道の先にあるものは、余りにも明らかに、もう一度、日本が軍国主義という悪魔の奴隷となる道です。
 モーセを悩ませた荒野のイスラエルは、水不足に対しても怒りました。中東戦争の背景には、ヨルダン川の水を巡る、イスラエルと隣国との対立があるとも言われます。戦争に勝利したイスラエルは、一方的にパレスチナの水資源を支配し続けています。イスラエルは、占領地地下にある滞水層から、その利用可能水量の8割以上を奪い消費している。一方、パレスチナ人は、ヨルダン川の水利用を禁止されるなど、様々な抑圧によって恒常的な水不足に悩まされていると報告されます。ガザの住民は、浅井戸による塩分濃度の高い水しか得ることができない。その一方、イスラエル人入植地では、水泳プールが整備され、灌漑用水としてふんだんに水が消費されていると言われるのです。しかも、昨夏の51日間に渡る戦闘によって、ガザの給水施設や井戸が破壊されました。
 しかし、これは、遠い国の「今日」でもない。今日、長尾先生が繰り返し「イスラエルと日本はシンクロする」と言われた。そうであれば、この悲劇は私たち日本の「今日」でもある。私は昨年、北支区の仲間と下北半島の核施設研修のツアーに参加して衝撃を受けました。特に、下北半島の本州最北端にほぼ完成した大間原発はMOX燃料、つまりプルトニウムを混ぜた燃料のみで燃焼させる、安全性も確かめられていない世界初の原発です。その大間で、畑を耕して自然と共に生きてきた熊谷あさ子さんは、様々な嫌がらせを受けても、電力に自分の土地を売りませんでした。やがて、近隣周辺の土地は全て買収され、あさ子さんの土地の周りは、高いフェンスが張り巡らされたのです。それは、まさに、イスラエルが建造した21世紀の万里の長城、あの恐るべき分離壁を連想させるのに十分です。それでも、あさ子さんは、いちごを育てていました。いつものように近くの沢に水を汲みにいったところ、これまで豊かに流れていた沢が枯れていたのです。原発会社が山を削って、水の流れる方向をわざと変えたからでした。水がなくなったので、いちごもキャベツも大根も死にました。
 どうしてイスラエルや日本がこんなことになってしまったのでしょうか。「彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった」(3:10)からです。「この道しかない」と言って、「わたしの道」、神の安息の道を認めなかった。「そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」(3:11)、だから何度正月を迎えても、私たちに安息は来ないのです。

 NHK・ETV特集「2014 ガザからの報告 ~イスラエル・パレスチナ紛争~」の中で、国連での議論が映し出されました。イスラエルの蛮行に対する抗議の中で、イスラエルのロン・プロソール大使は、そこで、聖書を手に高く掲げて、「聖書には、四千年に及ぶユダヤ人の歴史と『イスラエルの地』について詳細に書かれている。イスラエル国民は占領者ではない、入植者でもない」と訴えました。つまり、ここは神が私たちに約束した土地なのだ、聖書にそうあると発言した。しかしそのように、ユダヤ教という大変尊敬すべき宗教と、その「正典」を、イスラエル国家のナショナリズムのために道具化することが許されるでしょうか。ヘブライ大学教授で、正統派ユダヤ教信者のイェシャフ・レイボヴィフは、「民族的な自負を強固にする目的で、ユダヤ教やトーラーを利用することは、冒瀆と紙一重である。彼らがいわゆる『大イスラエル』政策を自らの信仰の本質からくると言うなら、それは、はっきり、金の子牛の崇拝者なのだ。」そう喝破したのです。教授が言及した、「金の子牛」とは言わずと知れた、出エジプト32章に記される物語です。シナイ山の上で、モーセが十戒を与えられている最中、山の麓で、民が、真の神ヤハウエを捨て、目に見える金の子牛を作った。そして「イスラエルよ、これこそ我々の神々だ」と叫んだのです。教授は、今のイスラエル・ナショナリストは、この出エジプト記の中で叫んだ者たちの後継者となると断じました。「金の子牛とは、必ずしも金で出来ているとは限らない。それは、「民族」、「土地」、「国家」との名称を冠することもあるのだ。」(ヤコブ・M・ラブキン教授『イスラエルとは何か』78頁)、おそらく教授は、大使が聖書を掲げて、ここが我々の神の約束の土地だと主張するのなら、同時に、同じその聖書に記される、十戒「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」(出エジプト20:13~17)、あるいは、「あなたたちの神、主は…人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」(申命記10:17~19)、こう戒めるユダヤ教の本質はどうなったのだ、あなた方はこの聖書「トーラー」に「反抗」(ヘブライ3:15)しているではないか、それは金の子牛に跪いたからではないかと、言うと思う。

 「そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」(3:11)、「いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。」(3:18)、つまり十戒に従わなければ、安息はない。

 私は、「ガザからの報告 ~イスラエル・パレスチナ紛争~」を見て、イスラエルの余りの非人道的攻撃に怒りを覚えました。しかし、ある一人のイスラエル人「平和運動家!」のインタビューを見て、一方的にイスラエルを非難することだけで問題は解決しないとも思いました。イスラエルは何故、圧倒的な攻撃力をもって、ガザの民間人を殺害したのか。どうしてそうなったのか、彼は、ハマスのロケット弾や、自爆テロによって、我々は、一日とて安心することが出来ない。今の我々の感情は、誰かが自分の体に針を何度も何度も刺し続け、ついに怒りが爆発したという状態なのだ。その爆発は誰にもコントロール出来ない、誰かが子どもを殴り続けて、その親の怒りが爆発し復讐するようなものだ、もうそこに思慮も理性も及ばない、その爆発で翌日何が起こるか分からない、そう苦衷に満ちた顔で言う。
 憎悪の連鎖です。そして、映像は、ガザ攻撃を支持して、ヘイトスピーチを発するイスラエル人青年の姿が映し出されるのです。同時に、ガザの子どもたちの死骸です。破壊し尽くされた町です。「いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。」(3:17)、今日、私たちにはどこにも安息はない。「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」(3:19)、真の神を信じず、金の子牛に跪き、土地、金、肉、水を、必要以上に求めた、その貪欲の奴隷状態とは、人生で最も大切な安息を、悪魔に売り渡すことと一つなのです。

 では、どうしたら良いのですか。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―」(3:12~13)、そうやって、生ける神「キリストに連なるのだ」、憎悪の連鎖でなく、今日、励まし合うこと、慰め合いの連鎖を、キリストにあって作り出そうではないか。主イエスが、どれ程のヘイトスピーチを受けても、そして、それこそ、針を一本、一本、刺されるように、棘の鞭で打たれ、棘の冠を被せられても、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈られた、そうやって、私たち罪人を励まして下さった。私たちは、聖書を掲げて、ここにこう書いてある、そう国連でもどこででも言わなければならないと思う。そうやって、人生最大の喜びである安息を求める2015年でありたい、そのように願います。

 祈りましょう。   主なる神様、今日、私たちは、金の子牛から、飼い葉桶の御子イエスを拝する者に、立ち帰ることが出来ますように、そして安息を与えて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



a:982 t:1 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional